〜関係者先生日記 vol.03〜


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 レジャーとは見返りがポイントになる。アミューズメントというのはサービスする存在があってのものだが、レジャーというのはあるがままの自然から恩恵を受けるということであり、対価はそもそも必要ない。つまりはなんちゅうか貝もぎである。まさにレジャーの王道。というわけで、そこいらの海水浴場というのはアミューズメントに過ぎないと痛感してしまう代物である。とりあえず泳いでるだけでも激満足、普段椅子に座ってるだけで暮らしているだけに都会とレジャーの縁遠さの深刻さに悶絶した次第である。なんちゅうかアミューズメントで満足しとったら人間はあかん。これからはレジャーやで〜。貝はうまかったで〜(笑)


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 ずいぶん間が開いてしまったが、前回はガラスを綺麗にするには綺麗な水も必要という話で終わっているのを覚えておられるだろうか。それではその続きといきましょう。
まず最初に綺麗な水というものが、一体どんなものなのか想像して貰えるだろうか。一番して欲しくない勘違いは、綺麗な水と美味しい水を混同することだ。そもそも口をつけた時点で、皮膚の有機物が混ざってしまうので、飲み水をパーフェクトに綺麗にする意味など、そもそも全くもって皆無である。早い話が、美味い水と言うのは、ミネラルなどの、水以外の混ざりモノの成分によって引き起こされている現象である。本来の水という物質は無味無臭。美味いとか不味いとか、味が無いんだから決めようのない代物だったりする。ちなみに水が不味いという場合についても、当然同じく混ざりモノの仕業。単に人間の舌がテキトーに区別しているだけの話なのである。  ここまで何度も簡単に、言葉で「綺麗な水」と濫発しているが、要は混ざりモノの無い水と言うことである。貴金属がそうであるように、混ざりモノの無い水のことは「純水」と呼ぶ。貴金属は純度を%で表現するが、水はそうした単純な純度では表現しきれない。どのぐらい水が綺麗なのかを表わす指標は、水の電気抵抗を用いる。理論上、水は電気を殆ど通さないが、混ざりモノが入っている場合それに呼応して理論値よりも電気が流れ易くなる。つまりこれを利用すればどれだけ水が綺麗になったかは、水がどれだけ電気を通さないかで知ることができるわけだ。  では、具体的に水を綺麗にするにはどうするか。平たく言ってしまえば「漉して蒸留」という実にオーソドックスな手法を使う。ただ漉すと言っても理科の実験ででんぷんを漉すのとはワケが違うし、蒸留といっても、薬局から蒸留水を買ってくるわけでは無い。そんなんで水が綺麗になれば、誰もこんな面倒なことなんかしない。より効率良く連続して綺麗な水を生産できなければいけないため、システム自体の規模は必然的に大きなものになってくる。水が無くて実験がストップしてしまう状況ほど、化学者にとって惨めなものは無い。まさに備えあれば憂い無し、人間万事塞翁が馬である(意味不明)。
 私の大学時代に研究室で作動していた純水製造システムは、実際のところ研究室の中で最も重要な装置であった。当時を思い出しながら、そのシステムを解説していこう。純水を製造するための材料に用いるのは水道水。これはコストの面からも現実的なところだ。毎朝システムを起動するため、最初は水道水のチューブをシステムにつなぐところからスタートする。実はここに結構重要なポイントがある。水道水は栓を締めていると、管の中に淀んでしまうことになる。淀めば管などから不純物が水に溶けだす。これは良くない。そこでまずはその淀んでいる水を捨てる作業を行う。その後システムに送水すれば、原水の品質を安定させることができて具合が良い。なんか細かいことのようだが、なんのことはなく2〜3分蛇口を全開にしておけば終りという幼稚園児でもできる作業にすぎない。ちなみに朝に目覚めの水を飲んでいる人がいたら、その水をコップに汲む前に、これと同じように淀んだ水を流してから飲んでみることを御薦めする。いきなり汲んだものと、空流しをしてから汲んだものを並べて飲み比べれば、違いを体感できるだろう。最終的に綺麗にするといっても、最初の段階のこうした違いは意外に大きいのである。  水道水が安定したところで、蛇口にホースを接続する。まずは浄水器のオバケのような物理フィルターを通し、小型ボンベのような陽イオン交換樹脂を2段通す。ここは物理的な不純物を取り除いた後、溶けている金属等の成分を取り除く段階だ。いきなり蒸留はしないのである。このフィルターを抜けると、蒸留前の1次タンクに水が入っていくわけだが、水道の蛇口で気にしたように、フィルター内部に淀んだ水もやっぱり流して捨てる必要があり、最初はコックを排水に切換えて捨てる。捨てながら電流計を使い、フィルターを通った水の電気抵抗をチェックする。これにより、フィルタ通過時の水の純度と、フィルターそのものの寿命も一緒に毎日チェックできる段取りだ。電流が決められた数値以下になったら、初めて1次タンクに水を注水となる。ちなみにこの水をイオン交換水と呼ぶ。ハッキリ言って、既に味が無いくらい綺麗な代物である。このレベルでも、学生が授業で行う実験では、必要の無い精度になっていたりする。しかし水を綺麗にするには、まだまだこれからが本番なのである。
 1次タンクには充分水があることを確認したら、いよいよ蒸留塔の起動だ。冷却管に水道水を通し、ヒーター部分の昨日の水を排水。1次タンクからヒーターに注水し、その後コックを微調整して蒸留加熱中に水が減らないペースを確認したら、電源を入れる。これで電源を切るまで蒸留水が製造される仕組みとなる。こうして毎日使う蒸留水を生産してくれる蒸留塔だが、ここでできる水の精度を維持するためには、できれば月イチ程度で混酸洗浄(前回参照)ぐらいはしたい。となるとメンテナンス性は高くないとダメであり、しかし安易にチューブでつなぐと汚れが溜まる。ガラスを溶接してシステムを構築したいが分解も簡単にしたい、というジレンマを抱える事になる。よって、このあたりの設計は担当管理者の腕の見せ所になる。実験が立て込んで水の使用量が多ければ、こっそり泊まり込んで終夜運転を行う事さえある。ノンストップ稼動にも耐える頑丈さなど、蒸留システムに求められる能力は、何気なくて実は高いものなのである。最終的には蒸留した水を2次タンクに貯え、更に最終装置である、超純水用イオン除去装置に送水される。私の居た研究室ではミリポア社の装置を使ってたのでミリポア水と呼ぶのが習わしになっていた。これは特許がぐるぐる巻きに絡まった謎の機械であり、膜を使ったフィルターで最後に漉すことで、比抵抗値(1cmあたり?)18MΩ以上と言う、混じりっ毛の無い水を手に入る為のものだ。当然かなり綺麗な水を入れなければ、この数値はなかなか出ない。だからこその蒸留システムであり、イオン交換装置なのである。まさにこれが綺麗な水である。もちろん味はしない(笑)。ここまで綺麗な水だからこそ、究極と言えるほど綺麗にしたガラス器具で扱わなければ意味が無い。同様にガラスを綺麗にするためにもこの純水は、当たり前のように必要になってくる訳である。両者は極めあっているが故に、切っても切れない関係なのである。
 長い話になってしまったがとりあえず、どんな山野の美しい清水を汲んで飲んだしても「美味い水やげ」とは言っても構わないが、迂闊に「綺麗な水やげ」とはあまり言わないで欲しい所である。そういう場合は「美しい」とか「清らかな」とか言うほうが気品もあるだろう。これらは、綺麗な水とは似ているようで意味が違う事は、もう皆さんもおわかりの事実のはずだ。こうした事を冷静に考えられるようになると、病的な潔癖症の人がコップや手をしつこく洗っているのさえも、実に滑稽で杞憂に過ぎない非論理的な事だと分かる。勿論我々の実生活には、こうして説明してきた綺麗なガラスや純水は言うまでも無く必要無い。つまりそれがわかるなら、何事も度を過ぎることの無駄な按配や、滑稽さが理解できるだろう。それをふまえて自分を見回し、綺麗なガラスや純水を使っているような部分は無いかを、たまにでも考えてみるのは、決して悪いことでも無駄なことでもないと思うのである。


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 最近、昔の自分を見ているような気分でインターネットに生息している若いゲームオタクとか、似たような趣味の人を見ていて必ず思うのは、非常に寸止めっぽい感じがすることである。なんちゅうか趣味というか興味のあることなのに、好きなことなのに、寸止め。いや寸止めどころか尺止めっちゅうくらい手前で止まっている。空手で言うと、型を解説してある本を買っただでおわり。そういうレベルの人が知茸をシレっとした顔でぶっこくものだから、もっと勉強したほうがいいよと、ゲンナリすること度々である。本を買っただけで黒帯を締めている気分というわけだ。この先にまだまだ深い世界があるのを知っているのに、見ないふりをして寸止めで満足&恍惚そして知茸。極めたとかいう寝言以前に、そんなテイタラクで趣味と言い張れるのか甚だ疑問である。つうか聞くまでもなくそれはNo,I don'tだろう▼こうした流れを世間的にはライト思考とか、広く浅くなんて能書きを垂れるのかもしれない。言われたくないだろうが、そういうのは早い話が真剣ではないのである。世の中、学校の勉強とか腰掛けでやっている仕事みたいなものに真剣にならない人がいるのは、人間が言葉を話す前からあたりまえのことなので今更どうこう言う気もしないが、でもそれが正当化されるのは、その人が最も興味を持って情熱を注ぐものがあればこそ、なのではないのだろうか?。真剣になるものがあるが故に、他に疎かなものが仕方なしに産まれてしまうというわけである。そういうことなら理解もできる、自分だってそうだからだ▼ここで勘違いされそうなのだが、ここで言いたいのは「学者バカ」や「単細胞オタク」を麗讃するということなのではない。疎かにするものが、疎かどころか全くの無視、ゼロになってはそもそもお話にならないということは、言うまでもないことだ。どんなに夢中になるようなものがあったとしても、人は風呂に入らなくてはならない。興味が無いから全くわかりません、というのは論外である。ある一定の最低ラインは守るというのはあくまでも常識のレベルの初歩的な話だから、ここでは割愛。興味の有無に対する姿勢の持ちようについては、それはそれで別の機会にでも…


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 話を元に戻すが、つまりその真剣になっていると自称するものに対し、今時の人がどのぐらい踏み込んでいるのかというときに、これがまた大層いいかげんだ、ということが言いたいわけである。そういう寸止めを法律か何かで禁止しろと提案しているのである。でも、そういう連中は大抵がこうイイワケするのだ。「極めた」「見切った」と。ブブー!ダウトである。それはちっともヤリあげてなんかいないのだ。あなたは限界に自分が届いたと思ってるの?。その先は本当に無いの?。答えは簡単。いつでもどこでも、どっちも答えはNoしかない。それにYesと答えているということは、どこかに嘘があるのである▼確かに発展途上の段階において上を見てもいきなり頂上は見えないように、ヤリあげているようでも、その道の達人から見ればママゴトのような程度に過ぎないことも確かにあるだろう。しかし、そもそもそうやってより高みを目指そうと志すこと、上がり続けようと思うこと、それこそが真剣にそうしたものと向き合うことであり、情熱を注ぐことではないのだろうか。悲しいかな、人間の想像力には限りがあるので、自分の頭の中の「限界ギリギリのレベル」程度しか目標にできないのは仕方が無い。でもそこまで自分がたどり着いた時に、そこから続いていく道が必ずやあるハズなのである。そのときの想像力が判定する「限界ギリギリ」というのは、今までのものより何倍も、いや何十倍も高みを指しているはずだ。何かを極めたと言われている人なのに、生涯そうしたものをネチく続けていけるのは、達人には達人が挑戦するべき目標があるということに他ならない▼たどり着いたその先は、自分が目指した場所までヤリあげた、成し遂げたことで成長した自分が、そこで改めて考えることである。ここで重要なことは、自分が掲げた理想を1度でも実現できたという事実である。そこにたどり着いたという自信である。この経験をしたのかしていないのかは、人があらゆる物事に向かう上で大きな違いとなって現れてくるのである。寸止めしている人には、そうした考えは永久に出てこない。それが本当に限界なのかもわからない。悲しいではないか、好きなことだとか、興味があるということについて、わずかなりとも正しい判断を下せないことが。情けないではないか、情熱をそそいでいるはずのものに、自分勝手な行き止まりを作りあげ、自分を偽ることが!▼もし、なにか興味を持った/持っているものがあるなら、趣味だからと手軽に考えず、真剣に取り組んでみようではないか。そしてまずは自分の想像力の届く限界の理想を目指して、ヤリあげてみよう。そこは、新しく広がった自分の視界や視点、そして自分への自信が満ちあふれていること間違いなしである。「理想あるならば1度は現実にせよ」まずは自分が、一番忘れたくない言葉である。


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 以前から思っているのだが、自転車の乗り方が間違っている場合、死刑という法律を国会に作って欲しい。本気である。夜間の無灯火、車道の右路肩を走行など、自殺行為を自ら進んでやっているような輩は、地位や年齢などに一切係わらずその場で死刑執行する許可を全ての国民に与えるべきであろう。少なくとも、傍を通るときに横から蹴りたおしたら金一封とか、車で轢き殺したら勲一等とか、そういう制度が必要だ。重ねて言うが本気だ。誤解してほしくないのは、交通違反をしたら即死刑ということではない。罰則がいいかげんなことに甘えて、他人に迷惑を掛けるような乗り方や暴走をしている自転車ライダーに、自分がどれだけ危険な、ニトログリセリンを背負ってラジオ体操第2を始めるようなことをしているのか知ってほしいだけだ。
 夜間の無灯火を他人に発見されたら死ぬとわかっていれば、そういう人は居なくなるだろう。車道の右路肩を走る馬鹿も絶滅するに違いない。それでいい。少なくとも真面目に周りに迷惑を掛けないように走っている多くの自転車ライダーが、そういう知恵遅れの巻き添えを食らうことはなくなる。現在の自転車マナーの悪さは、本当にそこまできてしまっているのである。自分が普段、23区内はできるだけ自転車で移動しているだけに、あんな奴等と一緒にされたくないというのが本音である。


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 昔と今を比較する、というのが結構好きである。東京という街は30〜40年ほど前についつい勢いで、ちょっとやり過ぎなくらい大改造してしまった。酔った勢いで自分が借りているアパートの壁を全部、ペンキでピンクに塗り替えてしまったぐらいの、取り返しのつかない大改造を、昔の東京という街がやってしまったのである。だから、当時を写した写真集などを見てみると、その変貌の大きさに驚かされる。とにかく、その現在とのギャップが実におもしろい。写真集の中には今の風景を、同じ場所で撮影してきちんと並べているものまであり、実際に行ったことのない知らない場所や、入り組んだマイナーなスポットでも、そうした感覚を味わえたりする。自分が生まれる以前の世界の不思議っぷりというものは、極めて魅力的だ。
 あまり熱中して、そういう写真集などを見ていると、ついついその30〜40年前の世界に今の自分が入り込んで、好き勝手に歩き回ってみたい感覚に陥る。都電に乗り、明治の建築の欧風ビル群を仰ぎ、高速道路のない広い空を見上げる。毎日が、ドモロ楽しいだろう。いつまでも飽きないだろう。
 しかし、今の自分の生活を振り返ると、それが単なる妄想でしかないことに気付く。コンビニやハンバーガー屋、ファミレスに依存した食生活、エアコンがあたりまえの交通機関や便利な施設。氾濫するサブカルチャーへのコミュニケーションツールである携帯電話やインターネット。そんなものは30〜40年前には無いのである。願いがかなって実際に自分がその時代に行ったら、呼吸ができないくらいの壮絶な苦しみを味わうに違いない。
 結局、自分が記憶のない過去に思いを馳せているのは、単なる勘違い、妄想でしかない。きっとあと20年ぐらい経って「80年代って良かったよねぇ」とか自分の若い頃を思い出してしみじみ言ったとしても、その時の自分は昔に戻れないのである。そこには今よりも20年分の社会の便利さが染みついて抜けなくなった、自分が居るに違いない。そこに思い当たると、時代によって社会から失われたものの尊さは、私にはいつもわからなくなってしまうのである。