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東方黒豹 - アジアン・ブラック・パンサー - |
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| 第四回 |
血の匂いが混じった生臭い空気が周囲に満ちた。 あわや英雄アイアン・李、一巻の終わりかと見えたが。 「アイアンさんっ!」 もう一人の英雄が、突っ走るランチから身を躍らせた。 ランチは操舵軸を縄で固定され、そのまま海上で大きな円を描いて走り続ける。 パオの方は、サメの真っ只中へ躍り込んだ。 「そらっ!」 アイアンに向けてあんぐり口を開けたサメの、その開けた口の中へ腕を突っ込む。虚を突かれたサメの身体を、そのまま力任せにひっくり返して海面に叩きつけた。 手近のサメのひれを掴んで、何と乗っかってしまう。 サメはいきなり自分にまたがった騎手に仰天し、大きく跳ね上がった。残りのサメもその後を追う。 「上がって待ってて下さい!」 陽気な声を残して、パオはサメと共に水中に沈んだ。アイアンは目を丸くして見送るしかない。手伝おうにも彼はカナヅチなので、やむを得ず言われた通り船に上がった。 マイケルの隣に並んで、海面を見守る。 マイケルは顎が外れたのかと危ぶむほどに、口をあんぐり開いていた。アイアンだって、マイケルがいなければそんな顔をしたいくらいだ。どこの馬鹿が、素手でサメに立ち向かったりするだろう。それをあの、東方黒豹という若者は! もう二人にできるのは、祈ることしかなかったので、信じてもいない神様に祈りながら、水面を見張り続けた。 中では闘いが行われているらしく、ときどき海面が揺らぎ、泡が昇ってきた。 「……五分たったぞ」 潜水を生業にしているシンガポールの真珠採りだって、素潜りでは六分が限界だと聞く。いくら東方黒豹が常人より優れているからといって、体内に酸素ボンベを内蔵でもしていない限り、そろそろ限界のはずだ。 かたずを呑んで、二人は待った。 そのとき、一匹が白い腹を見せて水面に浮かんできた。 続いて二匹、三匹。 周囲に血の色が広がる。 ごぼごぼごぼ、と水の泡がわき起こり、ぶはっと水を吐きながらパオが顔を出した。 へなへなへな、とアイアンは腰をついた。力を入れて舳先を握っていた手が、切れて血がにじんでいるのに、ようやく気がついた。マイケルも安堵のあまり、尻餅をついている。 さすがにパオも苦しかったとみえて、しばらくは水面に浮かんだままで荒い息を吐いていた。それにしても、人食いザメと渡り合った後とは思えないほど元気ではある。 「船を取ってきますね」 しばらくして息を整えると、周回運動を続けているランチの方へ泳いでいってしまった。 「……参った!」 アイアン・李は完敗を悟った。 悔しいが、あれは本物のスーパーヒーローってやつだ。 パオは難なくランチに乗り込み、機首を回してアイアンたちの待つ方へやってきた。その操船は、見るからに危なっかしい。アイアンは苦笑して、大声で操船方法を外から指示してやった。ランチは何とかアイアンたちの脇に止まった。 乗り込みながら、妙にマイケルが感心した。 「そういえば、泳げないくせに操船だけはご存じなんですね」 「警察学校で一通りは習わされるんだよ」 「水泳は習わなかったんですか」 「うるせえ」 またしてもアイアンに殴られたマイケルは、触らぬ神にたたりなしとばかり、船室へ逃げ込もうとした。入り口のところで、気絶した男を蹴って転びそうになる。 「誰だ? こいつ」 「あ、忘れてた」 呑気にパオが言った。 説明を聞いて、アイアンが目を輝かせた。 「ようっし! これで黒幕の正体がわかるぜ」 「黒幕って、何の?」 「馬鹿だねお前は。こいつらがただの気まぐれで、警察のランチを盗んで俺たちを追ってきたと思ってんのか? どう考えても、俺たちをランタオ島に近づけまいとする陰謀だ」 「しかし、我々を狙っているという確証はないでしょう? 無差別に狙ってるのかもしれませんよ」 「無差別に狙うんなら、こんな小さな快速艇を目掛けてやってこないで、定期船に仕掛けをするはずだろ」 話のわからん奴め、とアイアンが拳を固め、マイケルは情けない悲鳴を上げて頭をかばった。パオがくすくす笑いをしながら、気絶した生き残りの半身を起こした。 アイアンがマイケルに顎をしゃくった。 「悪人の詮議は俺たちの仕事だ。お前は病人の世話が本業だろ。早いとこ気付け薬でも使って、こいつを起こしてくれ。うまくすりゃランタオ島の事件の犯人がわかるかもしれんぜ」 「しし、しかし私の薬は全て、快速艇の方に乗っていたので……」 「その辺を探してみろ。警察のランチなら、救急セットが装備されているから」 「いえ、その必要はないでしょう」 二人の会話を制したのはパオだ。起こした男の背中に向けて、えいっ、とばかり気合いを入れた。 中国にいう、気功法というやつだ。身体の点穴を辿り、自在に操る。パオは気功にも熟練していた。 魔法のように男は意識を取り戻した。ぼんやりと周囲を見回す。 アイアンは思わず、軽く口笛を吹いた。 「ここは……」 呆然と呟いて、男はパオに気づいた。ひい、と悲鳴を上げて逃げ出そうとする。しかし、腰が抜けてすぐ転んでしまった。みっともない恰好で、彼はじたばたした。 その胸ぐらを掴んで、引きずり上げたのはアイアン・李だ。 「お前の仲間は、サメに食わしちまったぞ」 別に彼が計画を立ててサメに食べていただいたわけではないのだが、ものは言いよう。先制パンチの効果はてきめんで、男はすぐに血の気をなくし、半泣きになった。 見れば、まだ二十歳過ぎという感じの若者である。服装こそアロハシャツにダボズボンというチンピラルックであったが、根はそれほどの悪人ではないらしい。ぶるぶる震えながら手をすりあわせる姿は、微笑ましいぐらいだ。 「お、お願いです、助けてください! 俺は……俺はただ、アニキに命令されて、それで……」 「そんなことはいいんだよ」 アイアンは、当たると痛そうな拳を若者の目の前にかざした。 「誰に命令されて俺を襲った。言えば許してやらんこともない」 「し、知りません」 「嘘を言うな!」 「本当です、本当に知らないんです! あ、アニキは知ってたと思うんだけど、俺は聞かされてません。聞いても、アニキは答えてくれませんでした」 涙を流しながら裾にすがりついてぺこぺこする、彼に嘘があるようには見えなかった。何より、こんな頼り無さそうな奴に秘密を漏らすようなドジは、どんなチンピラだってしないだろう。 「どうする?」 アイアン・李が途方に暮れた。 「これじゃ、手掛かりはないも同然だ」 「そうですねぇ、もしかしたら、李警部を個人的に恨んでいる奴らの仕業かもしれませんよ。ほら、李警部は水上警察でポリスカードを見せたじゃないですか。そこから、香港マフィアにあなたの動きが知れたのかも……」 マイケルがしたり顔で言う。アイアンは嫌な顔をしたが、もっともな意見なので反論はしなかった。天下の英雄、アイアン・李が人前に出ないのは、マスコミ嫌いの他にも、マフィアの報復を警戒するという理由があった。どんな敵でも恐れはしないアイアン・李だが、そのために周りの人々が巻き添えになることを心配しての配慮だった。 「違うと、思います」 パオが口を挟んだ。 「だって彼らは、僕のことを知っていた」 「何だと?」 アイアンが顔を上げた。その顔に、パオが頷いてみせた。 「兄貴分の男が、僕を見て言ったんです。東方黒豹、と。つまり彼らは、僕が船に乗っているのを知って、それを狙って襲ってきたということになります。僕がランタオ島に行くのを恐れる人物といえば今は一人しかいないでしょう?」 「なるほど。道理だ」 「もう一つ、仮説が成り立ちます」 これは少し気が進まぬ調子で、パオは続けた。 「僕が香港に来たことを知っているのは、あなたたちの他には警務處長と、ランタオ島の警察署長しかいません。なにに彼らは、僕が今回の事件に関わってきたことを知っていた……」 言葉の意味に気づいて、アイアンは目を危うくおっことすところだった。それくらい驚いたのだ。 つまり、犯人は、もしかしたら……。 「もしランタオ島の署長が他人に僕らのことを漏らしていなければ、犯人はこの中にいる、ということになります」 「お、俺は違うぞ!」 「私もですよ」 憤然として、アイアンとマイケルが言い募った。パオはクスクス笑って、首を振った。 「とにかく、ランタオ島で警察署長に会ってみましょう。話はそれからですよ」 「ぼ、僕は……」 忘れられてしまったチンピラ君が、恐る恐る手をあげた。 「ああ、そんな奴もいたな」 何も知らないとなったら、アイアンの扱いは冷たい。厄介な荷物を見る目で睨み付けるから、チンピラ君は震え上がった。隅っこで土下座して、顔を床にすりつけた。 「こ、殺さないで下さい! 二度と悪事には荷担しません、ちゃんと仕事に就いてまともに働きます、休みの日にはボランティア活動に参加します!」 面白いので、アイアンはしばらくそのまま放っておいた。この様子から見ても彼は、散々に懲りたようである。こういう奴を監獄へ放り込むと、かえって悪い奴らに影響されて、チンピラやスリに成り下がってしまうことが多い。さて、どうするかなとニヤニヤ笑いしながら見下ろした。 それを、若者は最期通告と受け取ったようだ。辺りはばからずべそべそと泣き出した。 「俺にはランタオ島に、大事なばーちゃんがまだ生きてるんです。俺が殺されたらばーちゃんはどうなってしまうか……」 常套手段の泣き落としだったが、純なヒーローにはけっこう受けた。パオはふと興味を感じたようで、若者の前にしゃがんで顔をのぞきこむ。 「君はランタオ島の生まれなのか?」 「はっ、はい!」 「僕は、ランタオ島に行くのは初めてなんだ。道案内をしてくれると助かるんだけど」 若者は涙に汚れた顔をパッと輝かし、今度はパオに向かって何度も頭を下げた。パオの方で鼻白むほどの感激ぶりである。 「ありがとうございます黒豹さま! 俺、今までの罪をつぐなうためにも必死で働きます!」 「黒豹さまだなんて……パオでいいよ」 パオは照れた。 「君の名前は?」 「フランク・張ですっ。でも、黒豹様のお好きな名前で呼んでくさって結構です! たとえポチでもミケでもかまいませんっ。ウスノロと呼ばれても、どこまでもついて参ります!」 たいへんな心酔ぶりである。 まさかアイアン・李だって彼を殺す気はなかったので、パオの好きにさせてやることにした。何たって命を助けられたのだから、立場が弱い。 しかもアイアンは、この若者を連れ歩くことにより、戦略的価値をも見いだした。兄貴分がフランクに依頼人の名前を話したか話さなかったか、犯人にはわからないことだ。生き残りを大事そうに引き連れているのを見れば、もしや手掛かりをつかんだのではないかと不安に思うことだろう。そうして、フランクを殺そうとしてくれれば、好都合。一網打尽にしてやる。 と、かように、香港生まれの英雄は、考えることがセコいのであった。 アイアン・李はしかし、自分がセコいとはこれっぱかしも思っていない。自分の洞察に十分満足して、ふところから煙草を取り出してくわえた。 「何たって今から、最大の容疑者のところへ乗り込むんだからな」 何度かチャレンジしたが、水にざぶんと浸かった煙草は、ものの役に立たなかった。アイアン・李はたいへん不機嫌に、その煙草を床へ吐き捨てた。 ランタオ島の埠頭が見えてきた。 |
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