趣味の漢詩

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本 能 寺ほんのうじ     頼 山陽らいさんよう
 本能寺溝ほんのうじみぞ幾尺いくせきなるぞ
 吾大事われだいじすは今夕こんせきり
 藁粽こうそう手に在り藁併こうあわせて食ろう
 四簷しえん梅雨天墨ばいうてんすみの如し
 老の坂西に去れば備中びっちゅうの道
 むちげてひんがしを指せば天お早し
 我が敵は正に本能寺ほんのうじに在り
 敵は備中に在り汝能なんじよく備えよ

【通 釈】
 本能寺の溝の深さはどれ程あるのか。我、光秀が天下の大事を行うのは今夕をおいて外に無い。
 心は はやり、手にしていた ちまきを、皮ごと食べてしまった。時はつゆ、梅雨は軒の四方を閉ざす
 様に降り注ぎ、空は墨を流した様に真っ暗な夜である。夜陰に乗じて、亀山城を出発した明智軍は
 やがて運命の分かれ道、老の坂に差し掛かった。此所を西に行けば、備中高松城。
 しかし、光秀は鞭を翻して、全軍に東を指し示し、まだ夜明けには早い頃、疾風となって桂川を渡る。
 光秀はここで「我が敵は本能寺にあり」と絶叫す。信長を打ち大願成就したが、しかし
 “光秀よ、汝は備中の敵、秀吉に よく備えなければならなかったのだ。” 
 山陽は、こう言って、如何なる理由が有るにせよ、反逆は許せないと、痛烈に皮肉っている。
 後に、「三日天下」と汚名を浴びた、「本能寺の変」である。
【頼 山陽】(1780〜1832)
江戸時代後期の儒学者。芸州(広島県)竹原の人。父・春水。
七才で叔父・杏平に学び十四才で次の詩を作っている。

十有三春秋、逝く者は已に水の如し。
天地初終無く、人生生死在り。
安くんぞ古人に類して、千歳青史に列するを得ん。

十八才で昌平黌に学んだが常軌を逸することがあり杏平に伴われて帰国した。
二十歳で結婚したが、不行跡が多く翌年家を出奔し、脱藩の罪で四年間自邸に幽閉
された。この間読書と歴史の勉学に励み、二十八才の時有名な『日本外史』
を書き上げた。三十一才で備後の菅茶山の廉塾の学頭となった。
住居は転々としたが、京都の鴨川の西に新邸を構え、これを「水西荘」または
「山紫水明処」と称した。天保三年九月二十三日五十三才で病没。
著書には日本外史の他、『日本政記』 『春秋講義』 『山陽詩鈔』8巻 『山陽遺稿』17巻 
『日本楽府』1巻 『山陽詩集』23巻 『山陽文集』13巻がある。
詩は人心を鼓舞するものが多く明治維新の若い志士達に愛吟され、多くの
感化を与えた。門下に藤井竹外・村瀬太乙・坂井虎山・森田節斉・橋本竹下などで
安政の大獄で処刑された頼鴨高ヘ第3子。

【鑑 賞】
 この詩は八句から成ってはいるが、漢詩の法則からして、律詩ではなく、楽府体の一つである。
 世に名高い「本能寺の変」をドラマチックに歌い上げたスケールの大きい頼 山陽の傑作の一つである。
 明智光秀は天正十年五月二十九日、備中への出陣に当たり、連歌師に、本能寺の溝の深さは
 どれほどあるか、と尋ねた。又連歌の発句で「時は今雨が下たる五月哉」と読み、信長 襲撃の
 決意の程をほのめかした。

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