吉祥寺のご案内 新居浜市大島の毘沙門天・吉祥寺のホームページ/吉祥寺の仏さま         【'98.4/27より】

ごあいさつ(写真集発刊にあたって)

ホームページ作成にあったって

吉祥寺の由来

毘沙門天・吉祥天・善膩師童子三尊像

南朝と吉祥寺 H18.10.26更新!

弘法大師座像

金剛界曼陀羅・胎蔵法曼陀羅

釈尊涅槃図

薬師如来・日光月光菩薩および薬師十二神将像

子安地蔵尊

位牌堂(裏堂)

木食仏海上人作百体地蔵 H18.4/3更新

初大師講・諷誦(ふじゅ)回向 H10.2/23

ねはん桜と涅槃会(ねはんえ)・八重桜 H11.3/27更新


 

ごあいさつ(写真集発刊にあたって)

平成8年6月、陽向山吉祥寺は多くの檀信徒の方々の尊い浄財により、本堂および山門・庫裡・寺堀などの大改修を無事終えることができました。
 千数百年にわたる歴史の大きな変動を乗り越えて、現在吉祥寺がこの愛媛県新居浜市大島の地に在り続けているのは、大日如来本尊毘沙門天を始めとする諸仏諸菩薩のご加護と歴代住職のご努力、そしてそれを支えた計り知れないほど多くの檀信徒のご先祖様方のお心があってのことと深く感謝いたします。
 そして、今ここにいる私たちも、その歴史の末端にあることを思い心新たにします。
 この写真集は平成8年の今日、吉祥寺が辿ってきた道とそれを歩んでこられた人々を思い、これから続く道の出発点とする意味で作りました。これからの歴史がどのようなものであろうと、仏の光はこの世界に満ち続けます。しかし、過去から未来への道は今の私たちが歩まなければ絶えていくものです。
 これからの吉祥寺は、お寺と檀信徒の方々との信仰を基とした新しい関係を探りつつ、ご先祖の方々の魂を祀ると共に、すべての人々の幸せと平和を祈り、すべての人々に開かれた信仰の場として歩んでいきたいと思います。
 最後に、撮影していただいた東京在住の写真家長尾迪氏と松山の上野啓文氏、労作を参考にさせていただいた大島在住の藤井荘蔵氏、東田大師堂喜代吉栄徳氏を始めとする諸先輩方、そして、今手にとって頂いているみなさんとのご法縁に感謝いたします。 合掌
南無大師遍照金剛
    平成8年6月吉祥日陽向山多聞院吉祥寺 第22代住職 中島光祥



ホームページ作成にあたって

 このページは、平成8年当山改修事業落慶にあたり発行した写真集に基づき、「東人の新居浜生活」のオーナー・東人氏が作成の上ご寄進下さったものに、手を入れさせていただきました。
氏は私の初めてのメール友達で、「関東出身の新居浜者」というご縁もあり、ホームページ作りだけでなく、パソコン全般にわたる私の超初心者的質問に、いつも気楽に答えていただきます。
 この吉祥寺のサイトは、東人さんのご助言のたまものと感謝しています。
 また、この写真集の写真は、私のサラリーマン時代、札幌からの友人・長尾迪氏の撮影によるものがほとんどです。氏は総合格闘技系カメラマンの第一人者として知られ、「プライド」などの総合格闘技のリングサイドではいつも大きな顔をしてテレビに映っています。
 氏の作品は、夢枕獏氏との共著『「究極の格闘技」への誘い・アルティメット』(小学館刊)及びホームページ 「長尾迪写真館Susumu's Gallery」で見ることが出来ます。


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吉祥寺の由来

 当山の正式な名称は「陽向山多聞院吉祥寺」といいます。昭和27年までは古義真言宗(総本山高野山金剛峰寺)。現在は真言宗善通寺派(総本山善通寺)に所属しています。
 当山の歴史は古く、僧行教により宇佐から大島に八幡神が勧請されたといわれる貞観元年(859)にさかのぼり、古くは大島八幡神社の別当所として「神宮寺」と号しました。寛文年間(1661〜72)に仏教と神道を分けることとなり、初代住職龍雲阿闍梨の代に現在の滅罪寺としての寺号を「吉祥寺」と改めました。
 以降火災などにより数カ所を転地したといわれますが、延享5年(1748)第十代住職宜長大和尚の代に現本堂が現在地に建立されました。以来代々の住職のもとで宗祖弘法大師の教えは大島に脈々と受け継がれ、明治初年の廃仏毀釈の法難、先の大戦の混乱も乗り越え現在に至ります。
 新居浜新四国八十八霊場結願寺。


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毘沙門天・吉祥天・善膩師童子三尊像  【写真はここをクリック】

 当山の本尊毘沙門天のお姿は身に甲冑を着け、左手に三叉戟、右手に腰に手を当てて脚下に一匹の邪鬼を踏んでいます。この御本尊は、安永九年(1780)に「大和の檜尾山より奉迎安置した」と伝えられています。
 そもそも毘沙門天は仏教を守る四天王のひとりで、北方を守護し、有財城という城に住んでいるといわれています。また、別名を多聞天といい、如来の説法を多く聞く賢い天王であると共に、一方では人々の福徳の願いを多く聞き入れてくださるともいわれています。七福神の1人として有名。
 インドでの名前はクビーラという財宝の神。薬師十二神将の中の一人クンビーラ(讃岐の金比羅大権現で有名な金毘羅)と良く混同されるますが、共に仏法守護の神様です。
 吉祥天は毘沙門天のお妃。左手に如意宝珠を捧げ持ったお姿は、まさに容姿端麗。八大竜王のひとり徳叉迦を父とし、鬼子母神を母とする吉祥=幸福をもたらす女神です。毘沙門天との間に善膩師童子を始め五人の天子を産み、その美しさは理想の母の姿といえましょう。インドでの名前はラクシュミー、美と繁栄の女神です。

毘沙門天御真言  「おん べいしらまんだや そわか」
吉祥天御真言   「おん まかしりやえい そわか」
善膩師童子御真言 「おん ぜんにしえい そわか」

”魔を降す 猛き姿にひきかえて 情けにあまる福徳の神”  


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南朝と吉祥寺H18.10.26更新!   

 本堂に向かって左手の薬師堂。その屋上の宝珠台座には、南朝の武将・楠木正成の家紋「菊水紋」が見えます。
 また、「薬師如来・日光月光菩薩および薬師十二神将像」の項で後述する「薬師堂・石仏薬師瑠璃光如来」の縁起では、南朝と当時の大島の関係を今に伝えます。
 「毘沙門天・吉祥天・善膩師童子三尊像」の項にも書きましたが、当山のご本尊・毘沙門天は、安永年間(1772〜80)に栂尾山から迎えられたと伝わっています。「大和の檜尾山」とは楠木家の菩提寺である「檜尾山観心寺」(大阪府河内長野市)のことです。
 ちなみに当山の位牌堂には、弘法大師空海の一番弟子であり、観心寺の開基である「東寺第二世・道興(どうよ)大師・実恵(じちえ)上人」の位牌が祀られています。
 観心寺は鎌倉中期から大覚寺統に属し、南北朝時代には南朝の勅願寺だった真言宗のお寺で、後村上天皇の行在所ともなり、境内には後村上天皇陵や楠木正成首塚などが多く残されています。
 これらのことから、大島そして吉祥寺と南朝の関係の深さが分かります。
 【村上水軍発祥の地・大島】参照


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弘法大師座像 【写真はここをクリック】

 右手に五股杵、左手に数珠をとるお姿はあまりにも有名な真言宗の宗祖。
 宝亀5年(774)6月15日、讃岐国屏風ヶ浦(現善通寺)にて御誕生。幼名真魚。同11年(780)御年7才にして捨身ケ嶽にて衆生済度の誓願を立て、15才(延暦7年)で叔父阿刀大足について上京。18才、長岡京の大学に入り儒教、道教、仏教を学ぶ。官吏への道に飽きたらず、人生の真実を求め20才にして出家。22才で「空海」を名乗る。31才の年、遣唐使船にて入唐。翌年長安の都青龍寺の恵果和尚より密教の正統を継承し、その時和尚より「遍照金剛」の名を与えられました。帰国後大同2年34才の時平城天皇より「真言宗」を開く事を許され、42才の年、四国を巡られ八十八カ所霊場を開創。翌年真言宗密教護法の根本道場として高野山を開き、48才の時(弘仁12年)天皇の命により故郷讃岐に僅か45日間で満濃池を完成しました。同14年には京都東寺を賜い、55才の時我国最初の民衆学校綜芸種智院を作る。承和2年(835)3月21日「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」の御誓願のもと、高野山に御入定され、今も死を越えた不死の境地につかれています。
 「弘法大師」の名は御入定後86年が経った延喜21年(911)、時の醍醐天皇が大師の徳を讃えて下賜された謚号(おくり名)。「弘法利生」(仏法を弘めえ衆生を利す)の御業績に由来します。京より二人の勅使が高野山に上り天皇御下賜の御衣と大師号を奉じ御廟前にて奉告法要が行われました。その時、時の真言宗長者観賢僧正から初めて「南無大師遍照金剛」というお言葉が発せられました。これが御宝号の始まりです。

”ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ在しますなる”

  弘法大師像厨子施主 中屋定吉(弘化3年寂)
  当山大師講 毎月20日午後3時より


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金剛界曼陀羅・胎蔵法曼陀羅【写真はここをクリック】

 真言宗寺院には二幅の曼陀羅がお祀りされています。真言宗でお祀りする仏様はすべてこの中におられますので、本当の意味の真言宗のご本尊は曼陀羅であるといえます。金剛界曼陀羅には1461尊、胎蔵法曼陀羅には444尊の仏さまがおられ、全てがこの世を救おうとされている仏さまです。
 金剛界は「金剛頂経に説く仏さまの世界」を表し、胎蔵法は「大日経に説かれる仏さまの真理」を表します。つまり、この二幅の曼陀羅は真言宗の説く宇宙の「実相」とその「生命」をことごとく表しているといえます。
 マンダラは古代インドの言葉ですが、日本でも「マンダラ模様」などと使われます。様々な色や形のものが集まって一つの模様となっている、という意味です。訳せば「輪円具足」。一見バラバラのようですが、よく見れば調和と秩序を保っています。曼陀羅とは、根本本尊である大日如来を中心に多くの仏が互いに供養し礼拝し合う姿を描いたものです。これが「密巌仏国」という仏の世界の構図です。「仏前勤行次第」の中の「祈願文」で唱える「密巌国土」とは、私たちの世界もそうありたいという意味です。
 金剛界曼陀羅は、この宇宙全体に生き続ける「仏の逞しい知恵の働き」を示し、胎蔵法曼陀羅(別名大悲曼陀羅)は、宇宙に生きつづける「仏の豊かな慈悲心」を表します。大日如来の知恵の働きは金剛界曼陀羅において力強く男性的に働き続け、またその慈悲の心は胎蔵法曼陀羅に現れて、様々な如来・菩薩・明王・天部の神々の姿となり私たちに慈悲と幸せを与え続けています。
 この二幅の曼陀羅は、私たちに「調和と秩序」、「供養と礼拝」、「知恵と慈悲の生命」を示し、この世を仏の世界とすることを教えています。この曼陀羅は年二回春秋のお彼岸にお祀りしています。

 「享保4年7月 両界曼陀羅 施主井筒屋上野五左衛門 為天満寺尾九兵衛母儀 絵師東寺絵所大法印姉崎永喜(京都室町)」  昭和48年再表装。
 常日頃、弘法大師の両横に祀られている曼陀羅は、高野山金剛峯寺に祀られているものの模写です。


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釈尊涅槃図(宝永4年奉納) 【写真はここをクリック】

 約2500年前の2月15日(旧暦)、お釈迦様(釈尊)はインドのネパール国境に近いクシナガラにて80才の御生涯を終えられました。この入滅のことを涅槃といいます。
 人間としての身も心も滅し、永遠なる覚りの世界にお入りになったのです。
 今でも日本全国の仏教寺院では、この2月15日から4月上旬(新暦)にかけて、お釈迦様の徳を讃えてその生涯を偲んで涅槃会(おねはん)又は常楽会の法要が行われます。この涅槃会・常楽会の御本尊として祀られるのが「釈尊涅槃図」です。
 「釈尊涅槃図」にはお釈迦様の入滅がそのまま描かれています。中央に右肘を下にして足を重ねて横たわり、北枕西面の姿勢で寂静に入ったお釈迦さま。その四方に沙羅双樹の木、枕元には菩薩たちを筆頭に八部衆・十大弟子・羅漢・鬼人・禽獣たちが悲嘆の様を示して四囲を取り巻いています。上空には満月が浮かび、左手からはとう利天から御母摩耶夫人が共の者をつれて迎えに来られています。
 その中でも悲しみの余り倒れているのが、お釈迦さまの側から片時も離れずその説法を良く聞き「多聞第一」と呼ばれた阿難尊者。「釈尊なき後、何を依りにいきてゆけばいいのでしょうか」と泣き出すと。お釈迦様は「悲しむことはない、私なき後は自らを燈火として生きよ、仏の法を燈火として生きよ」と言われたのが、最後の説法でした。またこの中に、一人笑みを浮かべているのが天邪鬼(アマノジャク)です。そして魔性ゆえ釈尊の涅槃にも駆けつけなかったという俗信のある「猫」もここには描かれています。探してみて下さい。
 当山では毎年3月第二日曜日の「涅槃会(おねはん)」のみのご開帳です。

 「涅槃像一軸 宝永四亥歳9月18日 施主為村上次五右衛門壽母 絵師伊衛門」昭和48年再表装。


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薬師如来・日光月光菩薩および薬師十二神将像 【写真はここをクリック】

 本堂に向かって左手の薬師堂の御本尊。中央の薬師如来は室町期ごろの作と推定され、脇侍日光月光菩薩は江戸期のもの。残念ながら日光菩薩の後背が破損しています。また厨子の両側に並ぶ十二神将像は江戸初期の作といわれ、老朽が著しいが、厨子・須弥壇と共にその彫刻と彩色が美しい。明治までは33年に一度御開扉し盛大に法要を営んでいました。
 薬師如来は東方の浄瑠璃世界に住み、衆生の病苦を除き安楽を与えるなど、現世利益をもたらす仏。その眷属にして衆生を守るのが十二神将です。
 同じく堂内に祀る石仏薬師瑠璃光如来(薬師如来の正式名)には南北朝、源平期に逆上る歴史悲話が伝わります。
 「時は南朝後村上天皇代の興国元年(1340)5月12日、新田義助が今治城で病死し城は落ちる。その時の侍女某は発心して尼となり、北朝方に追われ大島に身を隠し一庵を営む。朝夕、島の東の渚の石上に座して主人義助ならびに敵味方戦死者の菩提を祈る。ある朝、読経の際、海中に一つの瑠璃の如き光あり。引き上げてみると石の仏、これ「薬師瑠璃光如来」なり。源平の昔、備中の国藤戸の合戦にて児島城落城の際、海中に沈みたまうこと百五十余年、海底におわせしましという。」
 戦乱の世、南北朝時代の信仰厚き流浪の一比丘尼にまつわる話です。その後石の仏は場所を変え、今はこの薬師堂内に祀られています。

  薬師如来御真言 「おん ころころ せんだりまとうぎ そわか」
  日光菩薩御真言 「おん ろぼにゆた そわか」
  月光菩薩御真言 「おん せんだらはらばや そわか」


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子安地蔵尊 【写真はここをクリック】

 昭和20年終戦の年の夏、大島は地獄のような赤痢禍に見舞われました。6月19日から9月19日までの間に、当山に残る大島の埋葬許可証によると、少なくとも死者は5歳未満の幼児を中心に36名にのぼりました。また、当時を記憶する人々によると、死者は100人は下らなかったとも言います。戦争による食料事情や衛生状態の劣悪化、医療体制の崩壊。この子たちも隠れた戦争犠牲者であり、郷土の悲しい礎でした。
 平成6年彼らの五十回忌を迎えるに当たり、全ての戦争で亡くなられた人々とその父母たちの慰霊と平和祈願、そして親に先立った全ての子供たちとその親達のため、在る篤志者の寄贈により平成5年9月この「子安地蔵尊」を開眼しました。


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位牌堂(裏堂)

 今回の改修によりご本尊裏に増築しました。中央に祀られている金色の仏は勢至菩薩(薬師堂より移す)。両横には「権大僧都法印龍盛、貞享元年9月26日」「東寺第二世桧尾山道興大師(実慧上人)」と「陸海軍戦没者諸聖霊」の大位牌、右の檀には歴代住職の位牌が祀られ、左には檀信徒の位牌が並んでいます。また、左壁際には今回改修の特別志納者の先祖代々の位牌を祀っています。高さ約40cmの厨子入り仏像は、中央が毘沙門天、右が大日如来、左が不動明王。行者が修法をするときに用いた三幅対の檀用本尊。その施主は村上弥五兵衛内儀ワサ女(文政5年寂)と過去帳にあります。


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木食仏海上人作百体地蔵 【新しい地蔵堂の写真は、ここをクリック】  −H18.4.3画像更新−

 大島集落の東、上之町の墓地の中腹に木々に囲まれて立つ地蔵堂。ここは吉祥寺の飛び地境内であり、御本尊は地蔵菩薩座像とそれを囲む百体の地蔵菩薩像です。
 「寛保3年(1743)10月以吉日日願主仏海如心」と、中央の地蔵菩薩像の台座裏に記されています。
 仏海上人は宝永7年(1710)、伊予国風早郡猿川村(現北条市)に生まれ、13才で諸国遍歴に出、26才で五穀や塩を絶つ木食行に入る。36才までに三千体の地蔵尊を彫りこの百体地蔵がその三千体目。上人の生前に記された半生記「仏海叟伝」に「仏海上人34才にして伊予新居郡大島に渡り、百体地蔵尊を彫み、一小堂をたて之を安置」(延享2年)とあります。この他にも病者の家や信仰厚き人々に施した地蔵尊も数体あり現在は共に祀られています。材質は杉、百体地蔵は高さ15cm、昭和52年新居浜市の文化財指定を受けました。右手の弘法大師像の厨子の扉には「此弘法大師御開眼導師 76才 摂州大阪下寺町大蓮寺性誉上人釋尼妙順 延享三丙寅年七月吉日 願主大阪 嶋屋与兵衛」とあります。
 その後上人は39才で日本中廻国修行を成就。43才まで故郷猿川にて遍照庵(現木食庵)の復興、廻国供養塔建立につとめた後、四国巡拝に専念(3年間に21度の巡拝成就)。遍路行者のために足摺道に道標地蔵を造立し、51才の時、土佐佐喜浜入木に室戸に向かう遍路のための接待所として現仏海庵を建て、明和6年(1769)11月1日、自らその境内に造立した宝篋印塔の下に念仏を唱えながら土中入定を果たす。行年60才。
 今でも入木の仏海庵には毎年その命日に上人の徳を慕う人々が集まり、大島の地蔵堂にも上人の故郷北条市などからのお参りがしばしば見られます。また、毎月23日には大島の人々により地蔵講が開かれています。


−H18.1.14更新−
 平成18年1月11日、ナガス地蔵堂の改築事業が終了いたしました。これに伴い、地蔵堂墓地使用者の浄財によって、墓地からの参道もキレイに舗装し直されました。ありがとうございました。
 新しいお堂は古いものより一回り小さくなり、これで百体地蔵の拝観もしやすくなりましたので、皆さんどうぞお参り下さい。
【古い地蔵堂の写真は、ここをクリック】 
初大師講・諷誦(ふじゅ)回向

 大島のお寺(吉祥寺と願行寺の2ヶ寺)では、毎年1月の末に「諷誦回向」を行います。この行事は“大島独特のもの”で、吉祥寺では1月下旬の日曜日に初大師忌の法要として、願行寺は24日法然上人ご遠忌として行われます。
 始まりは定かではありませんが、大正末か昭和の初め頃。浄土宗や関西地方の真言宗で毎年秋に行われる「お十夜法要」を、簡略化した上で模したものと思われます。
 この日は、檀家のご先祖さまの中でその年年忌に当たる方を、縁故のある人々が供養します。中心となるのは大島在住、または島に深いつながりのある方々。1月10日から供養の申し込みを受け、当日回向を受けた当家の方がお寺に集まり、一霊ずつ諷誦文(ふじゅもん)と供養を申し込んだ人の名前を読み上げて回向します。
 諷誦文とは、死者追善の志を施主に代わって導師が読み上げる文章。葬儀の場で導師が立ち上がって読む文章も諷誦文です。住職が諷誦文と施主の名前を次々と読み上げる中、当家の人々はご本尊に向かってお賽銭の小銭を投げます。大島の人々にとって、「フジ(ふじゅの事)が終わらないと正月が終わらない」と言われるほど、長年慣れ親しんだ行事です。

〈諷誦回向の諷誦文の一例〉
「それ惟(おもんみ)れば、人生の無常なる事、老幼を論ぜず、貴賤を厭わず、無常の風襲来せば万事ここに休す。
 真に人生の儚(はかな)き事、朝露の如く電影の如し。
 ここを以て佛は衆生に誡示して曰(いわ)く、諸行は無常なり是れ生滅の法、汝ら憂悩を抱く事なかれ、世相皆かくの如しと。
 願わくば十方の諸佛諸菩薩、本誓(ほんぜい)の慈願に照し、不二(ふに)円満の達境に誘引し給はん事を。」


ねはん桜と涅槃会(ねはんえ) 【写真はここをクリック】 H11.3.27更新

 3月の第2日曜日は、吉祥寺の『涅槃会(ねはんえ)』です。お釈迦さまがご入滅された日にちなんで、毎年『釈尊涅槃図』をお掛けしてお釈迦さまのご遺徳をしのぶと共に、亡くなられてから3年までの新仏さまをご供養します。
 毎年この時期、境内の通称:ねはん桜が満開になります。今年(平成10年)の開花は少し遅れ、涅槃会の当日(3月8日)初めての花が咲きました。
 この彼岸桜は、黒島・明正寺の新居浜市指定天然記念物「ミョウショウジザクラ」(寒桜の交配種)を挿し木したもので、現在1代目が1本・2代目が2本毎年美しい花を咲かせます。初代は「ミョウショウジザクラ」独特の赤みがかった濃いピンクの花がつき、2代目以降は残念ながらその赤みが薄れてしまうようです。繁殖力は強く、毎年多くの芽が根本から生え、挿し木で増やすことが出来ます。お好きな方はどうぞお越し下さい。下枝を差し上げます。
 今日、咲いたのは2代目、薄ピンク色です。今週中には一斉に咲き出すでしょう。(3/13満開となる)
 なお、4月になるとお寺の裏の八重桜が満開になります。(八重桜 H10.3/31六分咲きとなりました。写真はココ!)
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 現在「ミョウショウジザクラ」は吉祥寺の他にも、新居浜市中央公園や総本山善通寺境内など各地に移植され、その濃いピンク色の花を様々な場所で咲かせています。


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