東人の新居浜生活新居浜見聞録ふりむけば未来


ふりむけば未来



ふりむけば未来

 2000年8月18日(金)・19日(土)・20日(日) に、近代化産業遺産全国フォーラムが新居浜で開催された。
 
 新居浜に残る別子銅山関連の遺産など近代化産業遺産を今後どのように活用していくか、その道の専門家による公演が行われた。また、視察ということで新居浜に残る近代化産業遺産の見学会も開催された。
 
 このフォーラムの副題が、「ふりむけば未来! 世紀を越えて」であり、この「ふりむけば未来」というのは東京大学名誉教授の木村尚三郎さんの著書の中にあった言葉らしい。その木村名誉教授の記念講演も開催された。
 
 人間は先行きに迷いが生じたときに旅に出る。現代社会も、この先の行き場に迷いが生じている。その旅行く先は過去をふりかえること。現代社会の産業が何処から来たか、そして何処に向かうのかを考える時期にあるとの講演であった。
 
 新居浜の別子銅山に関わる産業遺産を見てきた東人には、このような未来の姿が見えてきた。
 
 
 森林公園に続く道は、かつては鉄道が通っていたという。
 その鉄道は一部の区間は地下を通っていた。今は塞がれている昔の地下鉄駅の跡が産業遺跡として所々に残っている。
 電気自動車は森林公園に到着した。広大な土地に整備された木々が植えられている。
 
 この森林公園は、昔は○○ニュータウンと言われて、人々の居住地になっていたという。
 このように数十万人単位で居住地が密集したニュータウンは関東地方だけでも十数箇所に点在していたという。
 今ではその面影は認められない。
 
 ここに住んでいた人達は、約50km程も離れた東京に通う人達であった。
 今の東京は、江戸・東京文化遺産の残る観光地であるが、昔は日本の首都であった。
 かつての東京は、行政の中心地であるばかりでなく、経済の中心地として栄えていたという。
 
 江戸時代から平成までの400年間の日本の首都であったが、地球温暖化による海面上昇により一部の地域は水没し、江戸時代の下町文化遺産は別の所に移転された。
 
 昔の東京には高層建築が密集していたという。その高層建築の中にあるオフィスに向かって、毎朝、多くの人々がニュータウンから満員電車に押し込まれて通勤し、夕方にはニュータウンに向かって帰宅していた。
 


 全ての変化は、アルビン・トフラーが提唱した「第三の波」の結果であった。
  
 20世紀の後半に、アルビン・トフラーはその著書「第三の波」の中で、農業革命、産業革命に続く大きな革命としてコンピュータ革命を予想した。
 第三の波は、一時期「IT革命」とも呼ばれていたこともあった。「IT革命」は当時の無知な政治家が好んで使っていた言葉であるが、彼らには「IT革命」に続く大きな変化までは予想できなかった。
 
 「IT革命」は、企業にとっては、業務の効率化を目指したものであった。しかし、その効果は、世界の産業構造を大きく変えるものであった。
 確かに業務は効率化された。そして、リストラと言われた企業の人員削減も行われた。
 リストラは、社会に対して何の利益も生み出さなかった。個人の雇用の喪失は需要の低減につながり、経済のマイナス要因となった。
 
 リストラにより企業の人員は一時削減したが、「第三の波」は逆に多くの雇用を生み出した。
 昔は、多くの人々は朝から夕方までを労働時間としていた。一部の製造業では、交代勤務と呼ばれた勤務体制で、設備を24時間動かして生産していた。
 国際化された現在では、日本の夜間に業務を停止することなど考えられないが、以前は日本の昼間に仕事をしている人が圧倒的に多かった。
 現在では、社会の人々は24時間、動き続けている。
 企業にとって、外部からの情報への対応は、日本の昼間に限る訳にはいかなくなっている。顧客への対応を日本の夜が明けるまで待てる状況では無くなっている。
 24時間業務を続けるためには、多くの業種で交代による勤務体制がとられるようになった。
 そのために、人々の生活パターンも多様化した。
 
 小売業については24時間営業の店が早くから発生して、何時でも開いているということでコンビニエンスストアと呼ばれていた。
 その他の業種では、24時間体制への移行は少し遅れていた。特に金融関係や行政サービスの窓口は、平日の昼間しか業務せず、同じように昼間に仕事をしている一般の勤労者が利用し難い体制であった。
 人々の生活パターンの多様化により、殆どの業種で24時間サービスが採り入れられ、その従業員も24時間サービスの需要者となった。


 「第三の波」の大きな影響は、大都市に企業が大きなオフィスを持たなくなったことである。
 20世紀には、首都の東京に企業の本社が密集し、多量の人員が本社に通勤していた。
 「第三の波」により、本社というオフィスに多くの人員を必要とすることは無くなった。
 それぞれの部門ごとに、任意の場所に拠点を設け、本社や関係各事務所にネットワークで繋がれば業務が可能となった。そのために、東京のオフィスは縮小されていった。
 東京を離れた本社機能は日本の全国に分散した。
 
 それまで、日本の地方都市は産業の衰退を余儀なくされていた。多くの人々は東京や大阪などの大都市に住居を移転し、大規模オフィスに通勤していた。
 
 「第三の波」革命により、人々は居住地の選択の自由が与えられた。
 確かに、一部の業種では、設備の集中した所に人が通勤する必要は残っている。しかし、多くの業種では、毎日オフィスに通勤する必要は無くなっている。また、形のあるオフィスの無い企業も多数存在する。
 人々は、自宅にいながら、仕事をすることも可能になっている。
 在宅勤務で無くても、自宅近くの出張所に出向くことにより、仕事に従事することも可能となった。
 自宅や近くの出張所で、企業のサーバーにログオンする一瞬の時間が、20世紀の1時間あまりの通勤時間に取って代わった。



 20世紀は大量生産と大量消費の時代であった。
  

20世紀の工場では、同じ製品を大量に生産することによりコストを削減し、競争にうち勝ってきた。
これは、製造した製品が大量に売れることを前提としたものであり、大量の消費がそれを支えていた。
大量の消費は多くの廃棄物を産み出し、廃棄物の処分も大きな問題となった。

20世紀に大量生産されていたものの多くは、新技術として産み出され、普及して廃れていくという短いライフサイクルをたどった。それに伴い、廃棄物を大量に排出していた。
例えば、音声情報についてだけでも、アナログレコード、オープンリール、カセットテープ、コンパクトディスク、レーザーディスク、MD等々の記憶媒体が開発され、それぞれの記憶媒体毎に専用の機器が生まれては消えていった。
20世紀では、音楽などのソフト情報も記憶媒体ごと購入して個人が所有することが普通であった。大量のレコードやCD、ビデオを個人が所有していた。
音楽やプログラムなど、記憶媒体として所有することは今では滅多に行われない。必要とする情報はネットワークから購入して利用するものであり、記憶媒体は不要のものとなった。

 記憶媒体と同様に、通信伝送方式についても多品種の機器が産み出されていた。
 地上波、衛星通信、マイクロ波通信、光通信、等々、これらの伝送方式それぞれに専用の機器が供給されていた。
 これらの記憶媒体や伝送方式の違いによる様々な機器が20世紀の一般家庭には氾濫し、これらの機器を操作するための多数のリモコンが散乱していた。
 
 
  【続く】