1.画面の向こうで
 

 1995年、私は他の人々と同じく画面の向こう側で展開される一連のオウム騒動の話題をテレビで見ていました。ワイドショーの話題であるにもかかわらず、続々と犠牲者が出たこの事件は画面の向こう側の現実が本当に私たちの生きている世界なのかを疑わせるに十分だったといえるでしょう。確かに地下鉄サリン事件では、死者も含めた、何千人もの犠牲者が出ましたが、その一方でなぜか円は高騰していました。その年の阪神大震災を考え合わせると、私たちは画面を通じてパラレルの現実に向き合わされていたわけですが、画面だけに、大分で生活する私にとっては奇異な話題が他の話題と並列して繰り広げられていた感じがしました。

 この事件で、私が何よりも不気味に思ったのは、オウムの教祖とされる麻原と呼ばれた人物ではなくて、彼に無言で付き従っている人々でした。また、後で驚いたのですが、地下鉄サリン事件がオウムによる犯行であることが明らかにされた後でもオウムに入信する人々が多くいたということです。彼らにとって世間の騒ぎ、テレビで大騒ぎしている現実とは一体何なのでしょう? 私は彼らも私と同じようにテレビの画面の中に現実を感じているのではないかと思いました。ただ、私と彼らが違うのは、私はその画面の向こうに生身の人間がいると言うことを常に意識している、もしくは意識しようとしていたのに対し、彼らはただ感じるまま画面を一つの現実として受けとめ、その外に自分もしくは自分たちだけの別の現実を形造っていたということです。当時、私はオウム事件に日本の異常さを感じる一方で、円高に経済関係者のいい加減さを見ていました。今でもそうですが、私は日本は(このままでは)死に至る病に罹っていると思っています。その分析と治癒の可能性を考えるのがこの「独在論の誘惑」のテーマなのですが、この病気の現れはこの日本のあり方の根本が問われる事件が起っている最中に円が買われているという事実にも見て取れます。

 画面の向こうの現実と私たちの実際に生きている現実とは客観的には繋がっています。ただ、画面の向こうの現実の中にはフィクションであるドラマもありますし、たとえノンフィクションの報道であったとしてもそれはある他人の目で切り取られた現実です。もちろん私たちは画面そのものの中に入っていくことは出来ませんから、限られた視覚・聴覚情報を通じて画面の向こうの世界を知ることになります。ここには歴然と画面に向かう人と画面の向こう、正確には画面の中で展開される世界とがパラレルに並存しています。

 この画面の世界と私たちが生きている普通「現実世界」と呼ばれるものとの違いは、このパラレルな並存関係の中に見出されるでしょう。最近テレビゲームやインターネットの発達で双方向の情報のやり取りが出来るようになってはいますが、それはその人の周辺で起る現実世界の一部分でしかありません。ですから、画面の中での出来事が佳境に達していたとしても、停電が起ればそこで終りですし、また、画面に向かっている人の気ガ変われば、スイッチを切られるか、チャンネルを変えられるかしてしまうでしょう。その意味では画面の向こうは常に画面のこちら側の世界に支配されていると思います。

 しかし、にもかかわらず、画面はそれを見る人に一つの現実世界を提供していることは確かです。そこには私たちが生きる世界と同じように人や町が出てきますし、時には体験できない自然の風景や、実際あり得ない光景まで形あるものとして描き出してきます。実際に、画面の向こう側で起ることはこちら側の世界に生きる人たちにも共有されていますから、そのことが家族や友人たちの間で話題になることも多くあるでしょう。

 ただ、普通の人は画面の向こう側の出来事をこちらの尺度で受け止めようとしようとします。SFのありそうもない設定を受け入れるにしても、その物語を自分の生きる現実に照らして考えます。ですから、地下鉄サリン事件が起った時、多くの人は大変なことが起ったと考えたのではないでしょうか。しかし、その逆もあり得ます。画面の向こう側の世界を見るような気軽さで現実を受け入れてしまうということです。これはオウム事件がその後、いかにワイドショーに取り上げられたかを考えれば理解されるでしょう。実際に多くの人々が犠牲になる戦争ですら、画面の向こう側の事実として娯楽の対象になり得るのです。

 私がオウムの中に感じた不気味さの原因は実はここにあります。地下鉄サリン事件をはじめ多くの犠牲者が出る事件が起っているにもかかわらず、ほとんどのオウム信者は(私が画面で見る限り)沈黙し、それに眼を向けようとはしていませんでした。また、(これもテレビですが)事件後入信の人のインタビューでその人が「私、事件後入信なんですよ」と生気のない発言を耳にしたとき、この人たちにとって実際にオウムの犠牲者になっている人は画面の中にのみ生きる人々であって、自分がそのチャンネルを切りかえればいつでも消えてくれる存在ではないかと直感しました。きっと彼らにとっては、オウムの責任を言いたてる人々は、しつこく自分の好きなテレビ番組を「見ろ、見ろ」と迫ってくる人間に思えたのではないでしょうか。

 私はテレビを情報や娯楽の媒体とは思いますが、それは自分の生きる世界の一部分として考えています。つまり、そのスイッチを切るとか、チャンネルを変えるとかの行為は私の現実に従ってなされていると考えています。しかし、もし自分の生きる世界がテレビと同じように自由にスイッチを切ったりチャンネルを切りかえることの出来る世界だったらどうでしょう。それは想像するだけで不気味な世界ではありますが、その反面、とても居心地の良い世界かもしれません。私が今書いているものを「独在論の誘惑」と名づけたのは、そのような世界が「独在論」と呼ばれる世界であると同時に、その一方で、このような不気味な居心地の良さをもているからです。
 
 

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