コーリャの罠
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作:神無月ふみ
(
2000/11/23発行『ダブル・トラップ』収録
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あっ、と叫びそうになった。
突然冬がやってきたかのように、寒気すらする。
だが過去の訓練のたまもので、どうにか無表情を取り繕うことができる。
内心の衝撃を、どうにか表に出さないようにして、呉林文鎮(くればやし・ぶんちん)は問題の彼に近づいた。 「冨永亮司(とみなが・りょうじ)先生――ですか?」
赤銅色の髪を持つ男は、読んでいた本から目を離し、ずり落ちかけたメガネをかけ直した。
「ええと、そうだけれど。……あれ、きみ、どっかで見たことあるなあ」
「これまでに、どこかでお会いしたことあるかもしれませんね。――俺も貴方を知っていますよ」
亮司は、不思議そうに首をかしげた。
知らないのか、覚えていないのか、それとも知っていて、とぼけているのか。 呉林は動揺を隠して、どうにか口元を笑みの形に曲げた。
つられるように、亮司も微笑む。暗さなど微塵も見えない、柔らかい笑顔だ。
ここは城之内ゼミナールという、進学塾の講師室である。
塾の講師が和やかに談笑しているところで、呉林は、ここにいるはずのない人間と出会った。
冨永亮司――そう名乗っている男は、英語の教師だという。
だが実際は違う。
本名、ニコライ・セルゲイヴィッチ・イワノーフ。
かつて、KGBのエージェントだった男だ。
五年前。
呉林はスティーヴ・グラントという名前で、CIAに所属していた。
当時アメリカは、軍事独裁国家であるチャリナンの内戦に対して介入工作をしていた。 反米政策を取っていた当時のチャリナン政府は、アメリカにとっても目障りだった。 そこへ反政府側が、親米政策を取ると言ってきたので、アメリカは支援の約束したのである。
呉林――スティーヴもチャリナンに向かい、他のエージェントたちと工作活動をした。
だが、結局クーデターは失敗に終わった。
旧ソヴィエト連邦からチャリナンに亡命してきた、共産党員や元KGBエージェントが、チャリナン政府側に味方したからである。
彼らは敵ながら、腹が立つほど優秀な者が多かった。
その中で最も優秀だったのが、ニコライ(コーリャ)・セルゲイヴィッチ・イワノーフ。
『コーリャの罠』と呼ばれる独特のトラップで、アメリカ側は何度も翻弄されたものだ。
――だが。 呉林は自席に着き、苦い思いのまま横目で亮司を見る。
コーリャはあのとき、チャリナンで死んだはずなのだ……。
「ブンチンくーん、眉間にしわなんか寄せて、腹でも痛いのかなー?」
人を小馬鹿にしたような声がし、呉林は声の主のほうを振り返った。
同僚である轟華之介(とどろき・はなのすけ)が、にやにやしながらコーヒーを差し出してくる。
「別に腹が痛いわけじゃない」
呉林は不機嫌そうな顔で、コーヒーを受け取った。
「で、ブンちゃんは何でそんな不機嫌な顔をしていたのかな?」
華之介は呉林のことを、『ブンチン』もしくはそれに類する言葉で呼ぶ。
最初は気に入らなかったが、あまりにも何度も呼ばれたので、華之介から言われるのは気にならなくなった。
もっとも生徒から『ブンチン先生』と呼ばれるのは、相変わらず気に入らないが。
呉林はちらりと亮司に目をやった。亮司は、呉林のことなど完全に忘れきったかのように、読書を再開している。
「彼は――何者だ?」
華之介は呉林の視線の先を見て、あっさり言う。
「あれ、知らないの? まあ俺も知っているってほどじゃないけど。確か昨日まで、第三講師室の住人だった英語の講師だよ。今日からこっちの部屋の住人になったのかな。どっかの国の血が混じっていると聞いたような気がする。ドイツだったかなあ」
「――ロシアだ」
「へえ、そうなんだ」
表情が曇ったままの呉林を見て、華之介は意地悪く笑う。
「ロシア人を見て不機嫌になるなんて、ブンちゃんってば、昔の職業を引きずりすぎ。ヤなことは、ぱーっと忘れなきゃ。もちろん過去の遺恨も忘れてさぁ」
「ただのロシア人じゃない。俺の予想では――いや間違いなく、あれはコーリャだ。ずっと死んだと思っていたが、生きていたんだ」
「コーリャ? 何、それ」
呉林はコーリャが、かつてKGBのエージェントであったことを告げた。
華之介は小さく肩を竦める。
「どこかの国のエージェントだなんて、よくある話じゃないか。この城之内ゼミナールでは。――ここが普通の塾じゃないことは、ブンちゃんも知っているだろ?」
もちろん知っている。だから呉林は、ここに就職したのだ。
城之内ゼミナールは、通称『嘱託』と呼ばれる秘密組織である。
塾長である城之内彪馬が、特殊公安庁から依頼を受けて、講師という名のエージェントと共に、超法規手段を用いて国内の治安維持に努める。それが『嘱託』だ。
ゆえに城之内ゼミナールには、普通の講師に混じって、嘱託として極秘ミッションを遂行できる、特殊技能保持者が幾人もいる。呉林もそのうちの一人だ。
CIAを辞めたというのに、まだ諜報の世界から足が洗えないのは何故だろうと、呉林はときおり自問する。
だが答えはまだ出せないままだ。
「城之内ゼミナールには、ブンちゃんみたいな元CIAがいてもいいように、元KGBがいてもいいんだよ。――どうせソ連なんかもうないわけだしさあ。いいじゃん、誰がいたって」
「コーリャは、ただのKGBのエージェントじゃない。実働部隊だ。彼のトラップにかかって、何人も同僚が翻弄された。死んだ者だっている」
「まあ、罠に掛かって死ぬ奴ぐらい、いるさ。戦争していりゃな」
「お前は知らないから、平然としていられるんだ。いいか、奴は普通じゃない。あんな悪魔みたいな罠を作れる人間が、この世に存在するとは思えないと言いたくなるほどの腕だぞ」
華之介は首をかしげた。
「だったら冨永氏と、ブンちゃんの言う『コーリャ』とは別人じゃないかな。確かに冨永氏はトラップを作るけれど、腕はいいが普通だぜ。あのぐらいなら、SASやSEALにもいる。俺だって、彼が作るぐらいの罠なら、ちょっとがんばれば作れるかもしれない」
呉林は苦い表情のまま、首を横に振る。
「あんなのが、作れるわけがない」
「だから冨永氏程度のなら、できるんだってば。そもそも冨永氏は、罠を作ることだけが専門じゃないしな」
「――罠を作るだけが専門じゃない?」
「そうだよ。狙撃ができるほど精密ではないが、一応銃は撃てる。多少医療の知識もあるから、衛生兵のまねごとだってできる。いろんなことがそれなりにできるので、重宝しているから、嘱託にいるのさ。別に罠の腕だけを買われたわけじゃない」
呉林は、かつてのコーリャを思い出し、再度首を横に振った。
「……罠が専門じゃないコーリャなんて、想像もつかないな」
「だから別人さ。――さっき、ブンちゃんは『コーリャは死んだ』って言っていただろ? 冨永氏は冨永氏以外の何者でもない。本物のコーリャは死んだんだよ」
呉林と話をするのが飽きたのか、華之介は講師室から出ていった。
華之介の言うことは、理にかなっているが、どうしても納得できなかった。
呉林は、もう一度亮司を観察した。
小柄でメガネを掛けていて、お人好しを絵に描いたような雰囲気の持ち主である。
呉林もメガネを掛けているが、呉林の場合は顔を冷たく見せているのに対し、亮司のメガネは茫洋としている空気を演出しているように思える。
おまけに何歳なのか見当がつかない童顔で、呉林よりも生徒のほうに年が近いように見える。
しかしその顔立ちは、コーリャにそっくりなのだ。
呉林は顔を歪める。
どう見ても亮司とコーリャが、赤の他人には思えなかった。
だが、かつて声を聞いたときに感じた、異様な雰囲気もない。
そう。
この世のものすべてを玩ぶような残酷な無邪気さと、それでいて何もかもに飽き飽きしている倦怠感がないのだ。
――やはり別人なのだろうか。
呉林はノートパソコンを起動させ、今回のミッションについて書かれたファイルを呼び出した。
今回のミッションは、あるロシア人の護衛である。
元KGBの大佐で、かつてチャリナンに居て、チャリナン・ロシア間の密輸で荒稼ぎをしていた男だ。
そしてチャリナンとロシアの閣僚を、何人も失脚させるだけの秘密を持って、日本に逃げてきたらしい。
特殊公安庁としては、この男を捕らえて情報を取りたい。
だが下手な方法で捕えると、チャリナンからもロシアからも、身柄を引き渡せと言ってくるだろう。
身柄を拘束するための、うまい理由がなくて、やきもきしている間に、チャリナンから殺し屋が入国したという情報が、特殊公安庁に入ってきた。
困った特殊公安庁は、男を捕らえる方法が見つかるまで、秘密裏に護衛せよと嘱託に言ってきたのだ。
もちろん呉林は、その元大佐を知っていた。相手もおそらく、呉林の顔を知っているだろう。
だが顔を知られていることのデメリットよりも、相手の手の内を知っているメリットのほうが上回ったので、このミッションを任されたらしい。
亮司にこのミッションがまわってきたのも、同じ理由だと思われる。
しかし元大佐と亮司が知り合いであることと、コーリャと亮司が同一人物であるか否かは、別問題だ。
考えたところで、亮司がコーリャなのか判然としない。
呉林が頭を掻きむしっていると、華之介が再び近くにやって来た。
「悩めるブンチンくんに、いいものをあげよう」
華之介は呉林のデスクに一枚の紙を置いた。
乱雑に散らかっている物に紛れて、どの書類が華之介の置いたものか、分からなくなりそうになる。
「この汚い机に飲まれないうちに、それを読んでおくといい。冨永氏の情報だよ。やっぱ彼は、お前さんの言う、『コーリャ』じゃないよ。KGBってところは当たっているがな。――ま、怪しい罠師のことは、ひとまず忘れて、仲良く富永氏と組もうや」
呉林は書類を取り上げ、まず名前の欄を見た。
ロシア名は、セルゲイ・イヴァーナヴィチ・ソローキン。
コーリャ――ニコライではない。父称も名字も違う。
だが名前ぐらいは、いくらでも偽れる。
「……冨永亮司以外の人間と組みたい、というのは無理かな。俺と彼は過去に確執があるから、組まないほうが仕事がしやすいと城之内に言っても、駄目だろうか」
「いまさら何を言ってるんだよ。ブンちゃんが組むことを了承したからと言いくるめて、城之内の彪ちゃんから冨永氏の情報をむしり取ってきたのに」
「おい、勝手なことをするなよ」
目を剥く呉林に、華之介はおどけたように小さく両手を挙げる。
「怒らない、怒らない。今度のミッション、俺もメンバーなんだ。ブンちゃんがいないと、つまんないんだよね。――いいじゃん、ミッションの最中に、冨永氏が本当はコーリャなのかどうか、見極めたら」
確かに華之介の言うことも、一理ある。
「せっかく彪ちゃんを口説いて冨永氏の情報を取ってきたんだから、有効に活用してくれや。けっこう苦労したんだぜ。彪ちゃんてば『本来ならばエージェントの情報を漏らすことないのだが』って、キツネみたいに目を吊り上げて言ってくれちゃってさあ……」
「誰も情報を取ってきてくれと、頼んだ覚えはないぞ」
「取らなかったら、ブンちゃんのことだから眠れなくなっていたと思うんだけどな。さあ、親切な俺に『ありがとう』って言ってごらんよ。さあ、さあ」
「……感謝してやってもいい」
「やれやれ。素直じゃないね、ブンちゃんは」
がんばれよ、と手をひらひらさせて、華之介は自分のデスクに戻った。
呉林は亮司の情報を、詳しく読んだ。
冨永亮司――ロシア名は、セルゲイ・イヴァーナヴィチ・ソローキン。モスクワ生まれ。
日露ハーフで、父親は旧ソ連共産党の大物である。母親は日本人で、父親と正式結婚はしていない。
ソ連共産党に入党後、KGBに入り、第二管理本部の第一局で活動していた。
第二管理本部とは、対内保安活動に従事していたセクションだ。その中の第一局は、各国駐在のアメリカ大使館に対する浸透工作、及び電子監視を任務としている。
その後ソ連が崩壊し、日本に亡命してきたと書かれている。チャリナンという文字は、どこにもない。
呉林は眉をひそめた。
コーリャが所属していたのは、対外情報活動に従事する第一管理本部の、第十三局。通称『V局』と呼ばれていたところだ。
秘密機関とも呼ばれ、主に暗殺活動に従事する。コーリャはその中でも、凄腕中の凄腕だ。
中でもトラップに関する才能は天才的で、当時の西側諜報界は、何度も苦汁を飲まされたものだ。
書類に書かれている情報と、コーリャ本人の情報とが、ずいぶん食い違っている。
――個人情報を提出する段階で、虚偽を申告することも可能だが……。
呉林は書類から目を離し、亮司をもう一度盗み見る。
亮司は、大あくびをしたあと、机に顔を伏せた。どうやら昼寝をしているらしい。
しぐさすべてに鋭さがない。はっきり言って、隙だらけだ。
――彼はやはり、コーリャとは別人なのだろうか。
それともコーリャが、何か別の目的があって、城之内ゼミナールに潜入しているのか。
潜入だとすると、素顔に近いロシア人のカヴァーで来なくても良さそうなものだ。母親の血を強く受け継いでいるようなので、日本人だと言い張ることだってできるだろう。
呉林は亮司の情報を書かれた紙を丸め、灰皿の中で火をつけた。
――華之介のお節介に感謝するべきかもしれない。
呉林は炎を見つめながら、目を細めた。
いまは亮司がコーリャであるか否かは分からない。
しかしこの任務の間に、必ず正体を暴いてみせる。
五年前の決着を完全につけるためにも、やらなければならなかった。
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