東方黒豹

- アジアン・ブラック・パンサー -

第三回
                      

 ランタオ島までは、海路で一時間五十分の道のりである。
 香港島から、二箇所の港へ向けて定期航路が繋がっている。一時間に一本という便利の良さで、週末はハイキングの若者でにぎわうフェリーだ。
 しかし今回はスピードが最優先。しかも隠密行動を事とする、というわけで、警察の快速艇を借用することにした。アイアン・李のポリスカードを見ただけで、水上警察は理由も聞かずにランチを用意してくれた。香港警察で一番早い艇だという。
「一緒にいるのが東方黒豹だと知ったら、もっと感激したでしょうねぇ、あの警官たち」
「誰がそんなこと信じるかよ」
 マイケルの戯れ言に、仏頂面でアイアンが答えた。
 一方、話題の東方黒豹はといえば、快速艇に乗るのは初めてだとかで、楽しそうにへさきで風を受けていた。じゃあ、海を渡るときはどうしていたのかと問えば、船をこいで行くというから空恐ろしい。そういえば香港へも汽車で来たと言っていたし、英雄というには慎ましい生活ぶりである。
「まあ、それもそうでしょうね」
 マイケルなどは、深く納得したものだ。
「ヒーローだって、給料をもらって正義を守っているわけじゃありませんからねぇ。さっき聞いてたんですけど、事件のないときは中国奥地の小さな村で養豚をして暮らしているそうですよ。政府の依頼で事件を片づけたら、報償として金一封がもらえるんだと、嬉しそうに言ってました」
「なんだかなあ……」
 まさに本人の言う通り、東方黒豹というよりは、パオちゃんと呼ばれた方が似つかわしい。
 パオは、さすがに今はシャツと半ズボンの明るい農村ルックは改め、黒い詰め襟の、身体にぴったりフィットした服に身を包んでいた。そうしていると流石に、彼の身体のしなやかさと強靱さが感じられた。黒豹のあだ名は、このコスチュームから来ているのだろう。
それでも、彼の中身が純朴な青年であることに変わりはない。
「あーあ。この年になって、スーパーヒーローと悪の首領を倒しに行く羽目になろうとはなぁ」
 アイアンは頭を抱えた。
「悪の首領ってのは、もっとわかりやすい悪事を働くものですよ。ほら、スクールバスを誘拐したりして。現実の悪人っていうのは、もっと複雑なものでしょう」
「プロに向かってきいたふうな口をきくな」
 したり顔のマイケルを小突いておいて、アイアン・李は少し真面目な顔をした。
「現実の悪人だって、考えることは他愛ないもんだ。ハイジャックとスクールバスの誘拐とは、規模と内容に差はあっても、志においては同じことだろ。今回の事件だって同じさ。手口はともかく、根っこのところは、何もかも自分のものにしたいと思うガキの心理から始まってるのさ。やり方が凶悪だからといって、それに目を奪われないことだな」
 それだけ言って、顎を腕にもたせかけてパオの方へ目をやる。
「ま、少なくともあいつは、目先のことに惑わされたりはしないだろうな」
「それって、黒豹を褒めてるんですか?」
「馬鹿にしてんだよ」
 あいつは真っ直ぐで、裏の裏まで疑ってみるなんてタイプじゃなさそうだからな、とアイアンは吐き捨てた。頑固な男で、けっこうパオの真面目さが気に入ってるくせに、自分でそのことを認めようとしないのであった。
 パオの方は、そんな気取りはないから、無邪気にアイアンになついていた。
「李警部の噂は、聞いたことがありますよ。麻薬組織を一人でつぶしたんでしょう。すごいなぁ」
 呑気にそんなことを言って、素直に感心している。アイアンは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。この照れ屋のひねくれ者は、人に褒められるのは苦手なのである。おべんちゃらを述べたてる警察関係者やマスコミならともかく、真っ直ぐにそう褒められては、殴るわけにもいかない。
「ほんっとにトボケたガキだな、お前は!」
 怒鳴りつけてから、アイスボックスからジュースを取り出して、叩きつけるように渡した。
「おら、飲め。海上警察の心尽くしだとよ」
「わぁ!」
 たかが紙パックのジュース一本に、パオは目を輝かせた。側面にストローが装着されているのを見て、また歓声を上げる。とうとうマイケルが笑いだしてしまった。
 そのマイケルは、船の中でも研究を続けている。データを元に仮説を組み立て、病気の原因を探っているのだ。
「あの恐ろしい奇病を治すことができれば、少なくとも犯人の野望を阻止することはできるでしょう」
 ニヤリと笑って、二人にウインクした。
「犯人逮捕の方はお任せしますよ」
「ふう」
 アイアン・李が大袈裟にため息をつく。
「こんな坊やと二人じゃあ、荷が重いなぁ」
 だが、その後すぐにパオがただの身の軽いだけの坊やでないことを、証明する機会がやってきた。
 最初に発見したのは、パオ自身だった。
「あの、李警部」
「アイアンでいい」
「……アイアンさん。向こうから、妙なランチが向かってきます」
 アイアンは言われた方角へ目をやった。確かに、えらくスピードの速いランチがこちらを目指してやってくる。ぶつかっては大変、と慌ててアイアンは双眼鏡をのぞいてみた。するとそのランチの船腹には、香港警察のマークが見える。
 なんだ、とアイアンは笑った。
「あれは水上警察の巡視艇だ。きっとこちらに気がついて挨拶に来るんだろ」
「違います」
 パオは言下に否定した。さすがに、アイアンはムッとした。
「今朝、香港についたばっかりのお前が、俺の眼力に意見しよってのか? 文句があるならお前も双眼鏡を使って、この船のマークとよく比べてみやがれ!」
「そうじゃなくて」
 パオはもう、アイアンの方は見ていない。じっと、追ってくるランチを見つめている。その目は、さきほどまでの彼とは別人のように鋭かった。さながら、獲物を狙う豹のような輝きだ。
 これもまた別人のような低い声で、パオは言った。
「船室の壁に貼ってある航路図には、水上警察の全てのランチの経路が記されていました。あんなところを通るランチはありません。万が一、我々に連絡があって追ってくるなら、あんなふうに左前方から現れるはずがありません。水上警察の基地から連絡をしたとしたら、今の位置で一番近い分署は右手にあるはずです」
「じゃあ、あのランチは!?」
 こんなときなのに。
 パオは、ニヤリと笑った。
「そりゃあもちろん、敵でしょう」
 ちらりと見ただけの航路図をいつの間にか頭の中に収めていたのも驚きなら、その洞察力にも舌を巻くしかなかった。アイアンはそのときになってようやく、この若者がただの坊やでないことを理解したのである。
「------- 来る!」
 叫んで、パオは海面に身を躍らせた。
 片腕ではアイアンを抱え込み、もう片方の手でマイケルの首っ玉を掴んでのダイナミックなダイビングだ。
 間一髪、快速艇の横腹にランチが激突した。トン数はそれほど差がなくても、ぶちあたって来た方のスピードが勝る。快速艇は呆気なく横倒しになった。のんびり乗っていたら、巻き込まれて怪我の一つはしていたところだ。
「おっ、俺は泳げねぇんだ!!」
 意外や、悲鳴と共に助けを求めたのはアイアン・李であった。死に物狂いで水をかいているのに、ぶくぶく沈んでいく。しがみつかれたマイケルもたまったもんじゃない。いくら大柄だといっても、人ひとり支えて泳ぐほど、マイケルも泳ぎが上手なわけではない。パオが助けてくれなかったら、二人で沈没するところだった。
「これに捕まって!」
 ぐいぐい二人を引きずって泳ぎ、大回りをして快速艇の前方へ回る。桁の張り出しを握らせておいて、だしぬけに二人の頭を水の中へ押しつけた。
「ぶわっ!」
 抗議したくても、水の中では抵抗できない。
 何しやがる、と言いかけたとき、すぐそばの海面をダダダと銃弾が走って、アイアン・李も黙り込んだ。
 ランチは三人のすぐそばを、物凄い勢いで通り過ぎた。体当たりでも三人が無事だったことに、いたく不満の様子である。しかし海上では小回りがきかないので、次の攻撃までに間が空いた。そこが狙い目だ。
「じっとしていて下さい」
 パオは、二人の安全を確認した後、大きく抜き手をきって泳ぎだした。わざと水を撥ね散らし、敵の注意を引きつける。
「あ、あそこだ!」
「撃て、撃てっ!」
 二種類の声が聞こえて、遙か沖合でランチが方向転換した。スピードを出せば出すほど、向きを変えるには時間がかかる。それも考えないで、体当たりした後も全速で走るとは、海には素人の集団であることの証拠だ。
 敵は三人、とパオは推測した。
 声は二つだったのに、なぜ三人か。無論、運転している者がいるからである。運転者も仲間だ。船上の二人が特に命令した様子もないのに、真っ直ぐに今度はパオを目掛けてやってきた。
 パオは、わざと海上に首を突き出して待った。
 たちまちランチはパオの脇を通り抜けた。甲板の二人は、機関銃を連射した。物凄い水柱が上がったが、パオは動じなかった。揺れる船の上から小さな目標を狙って狙撃するのは、プロでも難しい。慌てて逃げた方が、かえって当たる確率が高くなる。
 そのかわりパオは、銃撃と共に派手な悲鳴を上げ、水の中へ深く潜った。
「やったぜ!」
 ランチの男たちが歓声を上げる。水中のパオには、それは聞こえなかったが、そう誤解させるためにやったわけだから、くるんと丸まって、薄く笑った。
 小魚の大群が、びっくりした顔でパオの下を過ぎていった。パオは手を振って、彼らにあいさつした。
 それから、キッと鋭い目になって。
 イルカのように鮮やかに身を翻すと、ちょうど目の前をものすごいスピードで通りすぎた縄の端を掴まえた。
 ぐうん、と引きずられる。それも作戦のうち。
 パオの目は、さきほどランチがアイアンたちと自分のそばをかすめたとき、そのランチの尻に水上バイク用の縄が結び付けられているのを、捉えていたのだ。
 これらの縄は、水上バイクを係留しないときは、スクリューに巻きつくおそれがあるため、外しておかなければならない決まりである。この点からいっても、乗っている連中が海を知らず、しかも、この警察ランチをついさっき盗んで襲ってきたことは一目瞭然。
 危険なほどのスピードで引きずられながらも、パオの腕は縄をしっかり掴んで離さなかった。一見するとそんなに鍛えてあるようには見えないパオだが、全身の引き締まった筋肉が持つ底力は、並みの人間の常識では計れない。
 しかも、パオはその姿勢で、海面には目から上だけを出して敵に気づかれないようにする、といった芸当までこなしていた。
「三人ともやったか?!」
「ともかく、黒豹の死体が浮いてくるのを待とう」
 策略のかいあって、船上の連中は、そのパオを背後に引き連れていることには全く気づいていない。またしても大きく迂回し、銃弾をたたき込んだ場所へと転回し始めた。
頃合いを見計らって、パオは縄をたぐりながら船体に近づいた。腕の力もさることながら、一歩間違えばスクリューに巻き込まれる危険も冒しているというのに、パオは楽しそうだ。まるでハイキングで山登りをしているかの如き気安さで、あっという間に船腹にたどり着いた。
 少し考えて、奇襲攻撃をかけることにする。
 縄を長めにもって、身体を斜めにした。
 足のバネにものを言わせて、思いっきり船腹を蹴った。
 鮮やかに宙へ飛び上がり、縄を支柱代わりに、見事な大回転をみせた。上空でくるっと身体の向きを入れ換え、勢いに任せて縄から手を放す。遠心力を利用して、甲板へ飛んだ。
 驚いたのは、男たちである。
 今しも死体を探していた相手が、いきなり自分たちの目の前に着地してきたのだ。まさに、彼らの目にはパオが天から降ってきたように見えた。
「ば、化け物だっ!」
 気の弱い方が逃げ腰になった。
 そのときはすでに、パオは戦闘体勢に入っていた。呆れたことにまだジュースのストローをくわえている。気の弱い男の腕に、ぷっとストローを吹いた。そう力を込めたようには見えなかったが、ストローは見事、男の手に突き刺さった。
「わぁぁぁっ」
 男はぽろりと機関銃を落とし、逃げ出した。その襟首をひょいと掴み、引き寄せておいて回し蹴り。男が悶絶したときには、すでにランチの壁を蹴って、屋根に飛んでいる。際どいところを機関銃の銃弾が追った。
「てめえ、殺してやる!」
 もう一人のアニキ呼ばわりされていた方は、さすがにまだ落ち着きがあった。弟分がやられるところなど、ろくに見もせずに銃でパオを狙った。パオが屋根の上で死角に入ったので、舌打ちをしながら自分も縄梯子にとりつく。しかし、慣れない船上で、揺れながら梯子を登るのは容易ではない。
「畜生、船を止めろぉっ!」
 室内に向かって怒鳴ると、操舵手が慌ててエンジンを切った。すぐには止まらないが、とりあえず横揺れだけは収まった。ほっとして、男は再び縄梯子を掴んだ。
「ばあ」
 その眼前に、パオが現れる。舌を出して、べろべろばあ。
 呑気な恰好だが、これも信じられないアクロバットではある。パオは片足だけを屋根に残し、ぶらんと身体を倒してみせたわけだ。男が驚いたのを見て嬉しそうに笑うと、ふいっと支えの足も外してしまった。
 男の両肩を掴んでの、見事が宙返り。しかもひねりを入れて斜めに飛び、甲板に見事、着地する。
「うをっ!?」
 あまりのことに、男は足を踏み外した。
 パオが腕を出して支えようとしたのだが、彼はそれを断固として拒否した。それどころか、腕をはねのけて、後甲板の方へ走りだしたのである。噂通りの、いや、噂以上の東方黒豹に恐怖を感じたのであろうか。逃げ場はどこにもないというのに、闇雲に逃げ出した。
 彼にとっては不幸なことに、そこでエンジンが完全に切れてしまった。この種のランチは静かに止まらず、停止のとき、がくんと前方へ走る。
 男はバランスを崩し、海へ落ちた。
「おっ、俺も……」
 それを予定の行動と勘違いしたのか、操舵手も後を追った。いさぎよく海へ飛び込み、彼の方は威勢良く、抜き手をきって泳ぎ出した。
「あーあ」
 パオは困った顔をした。
「これだけ大騒ぎをした挙げ句、派手に泳ぎだしたりしたら、たいへんなことに……」
 言ってる間にその、たいへんがやってきてしまった。まっしぐらに進んでくる、三角の背びれ。
「ひぃぃぃぃっ!」
 パオが助けようにも、不幸な操舵手は離れすぎていた。香港の周囲で餌を漁る、人食いザメの群に囲まれ、あっという間に、血のあぶくと共に姿を消してしまった。
「た、助けてくれえっ!」
 アニキ分の男は悲鳴を上げて、両手両足をバタバタさせた。こちらの方はパオに近い位置にいたので、おとなしくしていれば助けられただろうに、やるに事欠いて水面を叩いて、サメを呼ぶ形になってしまったから仕方ない。
 パオが飛び込む前に、こちらの方も哀れ、サメの餌食になってしまった。
 たまらないのは、転覆した船に取りついているアイアンとマイケルである。
「パオ、パオっ!」
 アイアンはさすがに肝を据えているが、マイケルは恐慌状態である。先人の愚行にまるで学ばず、ばちゃばちゃと水を撥ね散らかして助けを呼んだ。
 もちろん、すううっとサメは方向を変えて、二人の方へ向かってくる。
「馬鹿ヤロ、呼ぶやつがあるかっ!」
 さすがにアイアンがマイケルの頭を殴りつけた。
「ぼやっとせずに、船の上へ登るんだよボケっ」
 おたおたするマイケルを、アイアンは先に転覆した船の腹の上へ押し上げようとした。だが、ウェイトの差があって、なかなかうまくいかない。マイケル自体が、でかい身体をしているくせに、運動神経はからっきしで、さらに足手まといになる。
「おら右足そっちへかけて!左手で支えて!!」
 子供に教えるようにして、アイアンが肩でマイケルを押した。横目でぐんぐん迫りつつあるサメを睨む。危機一髪だが、何とか間に合いそうだ。
 パオはそのときすでに、操舵室へ飛び込んでエンジンをかけたところだった。サメは、自分たちより激しい勢いで突進してくるものに対しては、回避行動を取る。泳いで助けに行くよりは、ランチで進路を横切った方が、効果的な助けになると判断してのことだ。
 問題は、どうやってランチを運転するかであった。
 パオはもちろん、ランチに乗るのは初めてである。中国奥地で純粋培養されたこのスーパーヒーローは、人工物にはいたって弱い。ううん、と唸って、とりあえずキーをひねってみた。幸いなことにそれでエンジンがかかった。
「なんだ、車と同じなんだ」
 実は車を運転したこともないのだが、政府の役人が汽車の駅まで乗せてくれたので、運転の仕方はちゃんと見ていた。確か、アクセルを入れてハンドルを回せばいいんだ。
 そんな半端な知識で運転されるランチの方も、たまったものではない。
 まさに暴れ馬のような風情で、ランチは突進を始めた。
 一方アイアンはといえば、ランチの行方などに構っている場合ではない。見れば見たで、その恐ろしい運転ぶりに恐怖したことだろうから、それでよかったのかもしれないが。彼の全神経は現在のところ、マイケルをいかに助けるかに集中されていた。
 ようやく、マイケルがはい上がった。
「よっしゃあ!!」
 勝利の雄叫びと共に、自分もはい上がろうとした。サメはもう、目前にまで迫っている。一刻の猶予もならない。
 だがここで、またしてもマイケルが失策をしでかした。
「あっ、すいません」
 もっと上に登ろうとして、振り回した足がアイアンに当たってしまったのだ。まさか上空から攻撃されるとは夢にも思わなかったアイアンは、見事な蹴りを顎に食らって、仰向けになって再び海へ墜落した。
「危ない、李警部!!」
 自分でやっておいて危ないもないものだが、マイケルは船にしがみつき、殺到してきたサメに恐怖の叫びを上げた。アイアンも、まさに眼前に迫ったサメの獰猛な顔に、思わず目をつぶった。



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