〜デューク高沢 vol.01〜


・歴史  デューク高沢

小学校で初めての歴史の授業にあたって先生が最初に言った言葉を私は今でも鮮明 に覚えている。「なぜ、歴史を学ぶのか?」こんな疑問に対して、つい私は戦争について考えてしまう。戦争の歴史を振り返ると、そもそも戦争は、利害の不一致や土地や物の奪い合いという理由によって、延々と繰り返されてきたのである。そして、相手よりも強く、確実に勝つためにと、腕を鍛え、ときには知恵を駆使して、武器をあみだすのである。相手が強くなれば、その上を。こうしたイタチごっこも延々と続くように見えてそうでもなかった。人の知恵は原子爆弾を生み出し、太陽のひとかけらとも言える水素爆弾を生み出した。戦争をする者同士が、相手を滅ぼすどころか世界を破滅させるこの兵器を手にして対峙したとき、それは、対立する人間同士が、お互いのコメカミに銃口を突き付けたことに等しいものとなる。いわば、確実に相手を仕留められる一方で、自分も確実に殺される事を意味する。相手と刺し違えては、自ら戦争を選択する事は全く無意味なものとなる。それを知っていて戦争を仕掛けるほど国の支配者たるもの頭が悪い訳がない。歴史は勝者が造り出すとは言ったものだが、最大の勝者たるアメリカとソ連が最初に対峙し、20年30年と遅れて、フランスが核実験を行い、つづいて中国・インド・パキスタンときた。核実験の最大の目的は、他国に対しての核兵器の戦力誇示である私は思う。そうすれば、うかつに手を出せないからだ。皮肉にも、世界は破滅への片道切符を共有する事によって、一応の平和が保たれる事となったのである。人間はトコトンまでやって本当に悟る生き物であることが、私が戦争の歴史から学んだ事だ。歴史を学ぶ事とは人を知る事と見つけたり(笑)


・宗教  デューク高沢

 なんか、週刊マガジンのMMRという漫画で今年は人類滅亡の年と書いているが、 漫画でやる話にしては、まったくもって感心できないのが、正直な感想である。 よくノストラダムスの予言が話題として持ち上げられるが、当たる当たらないは ともかく、人の役にたった前例をいまだかつて聞いたことがない。そんな予言を 信じる行為が、はたして利口であると思えようか?ましてや人類滅亡の予言であ る。信じて何をするというのだろうか?ただ予言の言われるままに不安におびえ る日々を過ごすというのだろうか?世紀末だからという不安には失笑をも禁じ得 ない。クリスマスを祝う一方で葬式はお坊さんに頼るような、どうせ宗教に節操 のない国なんだから、今年ぐらいイスラム暦を採用してみるというのはいかがだ ろうか。ちなみに回教暦で今年はおよそ1378年。アーメンソーメンナムアミダ。


・現代社会  デューク高沢

 目的・意図の不明な、路上に座る人達を街なかで見かけた人も少なからずいると思 う。どーでもいいことだが、こんなどーでもいいことを、わざわざ某テレビ朝日の某ニュースステーションで特集を組んで取り上げていたのには、なんちゅーか呆れまし た。住んでいる家や帰る所があるはずなのに、パチンコの開店待ちをしているわけ でもなく、コンビニのそばや繁華街などで座り込んでる人達の座る理由はいたって簡 単「何も出来ない」「する事がない」「何もしたくない」大体こんなところでしょう。多くは10代後半から20代の人達ではあるが、これぞまさしく用途不明であります。飲食店の店員の接客態度にしても、質の悪い店員が最近目に余るようになってきた。運送業者のくせに、トラックの通れる道路でも狭くて入れないとボヤいて、重たい荷物を200mも運ばせたりする業者もいる。対人関係でもめごとをおこし、すぐに仕事を辞めてしまうような人が、ここ20年で圧倒的に増えたと私は考えている。不況が政治のせいであるとか能書きたれる以前に、国全体の労働力の質が低下している。高齢化社会といわれて久しいが、それとは裏腹に精神年令の低年齢化も進行している。そう、確実にこの国は老けているのだ。こんな日本ではあるが、しかしながら私はそう簡単につぶれる国でもないと思っている。以下、つづく。(笑)


・日本文化  デューク高沢

 人の一生の中で、幼少から少年期の間に体験した事は、その後の性格や生き方に 反映されてくる。このことを国家に当てはめると、その国の創世期の歴史が、現在 に至る文化やお国柄に如何に反映されたか分かる。先日、この国は確実に老けてい ると書いてなおも、そう簡単には潰れないだろうと言った事には理由がある。 日本特有のお家芸が根強く存在するからだ。それは「ものまね」である。テレビで やるような陳腐な芸能人もどきから、はたまた現在の電子技術に至るまで、この 国はまねっこで溢れている。日本語常用漢字は中国語に使われる字の原形をほぼ とどめているし、ひらがなは漢字から派生した文字である。東京駅の赤レンガ駅舎 も、東京タワーも、オランダやフランスの建築物が元にして作られた。そもそも、 聖徳太子の時代から日本は他国の文化を取り入れて、自分達の好きなように作り換 えることをしてきた。現在のテレビゲームの隆盛も、商用漫画の物真似同人誌を作 る人や買う人が多いのも、偉大なる物まね文化のなせる業と言える。売れてるもの があれば、似たようなもが涌い出てくる現在の音楽業界もしかり、そして、そうい ったものを受け入れる国民性があってこその業界である。この真似っこを受け入れ る土壌こそ、古くから根付いている日本固有のお国柄であると私は考えている。物 真似とそれを支持する人々という関係は、そう簡単に滅ぶものでもないと思う。だ から、日本はそうやすやすとくたばらないと思うのであった。


・分化相違  デューク高沢

 言うまでもないことであるが、この地球上にいる人間すべてが同じ速さで時間の流れを共有している。しかし、歴史の流れは国によって進んでいるところと遅れているところがあるように思える。つい先日のニュースを見ていたら、やはりというか話題になった国があった。北朝鮮である。なんとまぁ、弾道ミサイルをついに発射しちまったそうで、しかも飛んできた方向が日本の海だというのだから、国のお偉いさんがこれまたエライ騒ぎになってエライこっちゃということらしい。実は我々日本に暮らしている人にとって、海の向こうのウサン臭そうなこの国の情報というのは本当に乏しい。旅行モノの特番やバラエティ番組などでも決してこの国だけは取り扱わない。旅行代理店でも北朝鮮ツアーなんてのは聞いたことがない。新聞・テレビなどで入ってくる情報といえば、むこうの重要人物が中国へ亡命したとか、国民が亡命したとか、潜水艦が韓国の沿岸にやってきて乗組員が全員自害していたとか、国連の核施設の査察を断わったりとか、まったくもってロクな話がない。おまけに食料不足で救援を求めてきたので日本が米を送ったかと思えば、それっきりである。私は、この国にかなりの偏見を抱いている。なによりも国の風景というものがあまりにも少ない。水害を被った村を民衆がみんなで復旧活動をしている写真とか見たことあるが、想像するにこの国は農地・荒れ地が国土のほとんどを占めていて、電気が通っているものの、一般家庭の住まいは質素な小屋に近いものだと思う。ニュースで写される首都の映像はごく限られた世界の話で、多くの人は貧困に苦しんでいる状況であろう。つまり封建的なのだ。少なくとも、日本よりははるかに歴史の遅れている国だと言える。こんな国でも残念ながら科学の知識だけは他の先進諸国と共有していて、核兵器だけは持っているのだから困ったものである。ようは精神未熟の子供がいっちょまえに護身用に刃物を持つようなものである。この世の中、困った話には不自由しない。@


・思想  デューク高沢

 今年もスズムシの鳴き声が聞こえる季節になってきた。さて、昆虫を含む虫の仲間 は、地球上で最も多種多様で、絶対数においても他を圧倒して繁栄している生物である。わが家の隣は空き地で雑草が生い茂っていて、家の庭も様々な木々や植物が植えられている、虫には居心地のよい環境である。それとは裏腹に、私は大の「虫嫌い」である。こんな私であるが子供のころから疑問に思っていることがある。何故、蛍光灯の光に集まってくるのか?若干の例外こそあれ、羽根の生えた名も知らない小さな虫ほど、共通して夜間の街灯や家屋の照明に寄ってくる。恥ずかしながら、これに関連する科学読本を見たことがない。疑問に思っていながらもいまだにわからないのだ。そんなとき、たまたま読んだチベット仏教に関する本に面白いことが書かれていた。死んだ生き物の魂は49日のうちに何らかの別の生物へ生まれ変わるという教えである。その生まれ変わる間に魂は様々な光の幻覚を見るという。とりわけ生物の魂が惹かれる光というのが、太陽光のような強い光ではなく、青白く柔らかい薄明かりなのだと教えは説いている。蛍光灯の光に集まる虫には、そういった魂の名残りがあるのかもしれない。無論、そんな実証はされていない。しかし、こういった思想は、宗教とは名ばかりのヤバイ集団よりも、はるかに真実を言い得て高尚であると思う。なによりも物語として面白いと思う今日このごろである。


・環境問題  デューク高沢

 環境問題の話はときおり耳にする事がある。その中のひとつに地球温暖化という問題がある。いつぞや京都で開かれた国際環境会議(名前ド忘れした)で、先進各国が二酸化炭素排出量削減の件で、国によって目標値の差があまりにも開いて、議論がまとまらずに終わってしまったらしい。なんともお粗末な事だが、実は地球温暖化について、私はかなり楽観視している。人間の産業活動がこのまま続くと100年で2.5度地球の気温が上がるという報告もあるが、その一方で石油資源の埋蔵量は今のまま消費してゆくと40年足らずで枯渇するともいわれている。すなわち、温暖化が深刻な状況にすすむ前に、その要因は削られるのだ。実に都合がいい話であるが、自然界のつり合いというのは、人間の想像を遙かに超えて精妙であると私は思う。つりあいの取れない物は、何かしらの作用で元に戻ろうとするものだ。しかしながら、今現在でもすでに石油資源の代用を考えられている為、実際に温暖化はより進行するであろう。それと、石油の代替で原子力の利用が一層進む事になれば、石油資源以上に廃棄物の問題で重大が事故が起こるかもしれないが、もし原子力以外に決定的な選択肢が無いのであれば、それは乗算的に進んでゆく産業に対する自然界の反作用と解釈できる。原子力への選択は、爆発的な人口増加・産業活動への最後の自然界の警告であると私は思う。生態系では、増え過ぎた種には食べ物が不足し、ある一定の数まで減らされるという作用があるが、人間の社会はその中から逸脱した存在である。そうなると、それはそれで然るべき自然界の作用というものが起こるものなのだと、環境問題を考えながら思った。いずれにせよ地球環境を完全に制御できる所まで人間の科学力は進んでいないのだから、最終的には自然界の狂気じみた反作用力によってある一定のつりあいは保たれるであろう。余談であるが、これは、まったく裏付けのない私の直感である。