廬を結んで人境に在り
而も車馬の喧しき無し
君に問う何ぞ能く爾るやと
心遠ければ地自から偏なり
菊を采る東籬の下
悠然として南山を見る
山気日夕に佳く
飛鳥相与に還る
此の中に真意有り
弁ぜんと欲すれば已に言を忘る
【陶淵明】・陶潜(365〜427)
陶淵明には代表作として「帰去来の辞」
がある。
「田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす、
胡(な)んぞ帰らざる」の名文句だ。
陶 淵明は、若くして父を失い、
貧困の中で成長し、六十三年の生涯であった。
県令をやめて故郷へ帰った時の詩に詠んだ
「帰去来辞」がある。
貧しい家に生まれた陶淵明は親に迫られ、
役人になったが、宮仕えは不本意で、
各地を放浪、生涯の大半を民間人として
過ごした。
晩年、戦乱の世に嫌気がさし、田園に
帰って畑を耕し、詩をつくった。
「帰去来の辞」は世俗との決別の詩だ。
又、「晴耕雨読」の語は、
陶淵明の詩から出た。
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【通 釈】
私は、粗末な庵を、人家の多い人里の中に構えている
それなのに、人々がやって来る車馬の往来の
騒がしさもない。
“ちょっと君に聞くが、なぜこのような騒々しい処に
住んでいながら、静かにしていられるのかね。?”
“それはね、私は心が人里から遠く離れているから、
どこに住んでいても、自然に辺ぴな場所になるのだよ”
菊の花を、東の垣根のもとでつみ、又ゆったりとした
気分で南山(廬山)を見上げる。
山のかすみは、夕方には特に美しく、
空飛ぶ鳥も、互いに連れだって
我が家へ帰って行く。
このような、のどかな自然の中にこそ、
人生の本当の意味がある。
それを、言葉で言い現そうとしても、とても
言い現すことなど出来るものではない。
【語 釈】
廬=隠遁した人住む家、いおり。 人境=人里。
而=それなのに(逆接の接続助詞)
喧=騒がしさ。 爾=そうである、然と同じ。
偏=へんぴな所。 南山=盧山のこと。
山気=山のかすみ。 日夕=夕方。
此中=このような生活の中に(采菊**以下四句のこと)
欲弁=言葉にしようとする。 已忘言=言葉を忘れてしまう。
【鑑 賞】
この詩は、陶淵明が、自問自答の形をとっている
ところが面白い。
どんな処に住んでいても、心の持ち方次第で、
静かにくらせるのだ、と言い放っている。
陶 淵明は、田園詩人として、自然に親しみ、
酒と詩を楽しみ、晴耕雨読の暮らしを楽しんだ
詩人である。
又、その詩風は、後の、多くの詩人に影響を与えた。
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