独在論の誘惑 02:当事者のいない世界
 

 オウムの信者の人たちは一般の人から当然のように異常と見られています。それで「マインドコントロール」という言葉も出てくるのですが、彼らは本当はどの程度「異常」なのでしょうか。確かに彼らはあまりにも外界に対して閉鎖的な気もしますが、自分の関心のあるものだけに意識をを向けがちなのは普通の人間でも変わりありません。そのことが大きな問題から人々の目をさらせることもあるのですが、取りあえずここでは具体的な事例を取り上げて見たいと思います。
 

 --- 《問題事例》 ---

 これは6月末の「スーパーJチャンネル」という夕方のニュース番組で取り上げられていたのもですが、自転車置き場がないために住民が困っているという話です。

 この番組によると、ある駅前に駐輪場がないために、住宅地に大量の自転車が放置され、救急車や消防車がその地域に入れないという問題が起きているとのことでした。実際に、取材中に救急車が来たのですが、すぐには中に入れず立ち往生していました。番組では実際にそこに駐輪している人や区の責任者にインタビューしたりしていましたが、問題の根は深いようです。まず、駐輪場が遠くにしかなく、しかもかなりの料金がかかること、また、それ以外の近くには駐輪場を作る場所がないことが問題として掲げられていました。人の命がかかわることでもあるので、本来はこん場所に自転車を置いていけないのですが、自転車を置いている人もわりと率直に意見を言っていたのが印象的でした。恐らくこのような問題は行政が解決すべきことだという思いがあるからでしょう。 

 テレビのアナウンサーは自転車を置いている人に対して批判的でしたが、私は、正直、誰も責める気にはれませんでした。もし自分の内の前に自転車が並べられていても、自分がその駅を使う立場だったなら、そこに自転車を置くだろうからです。人間は万が一の危険よりも目の前の利便に目が行くものです。もしそうでなかったら、私は日本経済の問題がここまで先送りされることもなかっただろうし、財政赤字増大がここまで来ることもなかったでしょう。

 実は、この自転車の問題については私は最も無責任でいられる立場にあります。というのも、私は自動車はおろか自転車にも乗りませんし、このテレビでの出来事は大分のような田舎ではなく、人口が密集した都会での出来事だからです。しかし、今の日本そのものに関心がある私にとってはこの出来事はかなり衝撃的でした。というのも、ここには問題の責任を取るべき「当事者」というのが見えてこなかったからです。もし自転車が住宅地に大量に放置されることが本当に問題だったなら、そのために誰かが被害に遭うはずです。その人が第一の当事者です。しかし、その人は別に悪い事をして被害に遭うわけではないので、その問題の解決を図ろうとするでしょう。そうすれば次に責任を問われるべき行政が第二の当事者になります。しかし、行政もお金がありませんから、問題の解決のために税金を上げるか、取締りを厳しくすることになるでしょう。すると、区民や自転車を今まで置いていた人が第三の当事者となります。もしこの当事者の連関がうまく行っていたならば、行政も自転車を放置していた人たちも何らかの事故が起った時には大きな賠償責任を負うことになるでしょう。アメリカの場合、仮にそこに置かれていた自転車のために救急車が入れず人が死亡すれば、裁判になる可能性もあります。そのときは行政も個々の人間も被告として慰謝料などの賠償金を支払わされることもあり得ます。良く日本人はアメリカを訴訟社会として恐れる人もいますが、この訴訟のおかげで第三者である自分も守られていることを忘れてはならないでしょう。

 しかし、この国ではなかなかこの当事者というのが見えてきません。幸いにも、この番組の中では住民が立ち上がって放置自転車を追い出した例が出ていましたが、この例では火事がきっかけになったようです。人間というのは実際に何らかの危機に遭遇しない限りなかなか動かないものですが、具体的に事件が起れば人は何とか動くもののようです。

 オウムの人たちに話を戻しますと、彼らも私たちも足元に火がつかない限りなかなか問題に真剣に取り組まない普通の人間であることには違いありません。その意味で、常識的な社会に流されている私たちの方が「洗脳されている」と考える彼らの言い分にも全く理がないわけではないのです。ただ、私たちは実際に問題が表面化したときにはそれなりに悩みますし、いろいろ対応を取ったりもします。言わば、自分の今ままでのあり方を反省し修正することができるのですが、オウムの人たちにはそれが出来ないようです。普通、好きなテレビを見ていても、火事が起ればテレビのことを忘れて火を消すか、逃げ出すかするでしょう。しかし、オウムの人たちはそうではないのです。ここには外の世界、つまりは私たちの現実の社会に対する彼らの徹底的な嫌悪感があるようにも思えます。もし「マインドコントロール」というものがあるとすれば、この現実への嫌悪感を助長するところにあるように思えます。

 いずれにしても、ここで問題なのは「当事者」がいないために「責任」の所在が消えてしまっていることです。「責任」とは英語で「responsibility」、ドイツ語で「Verantwortung」と言いますが、それぞれ「反応するもの」、「答えるもの」という意味を含んでいます。つまりは「責任」ある何かに対して何らかの行為を取るということですが、「責任」というのはある意味で、人にある行為を強いるものです。先ほどの事例で行きますと、第一の当事者は救急車や消防車に来てもらえないことなどの不便が行動を強いていますし、第二・第三の当事者はこのような事件が起った際に非難されることにより行動を促される立場にあります。しかし、すでに述べたように各当事者の間に「責任」のインセンシブが十分に働いてはいません。上に「当事者の連結がうまく行っていれば」と書きましたが、「責任」のインセンシブが働かないということは人間どうしの連関が途切れていると言うことです。次回はこの「責任」の観点から、独在論について考えて見るつもりです。
 
 

[←戻る]  [次へ→]

[アニメのこと]