コーリャの罠
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作:神無月ふみ
2000/11/23発行『ダブル・トラップ』収録
 

 途中から青い印が止まったので、追跡は楽になった。ターゲットが目的地に着いたのだろう。
 印が止まってから、呉林たちは結局十五分で追いつくことができた。
 車は小さな港に近い、貨物倉庫の横に置いてあった。
 周囲はすでに暗い。星はいくつか瞬いており、月は見えない。ネオンの灯りは対岸の海岸線沿いに見えるが、こちら側は暗くて、わずかにある街灯の明かりが道を照らしている。  華之介が機転をきかさなければ、追跡できなかったに違いない。
 呉林は車を降りた。
 次の瞬間、血の臭いを嗅ぎ取る。
 かすかだが、間違いない。かつて身を置いていた世界がもたらす臭いだ。
 呉林は周囲の音に神経を集中させる。
「気をつけろ、冨永。敵がいる」
「敵?」
 亮司は呑気に周囲を見渡した。
 元KGBとは思えない呑気な仕草に、呉林は舌打ちした。
「おそらく、これらの倉庫のどこかに、ターゲットがいるはずだ。探すぞ」
 呉林は銃を抜いた。
「一つ一つ、わざわざ探すのかい? 名前を呼びながら探すっていうのは、ダメかなあ」
「敵も同時に呼び寄せることになるぞ。お前はここで狙撃されて、一生を終えたいのか?」
「一生を終えたくないけれど、面倒臭いなあ」
「お前が追跡を失敗して、こういう面倒な事態になったんだぞ。忘れるなよ」
「そりゃあ、そうなんだけどねえ」
 亮司はつまらなそうに言ったとき。
 ――銃声が聞こえた。
 いま立っている場所から、そう遠くない倉庫の中からだ。
 呉林は音のほうに走った。亮司もあとに続く。
 近づくにつれ、血の臭いも強くなってきた。
 一番海に近い倉庫の鍵が壊されていることに気づき、呉林は倉庫の前に立った。
 スライド式の扉をずらし、中の様子を伺おうとする。
 だが亮司は、呉林に追いついたとたん、無造作に扉を開いた。
「ごめんくださーい」
 堂々と中に入ってゆき、さすがの呉林も慌てた。
「おい、何をやって……」
「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかー? 僕、今晩アジアカップが観たいから、早く帰りたいんですけど。手間を取らせないでくれませんか?」
 日本語、英語、ロシア語、チャリナン語で同じことを繰り返しながら、倉庫の中まで堂々と入ってゆく。
 呉林は頭を抱えた。任務失敗という言葉が、頭の中をちらつく。
 だが亮司を放っておくわけにはいかない。銃を握ったまま、続いて真っ暗な倉庫の中に入った。
 数歩歩いて、呉林は足を止める。
 目の前に死体が転がっていた。
 ターゲットである、元KGB大佐ではない。チャリナン人だ。
 死体は一つではなかった。積み重ねられている麻袋の間から、二つほど見える。
 全員チャリナン人だ。おそらく元大佐を狙ってやってきた、殺し屋たちだろう。
 倉庫の明かりをつけて徹底的に捜索すれば、さらに死体が見つかったかもしれない。  全員、元大佐が殺したのだろうか。
 ありえない話ではない。彼は銃を使ってもかなりの腕前のはずだ。
 床に付着した黒い血痕を追ってゆくと、亮司の背中が見えた。
 足下には、怪我人が倒れている。
 身体を丸めており、床に血溜まりができていた。かなりの大怪我なのだろう。目を閉じて、ぴくりとも動かない。
 亮司は銃を抜いて、こともあろうかその怪我人に狙いをつけた。
「よせ……!」
 呉林は亮司を突き飛ばした。  亮司は少しバランスを崩したが、それでも引き金を引く。  銃弾は僅かに逸れ、倉庫の床を削った。
 呉林は亮司の胸ぐらを掴み、腹立ちのあまり英語で怒鳴る。
「どこに目を付けているんだ。これは護衛しなくちゃいけない、ターゲット本人だろうが!」
「知っているよ。だから殺そうとしたんじゃないか」
 亮司は冷静に英語で返し、薄く微笑んだ。
「チャリナンの殺し屋も、不甲斐ないな。五人がかりで、人一人殺せないなんて。――せっかくわざわざ遅れてきたのに、無駄になったじゃないか」
 呉林は、ぞくりとした。
 暗い瞳。冷たい声。
 ふざけたことを言っていた、これまでの亮司とは、まるで別人だ。目の奥を見ていると、闇の深淵を覗き込んでいるような気させしてくる。
 邪悪な何かを掴んでいるような気がして、呉林が手を緩めると、亮司がその手を払いのけた。
「きみは邪魔するのが上手だったね、文鎮さん。正直言って、少し鬱陶しかった。もう少し能なしだったら、僕もやりやすかったのに」
 こいつは誰だ?
 呉林の頭の中に、一つの答えが浮かぶ。
 ――ありえない。 『彼』は死んだはずなのだ。
 死ぬところを、確かに見たのだ。
 だが亮司は『彼』と同じ声で、そして同じ調子で言う。
「ものは相談なんだけど、僕にこの転がっている奴を殺させてくれないかな?」
 亮司が蹴ると、男は呻き声をあげた。意識を取り戻したらしい。
 男は呉林たちを見た。とたんに顔が恐怖に歪む。
「お前は……コーリャ……!」
 亮司は男に、ゆっくりと目を移した。
 そして銃口を心臓に向ける。
「コーリャは死んだよ。あんたが――あんたたちが殺したんじゃないか」
 聞いているほうの喉がカラカラになるほどの、乾いた声だった。
 亮司の顔に、すでに笑みはない。寒くなるような無表情で、男を見据えている。
「あのときあんたは、コーリャを――兄を裏切った。その報いは受けてもらう」
「待て……待ってくれ……!」
 男は必死で哀願する。
「確かに我々は、コーリャをCIAに売った。しかしお前の存在は隠していたじゃないか。コーリャは二人いると我々が言わなかったから、双子の弟であるお前は助かったんだぞ!」 「恩着せがましいことを言ってくれるね。罠を演出するほうを殺しても、罠を作るほうがいるからいいと思って、兄のほうをCIAに売ったんだろう?」
「しかし我々は、逃げたお前を追わなかった」
「追わなかったんじゃない。僕を捕まえられなかっただけだ。僕は国境を脱出するまで、ずいぶん非常識な追っ手に会ったんだよ。知らないとは言わせない」
「…………」
「残念だったな。従順だと思っていた僕まで消え、そしていま、あんたの命を奪おうとしているんだから」
 呉林は、ようやく事情が飲み込めてきた。
 五年前、数ヶ月に渡る戦いの後、CIAはチャリナンの内戦から手を引くことを決定した。
 撤退の条件が、コーリャの抹殺である。
 彼一人がいなくなったところで、戦略的には何ら変わらない。だがCIAにも面子があった。
 それに他の地域での紛争で、これ以上コーリャと戦うことになるのは避けたい。
 チャリナン側も、これ以上アメリカ側と戦い続けたくなかった。
 両者の利害が一致して、コーリャを殺すことに決まったのだ。
 しかし本当の『コーリャ』は、双子の兄弟だった。
 罠を作って仕掛ける弟と、その罠を効果的に使う兄の二人で、『コーリャ』という一人の人間を作り上げていたのだ。
 弟――亮司が言う。
「僕ら兄弟はずっと、国家と党のために働いてきた。だからこそ、僕らを裏切った国家と党が許せない」
「では、いままで同志を殺してきたのは……お前だったのか!? チャリナンの奴らではなく……」
「あんたを殺したら、残りはあと三人だ。ここまでくるのに、五年かかったよ」
 亮司は引き金に掛けた指に、力を込める。
「勘違いさせて、チャリナン側を裏切るよう細工までしたのに、結局僕が手を下すことになりそうだね。あんたには最後まで手間を掛けさせられたよ、大佐。――さようなら。ご苦労さま」
 カチリという音が、倉庫に響いた。
 亮司は横目で呉林を見る。
「……どういうつもりだ?」
「仕事をしている」
 亮司が引き金を引くより早く、呉林は亮司の頭に狙いをつけていた。
「忘れたのか? 俺はターゲットの護衛をしている。彼を殺そうとする奴は、殺す。たとえ誰であっても」
 亮司は、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「こいつの命を助ける価値なんて、どこにもないぞ。保身のためなら味方を売る奴だ」
「命の価値をどうこう言っているんじゃない。仕事だからやっているだけだ」
「仕事だったら、クズでも助けるのか」
「ガードするやつがクズだからといって、俺まで仕事のできないクズになり下がる必要はない。――俺はこの仕事を受けた。受けたから最後まで任務を遂行する」
 亮司は声を上げて笑った。
 ヒステリックともいえる笑い声のあと、低く呟く。
「もう一度言う。僕にこいつを殺させてくれないか?」
「断る」
「そうか。――残念だよ」
 亮司の左手が、わずかに動く。
 次の瞬間、爆音が響いた。
 壁が吹き飛び、天井が落ちてくる。
 ターゲットは呻きながら、埃に咽せた。
 亮司はターゲットに向かって、引き金を引く。
 銃弾は、間違いなく当たるはずだった。
 だが気づいたら、亮司は銃を弾き飛ばされていた。
 ――呉林の撃ち込んだ銃弾で。
「どうして……」
 亮司は呻くように呟いた。
 ターゲットは目を閉じて倒れている。
 だが死んではいない。胸がゆっくりと上下しているので、気絶しているだけだろう。  亮司にとって、完全な計画のはずだった。
 天井を落として呉林の視界を塞ぎ、その混乱に乗じてターゲットを殺す。
 だが呉林は、亮司とターゲットの間に入り、ターゲットをガードした。
 銃弾は呉林の右腕を掠り、次の瞬間呉林は亮司の銃を左手で撃った。
 亮司の動きを読んでいなければ――亮司がターゲットを銃でとどめを刺すと確信していなければ、そんな行動など取れなかっただろう。
 だが呉林には分かったのだ。
「残念だったな。罠としては悪くなかったが、お前では無理だ」
 呉林は亮司の額に銃口を押しつけた。
「何故コーリャが二人なのか考えた。かつて俺を狙った罠には、信じられないような仕掛けが施されていた。あれを作れる人間が、どうして兄の影とならなければいけなかったのだろうと考えて、そして分かった」
「…………」
「お前は自分の作った罠が完璧であるという、自信がないんだ。だからお前の罠を生かすためには、お前ではない者が使う必要がある。だから『コーリャ』は二人必要なんだ」
 亮司が初めて、動揺を顔に出した。
「お前の兄貴はお前の作ったものを、完全に信頼していた。だからお前の罠を使って、あれほど大胆で恐ろしい作戦を立てられたのだろう。……だがお前は違う。お前は罠の天才だ。爆発させて瓦礫の落ちる量や方向まで調節できるような奴だ。だからこそ、自分の作ったものが完璧でないことに気づいている。常人には気づかない、ほんのわずかな粗が見えるんだ。――ゆえに爆発はあくまでも目くらましとして使い、自分の手で銃弾を撃ち込んで、とどめを刺そうと思った」
 亮司は小さく笑った。笑ったあと、沈黙が訪れる。
 やがて、亮司は自嘲気味に呟いた。
「甘くみていたよ、きみを。……だから僕はしょせん、兄の影にしかなれなかったのか」
 そして瓦礫の中に、膝をつく。
「……あと四人だったのに」
 よく見ると、亮司の拳がわずかに震えていた。地面を見つめるその顔には、いつのまにか笑みが消え失せている。
「四人殺せば、復讐が終わるのに」
「復讐が悪いとは言っていない。今回の件が俺の仕事でなけりゃ、楽しく見守ってやったさ」
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。
 爆音を聞いた誰かが、警察に通報したのだろう。
 事件はすぐに警察の管轄を離れ、特殊公安庁の担当するところになるはずだ。
 任務は終了したのだ。
「特殊公安庁も、さぞ喜んでいるだろうな。元KGBのおっさんを、保護という名の下に捕まえることができるんだから」
 呉林の皮肉っぽい言葉に、亮司は地面を見つめたまま言う。
「僕を殺すのなら、早くしろ。邪魔が入ると面倒なことになるぞ」
 呉林は肩を竦める。
「誰が殺すと言った。お前には、少しの間だけ眠ってもらう。ここから退くときに、面 倒を起こされては困るからな」
 亮司は怪訝そうな顔で、呉林を見上げる。
「――本気で僕を生かしておくつもりなのか?」
「暗殺しようとしたやつを殺せという依頼も、受けていないからな」
 呉林は、あっさり言った。
 信じられないと言いたげな顔で、亮司は首を横に振った。
「呆れるほど職務熱心な男だ。仕事じゃなかったら、敵も殺さないのか」
「いまはまだ同僚だ。それにお前を殺すと、城之内に給料を減らされそうだ」
 呉林は冗談めかして言った。
 唖然としていた亮司だったが、やがて皮肉な笑みを浮かべる。
「あんたを思い出したよ、スティーヴ・グラント。あのときチャリナンにいた、CIAの人間だな」
 呉林は、わざとらしく大きなため息をつく。
「やっと思い出したか。記憶力が悪いな。諜報部員失格だぞ」
「この五年間探していたのはロシア人だけで、他の奴など眼中になかった。――だいたい僕はKGBの第二管理本部にいても、ずっと罠ばかり作らされていたからな。あんたの写 真も一度見たきりで、本物なんて見たことなかった」
「こっちは五年間ずっと、お前たちの夢ばかり見続けていたのに、薄情なことだ」
「しかし兄は、あんたを知っていたよ。スティーヴ・グラントは、CIAで一番目障りな奴だって言っていた。任務に忠実すぎて、買収もできないってね。――確かに想像以上の堅物だ」
 亮司は冷たい笑い声を漏らす。
「決めたよ、スティーヴ・グラント。あんたは五番目だ」
「五番目? 何の」
「裏切り者のロシア人を全員殺したら、次はお前を殺す。そのときになって、いま僕を殺さなかったことを後悔するといい」
 暗い輝きを秘めた、どこか狂った瞳だった。
 幾人もの命を握り、自在に操ってきた彼――コーリャの目だ。
 幾度夢に見ただろう。その顔を。その目を。
 ――サイレンの音が近くなった。
 あと十分もしれば、こちらに到着するだろう。
 もう少し話していたかったが、ここにとどまっているわけにはいかない。
 呉林は左手を亮司の頭に回し、銃口を後頭部に向ける。
 そして耳元で囁いた。
「もう時間だ。おやすみ、ボーヤ」
 言い終わると同時に、亮司の後頭部を殴る。
 亮司は崩れ落ちるように、呉林の腕の中に倒れた。
『決めたよ、スティーヴ・グラント。あんたは五番目だ』
 亮司の言葉を反芻し、呉林は無意識のうちに微笑んだ。
 死んだはずの人間が、腕の中にいる。
 もうこの世のどこにも存在しないと思いながら、しかし頭のどこかでは生きていると信じていた。
 五年間、ずっと憎み続けていたその彼が、いまここにいる。
 これは悪夢の続きなのか。
 それとも心の奥底に秘めていた願望が叶ったのか……。
 亮司を抱きかかえて車のドアを開けると、車内にある無線が鳴った。
『おい、文鎮。ターゲットと接触したか? それともまだ車の外か?』
 華之介である。どうやら何度か無線で語りかけていたらしい。
 呉林は苦笑いしながら、無線を取り上げる。
「ああ。お前のおかげですべて解決した。倉庫が爆発して死人も出たから、特殊公安庁の奴らも動かざるをえないだろう。チャリナンからの暗殺部隊も壊滅したし、一件落着だ」
『そうか。とりあえず良かった、と言うべきかな』  
華之介は無線の向こう側で、安堵の吐息を漏らす。
『実はな、どうやらチャリナンの暗殺者たちとターゲットを、そっちの倉庫で鉢合わせさせようと画策した奴がいるみたいなんだ。お前らが巻き添えを食らってなければと、思っていたところだ。なんたって、チャリナン側とロシア側を手玉 に取った、黒幕だからな。そんな奴までそっちに行っていたら、危険度が倍増だ』
「黒幕、ねえ……」
 呉林は無線に入らないように、乾いた笑い声を漏らした。
「報告書は明日書く。今日は戻るから、あとは頼む。けっこう派手にやったから、うまいことごまかしておいてくれ」
『おい、こら。文鎮!』
 呉林は無線を切った。
 助手席に亮司を放り込み、車のエンジンを掛ける。
 亮司は意識を失ったままだった。
 目を閉じている顔は、数日間ミッションを共にした、嘱託での相方である冨永亮司の顔だ。
 しかしこれは冨永亮司ではない。少なくとも、自分にとっては。
「いつか殺してやる、か」
 呉林は存在を確認するように、亮司の頬にそっと手を触れた。
「その日が来るのを、いまから楽しみにしている。だから約束を忘れるなよ」
 呉林は亮司の耳元で囁いたあと、前に向き直る。
 そしてギアを入れ替え、闇夜に向かってアクセルを踏んだ。
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