『解釈する』という言葉は小学生でも知っているが、実は結構難しく、かつ重要な事である。常識や分別があれば自分に向けられた話の意図なんて物は、言うまでもなく誰にでも分かるものだ(世の中にはそういう事に対して実に不自由な人も居るが)。ここで問題にしているのは不特定多数に向けて表現されたもの、つまり作品(芸術でも商品でも可)というものに対して考察し、意図や価値を見切るという場合の話である。解釈して学ぶ事が出来れば、自分が作品を作る場合にも役立つし、もし作者に対して正しくフィードバックされたなら、より高い次元の作品へのヒントを届けることになるかもしれない。なんちゅうか、作品に対して解釈を怠るというのは、考える力を持った人間の最大の罪といっても過言ではない。
だが、こんな事を言っていると「作品の解釈は受け取った者の自由であり、それは人
の数だけ存在するのだ」という反論を持つ方も居るに違いない。偉そうな年寄りがどれだけ能書きを垂れようとも、自分の心に初めて伝わる感覚を大事にする、というのは非常に素直で正しい行動だ。しかし勘違いしないで欲しいのは、それではまだ作品を解釈した事にはなっていないのである。映画等を見て考える事は、確かに人それぞれユニークな物があるだろう。しかしそれは単なる感想に過ぎない。解釈はもっと先にある。まずはこの違いをつかむことが肝心だ。
自分の考えを持ったうえで、作者の意図を考えてみる。作者のつもりになって想像してみよう。すると、作者が伝えようとしていたのに自分に伝わらなかったものや、なぜ伝わらなかったのかの理由、もっと作者が主張できたハズのもの、狙いどおりに正しく伝わったもの、それらがみんなストリップのように勝手に見えてくるハズだ。作者は本当はどうするべきだったのか、なんて事さえ大胆に見切ることも不可能ではない。そこまで到達出来れば、自信をもって作品を解釈したと言ってもいい。自分の視点を土台に意図を汲み取る、それが解釈の真の姿なのである。
そこで何が言いたいかというと、具体的にはゲームの話。芸術なのか商品なのかという論議はさておいて、ゲームも作品だ。作品に触れた以上、我々はそれを解釈しなければならない。しかしゲームほど解釈というものが誤解され、結果としてナイガシロにされている作品ジャンルも珍しい。根拠も示さずエエ格好しいのように「クソゲー」とか「最悪」とかうそぶく人が多いのは実に嘆かわしい。もちろん逆に「おもしろ過ぎ〜」とか「一生遊べる」なんて手放しで誉めちぎっているのも同様の轍に落ちている危険性がある。ちょっとばかり言葉巧みに表現していても、結局それは感想のパチもんでしかない。4人がそれぞれ気分で付けた点数を足し算したものに、どれだけ個人の解釈と呼べるものが反映されているのか、それどころか解釈というものがそもそも踏まえられているのか、5秒でいいから考えてみるといい。
確かにゲームというのは、作品のジャンルの中では稚拙で貧弱なものだ。文学や映画とかに比べたら、明らかに気品も歴史も足りない。だからといって、意図を汲まずに解釈した事にして、あまつさえさえそれを自分の言葉(新たな作品)として垂れ流していいというのは勘違いである。幾ら子供のママゴトみたいな舞台(断じて特定のマスコミを揶揄しているつもりは無いのだが…)においても、許す/許されるというレベルの問題ではない。作品に向き合った人それぞれに「自分達がきちんと解釈し続けていくことで、ゲームという存在が他の高貴なジャンルのような存在に向かって着実に進歩していくのだ」という自覚を、嘘でもいいから持ってもらいたいと切に願う次第である。
とはいえ汲み取ろうとしても汲めるような意図や主張の無い、見掛けだけのゲームなどを触ると、きちんとそれを解釈することがアホ臭くなってくる。確かにそういう意見にも大いに理はある。でもそこでアッサリ醒めてしまい「ゾンザイな解釈でイイヤ」と自分から白旗を挙げないで、敢えて我慢して欲しい。自分が解釈する価値も無いと、決めつける事だけはやらないで頂きたい。駄目なものには、やはりNoと言わなくてはいけない。もちろん自分が解釈した主張のもとに、である。自分が真摯に解釈しているのを見れば、感想だけを垂れ流している隣の知茸も、明日には解釈ができるようになるかもしれない。そう信じてみようではないか。
人はもうちょっと考えたほうがいい。得意げにマスコミに載った記事や受け売りの情報や意見を喜んで吹聴しているような人を見かけることがあるが、これは思考放棄の最も重い症状だ。どうも、マスコミや有名人というものに、人は影響を受けやすいようだ。見識が不足しているからといって、こうしたモノを疑い無く信じてしまうのは、いわゆるデマやパニックを産み出す予備軍に過ぎない。地震のときに朝鮮人を殺してまわるような人は、現代の世の中にも生きているのである。こえ〜。ではどうすればいいか、考えるという事はどういう事なのだろうか。それは知識や経験を地道に積みながら、疑問を持ち続ける事だ。それが自分の考えを育てていく事になるのである。くれぐれも、どれだけ良く聞こえてくるといっても、声の大きさだけに惑わされ、内容への判断を放棄してはいけない。「偉い人ほど、よく嘘を吐く」と思うぐらいの気構えと自信を持ちたいものである。
差別はいけない。人は生まれながらに皆平等。確かにそれはそうだ。しかしだからといって人は皆同じ存在というわけではない。個人には人格があり、能力が違う、名前だって違う。違うと言うことは区別できるという事である。だからこそ自分の目の前に居る人が、彼女なのか親なのか、はてまた有名芸能人なのかを判断する事が出来る。むしろ人は区別されなければ、区別出来なければ、生きてはいけない存在なのだ。では区別と差別はどう違うのか。それは違っているという事実だけを知るのか、違いの量を測るのかが分かれ目だ。違いの量を知ると言うことは、そこに優劣の概念が入り込んでくることを意味している。ずばり差別というのは、人を優劣で分類してしまう行為に他ならない。実際に迫害や疎外が無くても、人を優劣の観点の下に置くだけで、差別は始まっているのだ。そう、日本の社会は今なお差別社会である。受験や進学、社会的地位などは差別意識の温床に過ぎない。区別と差別、取り違えていませんか?
世の中には法律で決められて無くても守ったらエエことがある。世の中が統一されていれば迷うこともないし困ることもない。揃っていれば社会も景気もなんぼでも良くなる。わからんやつが世の中を悪くしてるわけだ。
何が言いたいかというとそれはトイレの並びだ。入り口が並んでたら男は右、女は左常識である。なんちゅうかこの前新宿の地下で右側に入ったら女やったげ!!。間違っとる。こういう間違いが世の中の秩序を乱し、景気を悪くしとるんよ。誰か取り締まらないと、世の中どんどんメチャクチャになってしまう。とりあえず世の中のトイレ、右と左ぐらい揃えとくように(笑)
普段もっぱら外食ばかりしている私だが、日本で飯屋に入ると必ずと言っていいほどイキナリ「水」が出てくる。まぁ、お茶とかが出てくるところもあるが似たようなものだ。今回はその水が入っているコップの話。たまに口紅とか付いたままの良く洗ってないコップが出てきたりして気分悪くなる事があったりするが、じゃぁ綺麗なコップとはどんなモノなのか、ちょっと知茸半分で語ってみよう。
コップは大抵ガラスで出来ている。では、ガラスを綺麗にするにはどうするか。ママレモンとタワシで洗う、と答える人が殆どと思われるが、なんちゅうかそれでは汚しているも同然である。真のガラス洗浄とはどういったものかを説明しよう。まずは、完全な合成洗剤で洗う。これで落ちるのは見えるゴミである。注意したいのは硬いスポンジやスチールたわし、クレンザーのようなものは決して使ってはならないことだ。それはガラスの表面に傷を作り、そこに汚れが詰まる原因になるからだ。まぁ、軽く濯いで水を切ったらケトン系の有機溶剤で2度ほど更に濯ぐ。これで普通は綺麗になる。綺麗になったのを確かめるには水を掛けてみて、弾かれずに水が綺麗にスッと広がれば合格である。ちょっとでも水が弾かれたら、それは汚れが弾いていると解釈しよう。その場合は更に次の段階に進まねばならない。
ここで用意するのは塩酸と硝酸。どちらも劇薬だ。この原液を一切水で薄めずに1:1で混ぜた液(混酸)を使う。これにガラスを浸け込んで半日ほど放置すればいい。不安ならば、浸けてある容器ごとホットプレートか何かで熱して煮るようにすると効果が高い。この場合は1時間も煮れば余裕である。時間の節約の為には、これがオススメだ。しかし劇薬で洗浄ということは、その薬品自体を後できちんと落とす必要が出てくる。その場合は超音波洗浄器の出番だ。つまり眼鏡屋の店頭においてある、ジージーうなる銀色の四角いツボのような眼鏡洗い機の強化版。水を替えながら10分1セットで、3セットぐらいやれば充分か。バッチリと綺麗に水がガラスの表面でのびると思う。しかし万が一駄目だったら、また混酸洗浄を繰り返すのもいいが、更に強力な方法も残されているので安心しよう。それは、まさに毒をもって毒を制する方法だ。とりあえず重クロム酸カリウムの硫酸溶液を用意する。つまり六価クロム。ヘタに触ると人命にもかかわる毒なのだがガラスは綺麗になる。ヨモヨモ考えないで、テキトーに放り込んで一晩くらい浸けておけばオシマイだ。まさに最終兵器の気品である。もちろんなことだが、濯ぎの超音波洗浄はよりネチくやる必要があるのは言うまでもない。最後に水がまるでガラスに染み込むかのように音も無く広がるさまには、きっとうっとり出来る事だろう。綺麗というからには、ここまで行って欲しいものである。ところでここまでガラスを徹底的に綺麗にするとなると、聡明な皆様にはおわかりのことだと思うが、濯ぎに使ったり最後にチェックする水は、もちろん水道水などという混ざりモノのキシャナイ液体で済むわけがない(笑)。そこでこの話は「綺麗な水」の話に続くのであった…。[つづく]