趣味の漢詩

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感あり

七言絶句(上平十一真韻)塵・新・人


有 感かんあり     山崎闇斉やまさきあんさい
そぞろにおも天公てんこう世塵せじんを洗うを
雨過ぎて四望しぼう更に清新せいしん
光風霽月こうふうせいげつお在り
唯缺ただかく胸中洒落しゃらくの人

【語 釈】
坐憶=何となく考える。「坐」は
そぞろと読む。
例=坐に愛す楓林の晩(山行)
天公=単に「天」意でもよい。
俗にいう“おてんとうさま”。
例=天公もと我を知る(漫述)
四望=四方。あたりを眺める。
光風霽月=さわやかな風、清らかな月。
心が清らかな、さっぱりとしたたとえ。
洒落=さっぱりしていて物事にこだわ
らぬこと。
【通 釈】
 何とはなしにが、人間の世の塵をすっかり
洗い清めてくれたかと思われるほど、一雨過ぎ
たあとの、あたりの眺めは、なんと清らかで気
持ちのよいこだろうか。かつて黄庭堅が、周濂
渓のことを「光風霽月の如し」といったが、ま
さにそのとおりだ。その、光風霽月は今もなお
見られるが、それに比べ今の世には、胸中のさ
っぱりした人物が欠けているのが残念だ。
【鑑 賞】
闇斎が今の世の人の低俗をなげいたもの。
詩全体の調子がなだらかで強い感情は表には出
てないが、その中から人と相容れない厳しい闇
斎の憤りが感じられる。
 人は常に昔の人は良かったと、懐かしむもの
なのだろう。エジプトのピラミットの中の五千
年昔の文献から、昔の青年は良かったと書いて
あったという。これからもこの懐旧の情は永遠
に続くのだろう。
 かつて、福田赳夫氏が総理大臣だった時、次
期総裁選に敗れ、記者の「感想は?」の質問に
一言「光風霽月」と言い放ったのを印象深く思
い出す。
【山崎闇斎】(1618〜1682)
 梅庵とも号した。近江(滋賀県)の人。闇斎
は幼時から悪がしこく、気が荒く、手がつけら
れなかったので、父は延暦寺に入れ、さらに妙
心寺に入れて僧にした。強い性格から懸命に禅
を修行したが、素行の悪さは直らなかった。そ
こでついに寺を追われようとしたとき、土佐の
山内氏の公子で寺僧となっていたものが擁護し、
土佐の吸江寺で勉学に励ませた。南学(土佐の
朱子学)を唱えていた、野中兼山も闇斎の才器
を認め経書を学ばせた。闇斎は朱子学を修め、
闢異(びやくい)と云ふ一書を著し、これを寺門に貼って
去り、儒者となった。この時闇斎25才だった。
その後京都に帰り家塾を開いて朱子学を教えた。
弟子への態度はきわめて厳格だったが、弟子は
日ましに増えた。
 闇斎は貧しかったため、書商の隣に住んで書
を借覧していた。その書商に、学問に関心の深
い井上河内侯が、師とすべき者を紹介してくれ
と頼んだ。書商がこれを闇斎に告げると、闇斎
は「道を問わんと欲せば先ず来たりて見よ」と
いった。
 河内侯は「礼記」に『来たりて学ぶも未だ往
いて教うるを聞かず』とある。闇斎先生はよく
これを守られた。といい、直ちに、闇斎を訪れ
た。会津侯保科正之ほしなまさゆき美作みまさか侯加藤泰義もまた礼
を厚くして、闇斎に師事した。特に会津侯は最
も厚く遇して終始変わらなかった。上は公卿諸
侯から、下は平民に到るまで門人六千余人を数
えた。
 闇斎は、晩年、吉川惟足について神道を修め、
垂加神道を唱えた。これをそしる者も多く、弟
子にまで反対する者が出た。しかし、垂加神道
を創めて神道に新しい体系を立て、後世の尊皇
運動に大きな影響を与え、明治維新の思想的原
動力の一つになっている。享年65才。著書に、
文会筆録、垂加草全集、洪範全集、白鹿洞学規
集注、会津風土記、大和小学等がある。
【解 説】
たまたま雨後の清らかな月を眺め感ずるところ
を詠った詩だと思う。光風霽月については、『
宋史』周敦頤とんい伝に「黄庭堅称す、その人品甚だ
高く、胸懐しゃ落、光風霽月の如し」とある。周
敦頤は濂渓れんけいと号し、宋の性理学の初めを開いた
学者。

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