東人の新居浜生活新居浜見聞録新居浜再訪

新居浜再訪

 2004年5月のある日、大きなカバンを持った人物が新居浜駅に降り立った。
 真っ直ぐにバス乗場に向かい、間もなく到着したバスに乗り込んだ。

 バスが目的地のイオン新居浜ショッピングセンターに到着すると、迷うこともなくコインロッカーに向かい、カバンを置き、カメラ一つを持って歩き出した。
 
 ショッピングセンターから出て、惣開小学校、星越駅、星越社宅、住友病院前を通りイオンショッピングセンターに戻ってきた。
 
 この人物とは、久々に新居浜を訪れた東人のことでした。
 新居浜を出てから、日本の各地を仕事で回ることが多くなったが、四国での最初の仕事の場所が、なんと新居浜であった。
 
 仕事の合間の僅かな時間であったが、変わらない懐かしい風景、変わってしまった風景(住友別子病院西側)などを見て回った。  
 
 昔住んでいた星越の社宅がどうなっているか、見に行った。
 誰かが入居しているだろうか?。取り壊されてはいないだろうか?。
 
 行ってみると昔のままであった。
 相変わらずの空き家で、雨戸が閉まっていた。当家が出てからは誰も入っていないようだ。
 庭には、大きな枇杷の木が生え、雑草は生い茂ってはいたが、毎年生えてくるカンナが成長していた。
 家の前を流れる川では、蛍が飛んでいるのだろう。
 
 この社宅を出てから約2年。今は900kmほど離れた所に住んでいるが、かつての新居浜での生活の思い出が残っていた。


集中豪雨

 
 2004年8月18日、新居浜での水害被害が報道された。
 台風15号による集中豪雨で土石流が発生して死者が3人でたという。
 予讃線の線路も土砂で埋まり、5日間不通となった。

 
 自分が新居浜に在住していた時にも。大雨が降ることはあったが、死者が出るような水害が発生したことは無かった。
 明治32年(1899)の別子大水害では500人を越える死者が出たと云うが、それに次ぐ水害では無いだろうか?。
 気にかかり、新居浜に関するニュースを探すが、その後の情報がなかなか集まらなかった。
  
 8月の末に新居浜に出張する予定が入っていた。
 1日早めに新居浜に入ったが、宿の近くのスーパーマーケットにこんな張り紙が貼ってあった。
 
 「緊急募集 災害ボランティア活動者募集」
 水害発生から10日ほど経っていたが、復旧作業は続いていた。
 
 
 翌日、ホテルで自転車を借りて川東方面に向かった。
 国領側の河川敷も増水で洗われたような跡が見られた。

  
 又野川では川の浚渫を行っていた。
 下流の方はまだ泥が詰まった状態であり、上流側から浚渫しているようだった。
 
  

 黒島の渡海船第二駐車場には土砂流木が持ち込まれて山となっていた。
 また、少し南側の広大な土地に「愛媛県災害復旧土砂流木仮置場」の看板が建っていた。

  
 多喜浜消防団の駐車場では、多くのボランティアの人が土嚢造りをしていた。  
 
 

 さらに西進すると、床上浸水した地域となり、浸水後に床を剥がした状態の家も見かけた。
 また、ボランティアの人達がバケツリレーで家の中から土砂を運び出している現場も見かけ、浸水から10日ほど経ってもなお、復旧作業が続いていた。
 
 手伝いもせずに通り過ぎていくのが申し訳ないほどの惨状であった。

 
 その翌日にも、新居浜方面に台風16号が直撃した。
 午後の暴風雨は凄いものであった。
 夕方になり、雨は収まってきたが、テレビを見ていると、新居浜各地の約5000人に避難勧告が出たということが報道された。
 前回の被災地が再度浸水しているのだろうかと気になった。
 
 ホテルから外を見ると、異常な状態が発生していた。
 善右衛門井戸の脇に小さい川があるが、普段は僅かの水量しか無い川が増水し、川と善右衛門井戸が繋がっている状態が見えた。
 市内の川も同様に増水しているのだろう。
 
 増水は夜半には収まり、翌朝には水は引いていた。
 翌朝には台風も去り、晴れていた。
 ホテルから歩いて、東川を見て、さらに星越方面を回ってみたが、大きな被害は無かったようだ。
 朝のニュースでは、予讃線は一部のみ動いていて、その他の地域は安全確認中とのことであった。
 仕事は昼頃に終わり帰る時に確認すると、予讃線は新居浜〜川之江間で不通になっているとのこと。
 新居浜から川之江までは代行バスが運行しているということで、バスに乗った。
 バスが新居浜インターチェンジまで行く途中、観音原付近で崖崩れの現場の脇を通った。前回の台風で崩れたものらしい。
 川之江からは特急電車が折り返し運行していた。
 新居浜を14時頃に出て、代行バスと特急電車を乗り継いで岡山に着いたのは17時頃であった。