東方黒豹

- アジアン・ブラック・パンサー -

最終回

「待て! やめろ!」
 階段の途中からすでに、アイアンの叫び声が聞こえてきた。彼にしては珍しく、悲鳴のような情けない声だ。
 これは、よほど大変なものがあるらしい。
 最後の三段を、パオは一飛びで駆け上がった。
 階上へたどり着いて、我が目を疑った。
 強いていえば、そこは時計の裏側に似ていた。強大な歯車がゆっくりと回り、重りが巻き上げられる。噛み合った歯車と歯車の間には、皮のベルトがゆっくりと行き来している。
 そのどれもが、通常の十倍の大きさなのである。
 まるで自分が小人になって、ぜんまい仕掛けの中へ迷い込んでしまったようだ。
 一足、踏み出そうとしてバランスを崩した。危ないところを、隣に立っていたアイアンが支える。
 床が続いていると思われたそこは、何と階下まで吹き抜けの機械仕掛けになっていた。いや、階下どころか、地価深くまで仕掛けは続いている。遙か下に、光るものがあった。恐らくは、長年の間に溜まった雨水か地下水だ。
 この屋敷全体が、一つの大きな仕掛けをカモフラージュするためのものだったわけだ。
「驚いたようだな、東方黒豹!」
 声に顔を上げると、歯車と歯車の中程、差し渡された梁の上に、バランスをとってマイケルが立っていた。
「これが何だと聞きたいようだね。教えてやるよ。今、ちょうど李警部にも説明していたところさ」
 にやぁ、と顔いっぱいに笑みが広がった。
「これはね、香港中に病原菌をまき散らすための、発射台だよ」
「な……」
 真偽を図りかねて、パオは言葉を詰まらせた。周囲を確認するがあまりに大きすぎて、かえって何の機械か判然としない。ちょうど地図中の大きな文字が、大きすぎるゆえに文字として読みとれないのと同じだ。
 マイケルは、嬉しそうにパオの驚きを見物していた。
「何もかもお見通しのスーパーヒーローも、私の犯罪の動機までは言い当てられなかったな。私は別に、権力も金も欲しくはない。FAXを送ったのは捜査を混乱させるためと、単なるイタズラさ。こんな街、どうなろうと知ったことか」
 そこでマイケルはふと、遠くを見る目になった。
「……私の親父は、どうしようもないろくでなしだった。人を恨み、世を恨み、自分を勘当した親を恨み、自分たち一族を追放したも同然の街、香港を恨み ------- そのせいかな、私も、こんな街は大嫌いだ。中国に取られてしまう前に、自分の手で滅茶苦茶にしたら、どんなに気分がいいだろうかと思った。それだけさ」
「そうかな」
 戯れ言に、真面目にパオは答えた。
「綺麗な街だと、僕は思う。綺麗なものは、守りたいじゃないか」
 きっぱりした返答に、マイケルは気を呑まれたようだった。まじまじとパオの顔を見つめて、少し微笑んだ。
「そうか……」
 声を出さず、肩を僅かに震わせて静かに笑う。
「お前は、そう思うか?」
 泣いているようにも見えた。
 しばらくそのままで、三人は対峙した。
 ごとん、ごとんと歯車の動く音だけが無機質に響いた。
 やがて、マイケルが呪縛を破った。
「この上のレバーを下ろせば”青き死”がビクトリア・ピークから香港島全体に振りまかれる! 東方黒豹、お前にとっては余所の土地のはずのこの街を、守りたいならば私を止めてみせろ!!」
 言い残すなり、さっと背を向けて梁を駆け上がっていく。勝手知ったる、といった動きであった。咄嗟に後を追おうとしたアイアンを、パオが引き戻した。
「李警部はフランクを連れて、逃げて下さい! 僕が後を追いますから!」
「し、しかしお前なぁ……」
 言いかけて、アイアンはパオの目に押し切られた。
「わかった。気をつけろよ」
 アイアン・李はさすが警察官だけあって、そこらの英雄気取りの連中とは違い、分業の尊さを知っている。そうすることが全体のためになるならば、己の感情を押し込めることも。
 だから、アイアン・李は元の部屋に戻るなり、気絶したフランクを肩にひっ抱えて一目散に走りだした。
 パオの方はひらりと梁に乗り、これまた一心にマイケルを追う。複雑な機械の間を、鮮やかな身のこなしで乗り越えた。行程の半ばでマイケルに追いつき、不自然な態勢のまま蹴りを見舞った。 もちろん、これは威嚇。彼の足を留めるのが目的である。
「うぬっ、こいつ!」
 マイケルは振り返って、憤怒の形相を見せた。大柄な体格にものを言わせて、蹴りを胸で止め、その足を掴んだ。力任せにパオの身体を振り回し、歯車に叩きつける。
 年代物の木製歯車が壊れたが、パオもそうとうのダメージは受けた。しかも、そのまま歯車の破片と共に、遙か底へ落下しそうになった。危ないところで柱を掴み、一回転して身を起こした。
「マイケル・周! もうあきらめろ!」
「あきらめるだと?! 何をあきらめるって?!」
 その、パオに向かって容赦なくマイケルは銃を発射した。狭い空間で、跳段することも恐れない。パオは大きく身体を振って、すぐ下のベルトの上へ飛んだ。銃弾は柱の接合部分で弾け、マイケルの頭の上へ跳ね返ってもう一つの歯車を砕いた。
 もはや崩壊は避けられない。
 機械は、それぞれの部分が正常に働いてこそ、その能力を発揮するものだ。それが、二人の格闘であちこちで不気味なきしり音をたて始めた。
 がくん、と中央の大きな歯車が外れた。倒れながら、自分の周囲の機械仕掛けをもなぎ倒していく。
 パオは、鞍馬の選手のように障害物を乗り越えながら、マイケルのところへ近づこうと努力した。マイケルは、どこか恍惚とした表情で、足元の大豊界を見つめている様子だ。
 ばらばらと、天井も剥がれ落ちて、かけらが降り始めた。何十年も前の機械は、ようやく土に還る権利を得て、その権利を早急に行使しようとしていた。
 眼下に迫るパオに向かって、歌うようにマイケルは呟く。
「ずっと昔から私は……死に場所だけを探していた」
 微笑みさえ、浮かべて。
「お前なら、申し分はない」
 くわっと目を見開き、歯を剥きだした。
「死出の道連れが、欲しいと思っていたところだ!!」
「勝手なことを言うな!」
 パオは怒鳴り返した。
「死ねばすむと思ってるのか! 僕は、そんな考え方をする奴は大嫌いだ!!」
「ならば、止めてみろ!」
 マイケルは絶叫して、何と、その大きな身体をさっと中に投げ出した。真っ直ぐに、パオを目指して落下する。言葉通り、パオを道連れにして飛び降り自殺の構えだ。
 パオは一歩も退かなかった。ぐっと唇を噛みしめ、不安定な足場で精一杯に体勢を整え、腕を差し出し。
 マイケルの身体を、身体で受け止めた。
 ウェイトの差に加えて、落下速度が加わり、さすがのパオもバランスを崩して、足を踏み外す羽目になった。マイケルの身体を抱えたまま、機械の中を落下する。幾つか部品を身体で破壊しながら、何メートルかを一気に落ちた。火花が飛び交い、薄暗い機械仕掛けを明るく照らした。
 すでにそれは、破滅への一途を辿っていた。
 修復はおろか、自己崩壊をとどめるすべさえない。剥がれた部品が雨あられと降り注ぐ様は、この場にはそぐわない、一大叙事詩をすら思わせた。
 がくん、と大きなパイプが外れた。
 続いて、付随する部品のほとんどに亀裂が入り、スローモーションのように分解した。
 その大きな部分品の一つが、パオの背中を直撃した。
「あいたっ!」
 場違いな悲鳴を漏らしつつも、しっかり掴んだ腕は放さない。
 彼は驚いたことに、片腕を桁の一本に巻き付け、残りの腕ひとつでマイケルの腕を掴んでいるのだった。宙ぶらりんになったマイケルの足は、まだ地下三階の下にある地面からは、何十メートルもあるとみえた。
 さすがのパオも、この状態を保つのが精一杯だ。
 腕の筋肉は限界まで酷使され、ぶるぶると震えながら、タイムリミット近しと持ち主に訴えている。彼の全身からは汗がふき出し、マイケルの腕を伝って流れ落ちた。
 そのマイケルは、パオの腕を掴もうともせず、ぼんやりと遙か下を眺めていた。
「……放すがいい。どうせ俺は、生きてはおらん」
 全身の力を抜いて、うっすらと笑う。
「ようやく、死に場所を作れた。こうやって、だらしない親父の夢の跡に埋もれて死ぬのが、俺にはふさわしい。……ああ、治療薬のことが心配なのだったら、あれは三階の書斎の……」
「黙れ!」
 苦しい中から、パオは怒鳴った。
「僕は聞かない! 患者を助けるのは、あんたの仕事だ! だから生きて、ここから出るんだ!!」
 咎めるような目で、マイケルを見下ろして、パオはなおも叫ぶ。壊れ続ける機械の轟音に負けないよう、精一杯の声で。
「ずっと死に場所を探してきたって言ったな! そんなくだらないことのために、ここまで努力できるんなら、今度は全力で生き場所を探せよ! この綺麗な街に、あんたのいきる場所は、まだまだたくさんあるだろう?!」
 マイケルは仰天して、目を見開いてパオの言葉を聞いていた。
 それから、くしゅくしゅと顔を歪ませて泣き笑いの顔になった。ほんの少しだが、嬉しそうにも見えた。
「お前が思うほど、この街は優しくはないんだがな……」
 呟くような声だったが、さきほどまでの投げやりな口調とは、ちょっとだけ違っていた。
 それを感じ取って、パオも笑った。
 歯を食いしばり、腕をきしませ、あちこちから血を流しながら、それでもニヤリと。
「苦しいからこそ、人生っていうのは価値があるんじゃないか!」
 まったくもって、ごもっとも。
 スーパーヒーローに憧れるのは、彼が常人以上の力を持っているからではない。他人のために危険に飛び込み、苦労をいとわず全力をふりしぼって、精一杯に生きている、その生き方に憧れるわけで。
 悪人であろうと何であろうと、憧れることに変わりはない。
 マイケルは、まぶしそうに片腕をかざしながら、自分を必死で支える青年を見上げた。
 だが、いくらパオが英雄と呼ばれる人物であろうと、限界というものはある。汗で指は滑り、力は出し尽くされようとしていた。
「ど……こかに、掴まれるか?」
 息を弾ませながら、マイケルに問う。全てが崩壊する中で、何をも頼れないことは承知の上だ。それでも、努力せずに死んでしまうわけにはいかないから、パオはあがく。
 そのとき、天から助けの声が。
「パオ! これにつかまって!!」
 甲高い女の声は、とても天使のものとは思われない。レナだ。レナが三階の機械塔への入口から顔をのぞかせ、縄を放った。ぎりぎりと扉に巻き付け、しっかりと握る。
 間一髪の救いの手であった。
 レナはあの後、しばらくはおとなしく外で待っていたが、屋敷の内部で銃声が響いたとたん、待っていられなくなったのだ。彼女は玄関から堂々と乗り込み、そのせいで、撤退するアイアン・李とフランクには出会わなかった。もし出会っていたら怒られて外へ連れ出され、ゆえにパオを助けることもできなかっただろう。
「独断専行だって、たまには人の役に立つものよ!」
 彼女は鼻高々であった。
 縄は十分な長さを保ち、パオとマイケルのところまで垂れ下がった。
 問題は、パオがその縄に掴まる腕を、持たないことである。
「私を放して縄に掴まれ!」
 マイケルが叫んだ。
「できないものは、できないよ!」
 パオは叫び返した。その拍子にずずいとまた腕が滑る。危険なくらいに落ちかけていながら、パオは冷静に計画を練った。
「いいかい、マイケル。君が縄を掴んでくれ。そしたら僕が手を放すから、僕を受け止めて。できるね?」
 マイケルはたまげた。
 パオは自分の身体を、マイケルの判断ひとつに預けようというのだ。そんな技、信頼しあっている人間同士でも、恐ろしくてできない。
 しかし、パオは待っていなかった。
「いくよ! 一、二……」
 三、の声は三人が同時に発した。
 叫ぶと共にレナは全力で縄を巻き付けた端を掴んで外れないようにし、パオはいさぎよく腕を放した。
 そして、マイケルは。
 咄嗟に縄を掴むなり、もう一方のたくましい腕で、パオの身体をがっしりと受け止めた ------ 。

                         

 獣人化した囚人たちは、マイケルの調合した解毒剤によって、元に戻された。
 桃色地区の人々は、刑務所の汚物処理の仕事をしていた。そこでマイケルが密かに廃棄した注射器のかけらに触れて発病したものと思われた。
 マイケル・周は当然のことながら死刑を宣告されたが、死刑廃止の機運高まっている香港のことだ。一等減じて無期懲役になるはずだ、とアイアン・李は保証した。面会したときマイケルは、奇妙に澄んだ目をしていたという。この後、人の役に立つことがどれだけできるか、やってみようと思うと語ったそうだ。
 そうして、事件を解決した東方黒豹は -------- 。

「早く、早く走ってよ!」
 レナがイライラと助手席でわめく。うるせえな、と返しながらもアイアン・李はスピードを上げた。後部座席では、すっかりカタギの恰好になったフランクが、泣きそうな顔で前を見つめていた。
「見えた!」
 最初に声を上げたのが、そのフランクだった。
 香港と中国を結ぶ、国境のゲート。その踏切は、今にも閉じられようとしていた。
 強引に滑り込もうとしたアイアンの車は、寸前で警備兵に制止された。
「ちょっとぐらいいいじゃないかよ、なあ!」
 アイアンのゴリ押しにも、レナのヒステリックなわめき声にも、フランクの泣き落としにも、兵士たちは首を縦に振らない。
 何といっても、まだ香港と中国は別の国なのであって。
 九七年の七月になるまでは、このゲートは自由に越えることができない。
「ああ、もう!」
 業を煮やしたレナが、車から飛び出した。香港側の、小高い丘の上に一目散に登る。可愛い服が草いきれで汚れるのもおかまいなしだ。
 意図を悟ったフランクが、転がるように後を追った。アイアン・李は大人なので、ほんの少しだけゆっくりと。
 三人は並んで、遙か中国大陸へと続く大道を、走り去っていく軍用ジープを見送った。
 あそこには、東方黒豹が乗っている。
 人々の間に噂だけを残して、何の名誉も、功績も受けず、ひっそりと。
 それが本当の、英雄ってもの。
「 -------- また、会えるよね」
 レナが呟いた。
「会えるさ。九七年になれば」
 フランクが答えた。
「違うね」
 アイアンは、煙草をくわえて火をつけた。口端に微笑みを浮かべて、遠く広がる中国の、青々とした大地に目をやった。
「大事なのは、会いたいと思うことさ」
 そう。ヒーローに必要なのは、その気持ちだけ。
 いや、きっと誰にとっても。
 誰かが待っててくれる限り、人は、力いっぱい頑張れる。


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