東人の新居浜生活新居浜見聞録 Part 2


山火事

ある日の晩、仕事を終えて帰宅するため車を走らせていると、西の方の空が赤くなっていた。何か変だと思い、車を止めて見てみた。西の方にある山が赤く見える。また、何か雪のようなものが降っていた。雪が降るほど寒くは無い。車のラジオをつけると、丁度、山火事のニュースを報じていた。西条の山とのことであり、山が赤く見えたのがその山火事とわかった。
次の日に会社に行くと会社の回りには山火事の灰が積もっていた。雪のようなものは灰であった。
西条の山ではあるが、この辺りは幾つもの山が連なった地域であり、私の住んでいる星越の社宅の裏にある山もその一部である。幸い、新居浜の方には延焼せずに鎮火した。
山火事が続いている間、ヘリコプターが飛んで来て消火作業をしているのが見えた。昼間には山の数カ所から煙が上がっているのが見えた。
この山火事は数日間続いて、鎮火した。
東人にとって、初めて体験した山火事であった。

星越の社宅の裏山も時々山火事になるという話を聞いた。裏山に生えている木は比較的若い木が目に付くが、山火事で焼けた後に植林されたものらしい。 10年に一度ぐらいの間隔で山火事が発生するらしい。そのときは会社の消防車が消火に来たという話を聞いた。


ツクシ

家の前の道と玄関までの間に小さな川が流れている。道から家までは小さな橋を渡り階段を上がって玄関に着く。
春のある日、当家の前の川のあたりで、知らない人が何かしている。話をしてみるとツクシを採っているとのこと。見ると沢山のツクシが生えている。
家の前の小さな川では昔氾濫したことがあり、その時に山からツクシの種(胞子?)が流れてきて、以後川周辺でツクシが採れるようになったそうである。
愛媛ではツクシを食べることがあるとの話で、その人も遠くからわざわざツクシを採りに来たそうであった。
ツクシなど山に行かなければ見られないと思っていたので意外であった。ツクシの採れるような場所に住んでいたとは!。
その後スーパーマーケットに行ったら、ツクシが売られていた。

1998 年3月7日、庭でツクシをみつけました。
春は刻々と近づいています。


阪神大震災

朝、大きな揺れで起こされた。
新居浜に来てから大きな地震を経験していなかったので、驚いた。
関東にいるころは地震は頻繁におこっていた。
昔から、少し大きな地震が起きるとテレビやラジオをつけるようにしている。
地震情報を知るというより、同じように揺れている放送局の状態を確認すること、および放送局から地震発生時に慌てぬようにとの呼びかけが有るからである。
今回は、別の意味でテレビをつけた。
これだけの揺れを感じる地震なら、どこか別のところで大きな地震がおきたのでは? それが故郷の関東では? との懸念からであった。
地震直後のニュースでは、未確認情報として神戸で震度6と報じていた。
まだ、神戸の惨状が明らかになる前に出勤した。
会社に行き、昼のニュースで神戸の被害が大きいことが報じられた。
夜になり、帰宅時に車のラジオをつけるとラジオ放送も、尋ね人のメッセージに変わっていた。
帰宅すると、妻が「神戸は地獄だ」と言い、芦屋にいる友人のことを心配していた。
何日か後に、妻の芦屋の友人から電話が有り、無事であることが確認された。


お手玉

 新居浜に来て、新居浜がお手玉の盛んな所であることを知った。
 お手玉などは、子供のころに女の子達が遊んでいたのを記憶しているが、お手玉の全国競技会が新居浜で開かれ、大人がお手玉の技を競っているようである。
 新居浜のお手玉競技会の会場となっているリーガロイヤルホテルに行ってみた。時間が少し遅かったため、競技は終わっていたが、会場の外に設けたお手玉体験コーナーでは、子供達がお手玉をしていた。
 この次には、もう少し早く行って、お手玉の妙技を見てみたいと思った。

97年の第6回全国お手玉遊び大会は、8月24日(日)9:30〜15:00にリーガロイヤルホテル新居浜にて開催されました。
 昼少し過ぎた時に会場に到着した。会場の入り口辺りにも多くの人が立っていて中が良く見えなかった。人混みの中で状況は良くわからなかったが、丁度日本テレビ系列の24時間テレビの中継が行われていたようだ。数人がお手玉をしている。また、会場には多くの人が座っていた。合図とともに座っていた人が一斉にお手玉を始めた。
 会場には24時間テレビの垂れ幕が掲げられていた。それには、「400人のお手玉名人が挑戦する大技」と書いてあった。
 その後、会場の照明が暗くなり、400人の操るお手玉は黄色の蛍光色で光るようになっていた。暗い中で黄色いお手玉が多数動いていた。
テレビ中継が終わると、団体戦が始まった。競技場は畳8枚の広さで、中央に正方形の緋毛氈が置かれ、緋毛氈には対角線が一本引かれていた。競技はこの正方形の半分の三角に一人づつ入り、対戦が行われる。制限時間までにどちらが先に失敗するかを競うものであった。
 団体戦は5人一組で、それぞれ順番に競技し、両手でお手玉2個、片手でお手玉2個、両手の3個等、競技の内容も変わっていく。
 団体戦は、すぐに決着がつく場合と、双方がハイレベルの場合は制限時間までどちらも失敗せず引き分けとなる。団体戦は延々と続いてた。
 
 
 1999年6月17日のasahi.com (朝日新聞のホームページ)で、「日本のお手玉の会」についての、以下のような記事を見つけた。

  
 愛媛県新居浜市の「日本のお手玉の会」(武田信之会長)が、女子テニスのマルチナ・ヒンギス選手(スイス) に「お手玉三段」の段位認定証を贈る。
 ヒンギス選手は今年2月、東レ・パンパシフィック・オープンでシュテフィ・グラフ選手(ドイツ)と対戦。グラフ選手が左足を痛めて治療中、テニスボール3個を使ったお手玉を披露した。
 日本側代理人を通じ、認定証とお手玉5個を届ける。「テニスを極めた選手なら、お手玉もお手のもののはず。最高位は六段。次は5個を操れる五段を目指してほしい」と会員。

 


(2001/04/19)
4/14付の新聞で、「日本のお手玉の会」が伝承文化の普及活動評価され「生活文化賞」を受賞したことが報じられた。
 日本ファッション協会が選ぶ第十回日本生活文化大賞として、生活文化を創造していく中で新たな息吹を感じさせる活動を行った個人や団体を対象として選ばれるもので、全国で6団体が受賞した内の一つに選ばれた。
 

【関連URL】
       日本のお手玉の会
       新居浜物語


太鼓祭

会社のカレンダーでは10月16日を含む3日間が休日になっていた。新居浜の太鼓祭のためである。
「祭のために会社が休みになるなんて考えられない」と思っていたら、会社だけでは無く市内の学校までもが休みになっていた。
太鼓祭の最後の日に祭を見に行こうと思ったが、どこに行けば良いか分からない。
たまたま昭和通りを通ったら人が集まっていた。そこで、車を置いて通りに出てみると、人の数がさらに増えていた。
そこに太鼓台がやってきた。通りの両側から来た太鼓台が先陣争いをしたようであった。 その後、一宮神社の方向へ太鼓台が移動した。
一宮神社までついていくと、太鼓台が何台も集まってきた。
祭の御輿(みこし)しか知らなかった者には、太鼓台のスケールの大きさに驚かされた。
太鼓台の4所に人が立ち、担ぎ手を指揮していた。 太鼓台の上にも何人か乗っている。太鼓台の重さは2.5トン、太鼓台の上に約10人、それにかき夫といわれる担ぎ手が150人程といわれ、合計重量は10トンを越える計算になる。それだけの大きな太鼓台と人間が一丸となって、激しく上下に揺れたり、高く掲げ上げられたりする。
娘を肩車して見ていたが、頭の上で娘も手を叩いて喜んでいた。
実際の祭を見て、地元の人がどれだけ祭を楽しみにしているか分かったような気がした。

その日の夕方のニュースで、太鼓祭で死者が出たことが報じられた。
私の見たのは太鼓祭の一面だけであったようで、太鼓台どうしの「鉢合わせ」という一種の喧嘩も行われていた。死者はそこで発生した。
「鉢合わせ」では、担ぎ棒が武器となり、相手の太鼓台を突くために使われる。
ニュースで映された「鉢合わせ」の太鼓台は、神社で見たものとは違っていた。「鉢合わせ」をする時には、太鼓台の飾り等外せるものをすべて外した状態にするようである。
テレビのニュースで、新居浜警察署の前からの中継で報告されていたが、その警察署には「平和な祭を実現しよう」という垂れ幕がかけてあった。
この垂れ幕はそれ以前にも見たことがあったが、「平和な祭」とはどういう意味か分からなかった。この事件を知って初めて太鼓祭には事故が起こる可能性があったことを知った。

 

1997年の太鼓祭りでは、 市制60年記念で、市内の全ての太鼓台が集結した。   

  

1998年10月17日 一宮神社内でのかきくらべ

1998年10月17日 山根公園 統一かきくらべ       
この年の太鼓祭りは台風接近の雨の中で行われました。

1998年10月18日 一宮神社内にて。   

  

【関連URL】
       新居浜物語(新居浜市のホームページ)
       ZENさんのホームページ
       インターネットカフェ<PopCorn>
       lumi's land


魚の市

新居浜の漁港の近くには漁業をしている人が直接魚を売っている場所がある。
まだ生きて動いている魚なども並べられていた。
一つの店に入って、店のおばさんと話をした。ここで売られている魚は、市場に出さなかったもので、普通の魚屋で売られる1日前の新鮮なものらしい。
「この魚は何ですか?」と妻が聞く。呆れた顔して「アジだよ」とおばさんが答える。そんな妻である。
イカを買って帰った。値段は安いとは思えなかったが、新鮮でおいしかった。


会社で工場完成パーティがあり、関係者を招待した。
仕出屋が準備した色々な料理が出たが、パーティが終わると料理が余り、家に持って帰った。いや、義務として持たされた。
その中に鯛の造りの残りがあった。身の部分が削られた頭から尻尾までの大きな鯛。「これ、アラ煮にするといいよ」と地元の人。2〜3匹分持たされた。
家に持ち帰り、妻が見て「大きな鯛!」と喜んだのは一瞬だけ。
煮るにしても、そんな大きな鍋は無い。
切って鍋に入れようにも、こんな太い骨を切れる包丁も無い。
「こんなもの、二度と貰ってこないで!」と言われ、捨てることにした。
ゴミ箱に捨ててもゴミ箱が臭くなるので、夜の夜中に庭に穴を掘って埋めた。
次の朝、夜中に庭で物音がして恐かったと妻が言う。
庭を見ると、鯛を埋めた場所が掘り起こされていた。野良犬が食べたのだろう。掘り起こされた後には、生ゴミが散乱し、蝿が舞っていた。


いもだき

会社の厚生行事で、西条の河原の「いもだき」に行った。
「いもだき」という風習は大洲市ではじまった愛媛独特のものであり、初めての体験であった。
西条の河原に着くと、会場には多くのガスコンロが配置され、プロパンガスのゴム管が何重にも枝分かれして配管されていた。
会場で用意された材料と鍋を受け取り、火をつけて宴が始まった。
9月の中旬でまだ暑い日が続いていたが、夜になると少し涼しくなっていた。鍋を食べるにしては暑いのでは、と思っていたが、河原の夜の風が清々しかった。


高速道路

新居浜から高速道路で出かけたのは、確か高知まで行った時が最初だったと思う。新居浜インターから松山道に入る。関東の高速道路が異常だと思うが、こちらの高速道路は車が少なく、渋滞も殆ど無く快適に走れる。
関東の高速道路の渋滞のパターンは以下のようになると考えている。
@有料であるため、インターの数が少なく、一つのインターで高速から出る車が多い。
Aインター手前で車線変更がしずらく、減速して進路を譲ってもらわなければならない。
B進路変更がしずらいため、渋滞が発生する。
C渋滞しているため、路側帯を走る不届き者が発生する。
D路側帯を走っている車が、インターで出ようとする車の進路をさらに妨害をする。

四国の高速道路では、このような渋滞は殆ど起こらない。

高知道に入ると、片側一車線の対面通行となる。このような高速道路は初めての経験であった。高知道はトンネルが多い道であった。また、途中で「動物注意」の標識を見つけた。この標識も始めてみるものであった。

伊予西条から松山方面の道も対面通行である。松山方面には、その後に良く出かけるようになったが、一車線では追い越しができず、一台遅い車があるとその後に車が連なることになる。このような場合、同じ車の後を長時間走らなければならない。夜間などでは、同じ車のテールランプを見続けることになり眠くなってくるのが怖く感じた。
対面通行の区間も、通行量が増えれば片側二車線化されるらしいが、通行量は増えてほしくは無いが、二車線化は進めてほしいと思う。

松山方面は、しばらくの間は川内インターまでしか通じていなかった。川内から先は国道11号線に出なければならない。高速の区間が短く、速度制限は70km/hであり、一般道との時間的な差は小さかった。現在では、高速は伊予市まで通じるようになり松山に行き易くなった。


水不足

私が新居浜に来た1994年の夏は、四国で深刻な水不足が発生した。
全国版のニュースでも四国の水不足が報じられていたが、地方版のニュースで水不足のニュースが大半を占めていた。
ある時には、松山から放送されたニュースの全ての時間が水不足の話題であった。愛媛には他にニュースは無いのか?
四国が水不足の時でも、新居浜はそれほど深刻では無かった。
確かに滝の宮公園や広瀬公園の水位が下がり、無惨な状態にはなったが水道が断水するようなことはなかった。
隣の西条市などでは、銘水「うちぬき水」が余るほど湧き出ていた。自衛隊の車が西条の水を松山に運んでいた。
ある時、会社に大量の段ボール箱が届いた。
中身はミネラルウォーターで、取引先の会社が四国の水不足を心配して送ってくれたものであった。
ミネラルウォーターで冷水麦茶を作って飲んでいたが、段ボールはなかなか減らなかった。


庭の草

千葉の市川市の社宅では建物の脇の通路のような土地に花を植えていた。
新居浜の社宅にきて広い庭を持つことになった。
入居前には会社が庭の雑草を除いてくれていたが、雑草がどんどん生えてくる。
庭を整備するために、スコップ、桑や草取りなどの大きな農具を購入した。
また、草刈機も購入した。ナイロンカッターというもので、ナイロンの紐が高速回転して鞭のように草を切りとるものである。このようなカッターがあるのも知らなかった。
4月に入居してから2ヶ月経ち、庭もだいぶ整備されてきた。・・・が・・・
その6月に約1ヶ月程フランスに出張することになった。その間、家族を千葉の妻の実家に預けて家を留守にした。
7月になり家に帰ると庭には人の腰の丈ぐらいまでの雑草が生い茂っていた。

当初はナイロンカッターは便利な物と感じていた。しかし、時々ナイロンが引っかかり出てこなくなる。分解して直す。かなりやっかいである。ナイロンの紐は消耗品であり、買いに行くと、カッターがモデルチェンジしていた。リールに入ったナイロンで家のに合うのは売られていない。 トラブル発生時の予備にもう一台のナイロンカッターを購入した。こちらも状況は同じであった。カッターの調子が悪いのでなかなか草刈りをする気になれない。
町内会から回ってきた回覧板に、社宅のあたりに「まむし」が出るとの知らせがあった。庭には雑草が生い茂っていたので、「まむし」が居る可能性がある。仕方なく、また新しいカッターを購入した。今度は電動のバリカン式のカッターでナイロンのような消耗品は無い。今のところ、順調に作動し、庭がきれいになった。