世の中には矛盾が多い。前から不思議なのは、禁煙の場所にある煙草の自販機である。何故吸えないところで売るのか。駅とかマジで納得行かん。将に小学校でコンドームを売るが如しと言える。しかもそうやって売ってるから、禁煙になっているハズなのに吸い殻が散らかる。結局本来必要の無い吸い殻拾いの仕事ができる。つまり大いに無駄な金を使っているわけだ。しかもそれで電車の運賃がちょっとでも高くなってるのかと思うと、これは納得が行かん。言い訳が得意な連中に言わせれば、利権がどうとか収入がどうとかあるのだろうがそんな寝言は寝てても言えんよ、マジで。社会にケジメが無ければ、そこに居る人にもそんなもんが生まれるわけがない。当然である。だからこそ、こうした矛盾はどんどん指摘して直さねばならないと思う次第である。
この世の中は自由な社会だ。色々な自由があるが、そもそも自由のなんたるかがわかってない輩が多いことに、しばしば閉口する。自由とは何であるか、それは寛容の心であり、他人を認めることである。ときどき自分の自由だけ主張して、他人の行動(自由)にケチをつける、頭の中が不自由極まりない人が居る。本来人は、皆平等な存在であるから、自分も他人も、世界の中では47億分の1の存在にしか過ぎない。ここがいつまでたってもわからないと真の自由を身につけることはできないだろう。自分が自由に考え、自由に行動したいと思うのなら、他人が同じようにすることも認めなくてはならない。それが積み重なって本当の自由というものは手に入るのである。でも日本人は、その自由を貰ってしまい、考えることなしに自由を持たされてしまった。だから、自由が何なのか、豊かになっても全然わかってない。ハッキリ言うと日本の国際問題は、全部これが原因やで。皆、もっと自由になろうよ。
人は言葉で考え、言葉を伝えて生きている。だから自分の生き方も言葉で表すことができる。人生訓というやつだ。ハッキリ言って人生訓を聞いてみると、その人の生き方はバレバレ、穴の開いたパンツのように全てが丸見えになる。とっさに出てこないなら、それはまさしく自分の生き方が把握できてないヨモい輩だし、カッコつけて吹かしても見比べれば5秒でボロが出よる。その人の真の姿を見たいなら、人生訓を聞いてみるのがいいだろう。え、なに?、私の人生訓は何かって?、よろしい教えましょう「やればできる、でもやらない」なんちゅうか、私の生き方そのまんまやで(笑)。
最近の日本人は文化の重さを履違えている。典型的なものは所々にある英語の案内だ。なんちゅうか東京の地下鉄の案内版の英語は、学校でも教えられない酷い代物よ。例を挙げると「清洲橋」という橋に「Kiyosubashi-Bridge」とか平然と書いてある。馬鹿丸出しなことこのうえない。そのくせ「久松警察署」の場合「Hisamatsu Police-Dept.」と書く。この精神分裂ぶりには、替えたばかりのパンツのゴムも即座に切れそうだ。固有名詞や地名というものを簡単に他の言語で表現するのいは難しいことだが、決してできないことではない。互いの文化の立場をわきまえれば、チグハグな英語で社会が恥をかくようなことも無くなるはずである。まずは身近で簡単なことから初めて欲しいものだ。
夏休みになると、コンビニやファーストフードの店員に学生のアルバイトの数が増える。この前もドーナッツ屋に入ったとき、レジでどのボタンを押すのかわからない新米店員が、レジの上で指をくるくる廻し続けてイイ味を出していた。これは店員の粗相のようだが客にとってはチャンスなのである。忠実に基本からこなしている作業をゆっくり観察できるので、その店やチェーンがどういうシステムで客を扱っているかが丸裸になるからだ。そのときのベテラン店員の動きもチェックすれば、社員教育システムの神髄までバレバレ、まるで下手なハッタリのように暴露してもらえる。だから実は腹を立てている暇なんてどこにも無いのである。本当にできるやつは、粗相をしてても気品がある。自分もあやかりたいものである。
誰しも愚痴をたれることはある。酒の席で仕事がキツイとか、休みが少ない等という悩んでも仕方が無いような悩みを聞かされる事は、決して珍しくない。何かが上手くいかない、思い通りにならない事に対して己の不甲斐なさや巡りの悪さを嘆く事は、見てくれはともかくオカシな事ではない。むしろ言葉にすることで、問題に対する覚悟や考えをまとめる事が出来れば、それはまがりなりにも解決への前進となり得るからだ。ただ、そうした愚痴を聞かされる寛容な読者諸兄に、決してやらないでいただきたい事がある。それは愚痴に同情し、慰めてしまう事だ。それはまさに、百害あって一利無しであり、誰の為にもならない愚かな行為である。甘えを支持された弱者は、問題に対し自分で向かっていく意志を失ってしまうのだ。よって愚痴を聞かされたら必ず冷静に突き放し、自分で解決するように仕向けてやらなくてはならない。「他人に説明できる苦痛は我慢できる」と言うように、本当に相手を心配してやらなければならないのは、誰にも言えずに抱え込んでいる、隠された深刻な問題の場合なのである。