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海 南 行かいなんこう      細川 頼之ほそかわよりゆき
人生五十 功無きを花木かぼく春過ぎて夏已に中ばなり
満室まんしつ蒼蝿そうようはらえども去り難し
って禅榻ぜんとうたずねて清風せいふうせん
海南行

七言絶句(上平一東韻)功・中・風


【語 釈】
★海南行=海南は讃岐。行は詩の意。
海南の地へ赴く意。
★花木=花や木。 ★夏已中=初夏・五 
月。 ★蒼蝿=青ばえ。ここでは、うる
さい 小人のこと。★禅榻=禅家の長椅
子で、座禅に 用いる。
【通 釈】
「人生五十年」という。自分はもうその
年を過ぎたのに、これといった功績も無
く、恥ずかしいばかりである。花や木も
春の季節を過ぎて、夏の半ばにさしかか
っている。うるさい蝿がやって来て、い
くら追っ払っても又やって来る。仕方が
ないから、起ちあがって、部屋を出て座
禅椅子でもさがし、清らかな風に吹かれ
て横になるとしようか。
【鑑 賞】
政権を離れ讃岐へ帰るにあたり、頼之が感慨を詠った
ものである。自分の努力は報われず、ただ恥じいって
いる心境がよく表れている。
 「愧ず」は謙遜してではなく、本当に慙愧に絶えない
思いを述べている。花木は自分の人生の喩えもあり、
活躍していた頃の追憶を差し、その盛りの過ぎたのを
「夏すでに中ば」といって、旅立ちの季節と重なりいっ
そう実感がわいてくる。
 転句では、うるさくつきまとう小者を蝿に喩えている。
結句では、禅道にはいったことを、禅榻に喩えるなど、
この詩は、比喩をうまく活用しているところに素晴らし
さがある。
 頼之は武人でありながらも、杜甫を学び、詩に対する
造詣も深かった。「野史」(飯田忠彦)にも「頼之嘗て禅
を好み、暇あれば則ち杜少陵読み、能く記憶す」とある。



【細川頼之】(1329-1392)
南北朝時代の武将で、今の愛知県に生まれた。
人となりは、穏やかで、誠実、つつしみ深く人情
に厚かった。文武の道にすぐれ、足利三代の将軍
に仕え、又南北朝を合一するに尽力するなど、
多くの功績を残している。頼之は読書を好み、
和歌を詠み、又禅を収め、更に尊氏に従って転
戦し、山陽一帯をしずめた。将軍義詮よしのりに背いた
細川清氏を讃岐の白峰城に攻め亡ぼし、四国を
平定した。義詮は病床より、讃岐に居た頼之を呼
び寄せ、幼少のわが子義満を補佐するよう命じた。
義詮は没するにあたり、義満に「吾汝に一父を残す
、その教えに違うなかれ」と言い置いている。義満
は頼之の忠言、切諫を無視したため、頼之は職を
辞し、髪をそって名を常久と改め、讃岐に帰ったが、
義満は反省し頼之の功を思い再び国政にさせてい
る。山名氏清が京都を攻めた時、義満の参謀として
戦い、鎮圧した。享年六十四才。義満は自ら柩を
送り、鹿苑院に冥福を祈り、法華経を書写して供養
したという。頼之は当時の武将中、郡を抜いた名将
として歴史に特筆されている。
【解 説】
細川頼之が晩年、四国の讃岐へ帰るにあ
たり、感慨をこめて詠ったもの。人間は
誰しも志を達することは難しいものであ
る。頼之も志を達せず功績がなかったと、
恥じているが、謙虚な人柄が感じられる。

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