普段外食が多いのだが、中でも洋食には目がない。近ごろ洋食と言うと、フレンチやイタ飯などと小洒落た言い方をする人も居るが、本格的な西洋料理専門店の食事ではなく、あくまでも洋食といういいかげんなジャンルでなくてはいけない。早い話が気取って敷居が高い店は面倒臭いのだ。ラーメン屋ぐらいの気分で入れるような、そういうのが真の洋食と呼ばれるにふさわしい。
でもまぁ、金を払うからには安くて美味い店がいいのはあたりまえ。美味ければお値段については多少目をつぶろうか、そのぐらいの気分でいろいろと店を開発しようと努力している。しかしなかなかお気に入りの店は増えない。味も値段も手頃なのに、店内の雰囲気がキシャで以上、という店も結構多い。特に男が独りで入りにくい洋食屋など、言語道断である。今までにも幾つか、家族経営で奥さんや娘さんの少女趣味が内装に爆発していて大変遺憾に思った店があった。そういう料理の味と違うところで、客を無意識に選ぶ店は駄目である。それは洋食道として間違っている。カレー屋を謳いつつ、中に入ると客が皆ビールばかり呑んで騒いでいるような店、これなど詐欺の一歩寸前であろう。
たかがメシ、されどメシである。特に自分で飯屋を選んで、少なからず金を払うのだからやはり納得の行く味と値段にいい気分、これが揃わないと具合が悪い。幸いに自宅近くには20年以上通っている美味い洋食屋があり、普段はここで事が足りる。しかし新たな発見を求め、今日も週刊誌などを眺めてみたりしてしまうのである。最後に全然関係ないのですが、トンカツはれっきとした洋食です。お間違い無きよう…
感動の物語、というキャッチュコピーは良く聞くのだが、そういうものは大抵フィクションである。何故かそこに真実の尊さというものは、必須のものではない。ここでも以前話題になったが、フランダースの犬を初めとした情感溢れる物語に、ノンフィクションやドキュメントを謳ったものはない。中には原爆と千羽鶴のような話もあるが、あれも実のところ、ドもろフィクションである。鶴が千羽折られる直前に主人公が亡くなるなんて、実際とは大いに異なっているのであるが、話としてはそのほうが感動を呼ぶ。残された友達が千羽に足らない分を折り足し、棺の中に入れてやったなどフィクションならではの展開である。確かに現実ではそういう都合の良さは望めないであろう。
一方、我々は現実のドキュメンタリーでも感動する。プロジェクトXや知ってるつもりといった埋もれたエピソードを発掘し、真実の素晴らしさを伝えるようなテレビ番組を見るとき、やはりそこには感動がある。そこには小説やドラマのような都合の良い話や、よくできた偶然といったものはあまり見当たらない。愚直で不器用な人間が積み上げた事実だけが横たわっている。しかし、そういうものにも、人は感動するのである。
しかしここで我々は、本当に人が感動するのは、自分が心動かす現場に遭遇し、その瞬間を実体験した場合だけであることに気付かなくてはいけない。実際に感動を得られる経験など、普段なかなか無いために見落としがちだが、人間が感動するのは本来自分が生で心動かされたその瞬間だけなのだ。フィクションやドキュメントで感動するというのは、そこに語られた場面を想像し、疑似的に味わう架空の感動なのである。自らが実体験していないからこそ、真実かどうかを問われないというのが、そのトリックだ。確かに映画やドラマを見たり、文学を読みふけるのもいいが、人が最も大切にしなければいけないのは、自分が自然や生活の中で発見する、驚きや感動だ。そうした未知の感動の大切さを、今の社会や親は、もっと真剣に考えるべきなのではないだろうか?