独在論の誘惑 03:「責任とってね」
 

 私が独在論の問題に関心を持ったのは大学生の頃です。その時から理論的には世界の存在は自己の意識内容としてしか理解されないという独在論に近い考えを取っていますが、その一方で、現に生きるための実践的な立場としてはこれでは不充分だと感じていました。この問題をより鋭い形で私に突きつけたのがあの押井守監督の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」という映画です。この映画は実質的に押井さんの出世作となった作品ですが、多くのアニメファンの哲学的な問題意識を刺激し、アニメの世界に新しい可能性を切り開いた記念碑的な作品と言っても良いでしょう。独在論の問題についてはすでにこの映画と、押井監督がうる星やつらのTVシリーズではじめてその正体を明かした「みじめ! 愛とさすらいの母!!」でもその主な面についてはほとんど明らかにされているのではないかと個人的には思っています。ここでは、少し長くなりますが、これからの話の前提として「ビューティフル・ドリーマー」のオチの部分を引用して見ます。

 「ビューティフル・ドリーマー」はこの物語の主人公である諸星あたるたちが夢を操る魔物である夢邪鬼によって夢の世界に閉じ込められることから話が進んでいきます。彼らは無邪鬼の引き込んだ世界の中で自分たちの通う友引高校の学園祭前夜を幾度も繰り返します。彼らは夢の中に引き込まれているので、時間の感覚を失い、初めのうちはこの事態に気づかないのですが、徐々にその矛盾を暴いてゆきます。最後にあたるはこの夢から出る手前のところまで行くのですが、そこで夢邪鬼から夢の世界に残るように誘惑されます。引用するのはこの誘惑の部分と、それに続く脱出のきっかけの部分です。
 

夢邪鬼「今のはだいぶ、こたえたようでんなァ。あんさん、夢でよかった思うとりますやろ。現実でのうてよかったと…… 夢やからこそ、やり直しがききますのんや。なんべんでも、くり返せますのや。な、こういうの知ってまっか?蝶になった夢を見た男が、目をさまして、果たしてどっちの自分がホンマやろ、もしかしたら、ホンマの自分は蝶が見ている夢の中におるんとちゃうやろうか。……まね、夢やら現実やらいうて、しょせん考え方はひとつや。なら、いっそのこと夢の中で面白おかしく暮らした方が、ええのとちゃいまっか?あんさんさえ、あんなムチャいわなんだら、なんぼでもええ夢、つくらせてもらいまっせ」

夢邪鬼「ワテの創る夢は、現実と同じやさけ……… そやから、それは現実なんや。悪いようにはしまへん、そうしなはれ。ほな、ワテ、上でまってまっさかい、決心ついたら来なはれや。いやいや、この階段のぼってくればええのやがな。ハァ、待ってまつせェ〜」

(そこに白い帽子をかぶった女の子が現れる)

女の子:お兄ちゃん、どうしても帰りたいの?

  −−中略−−

女の子:教えてあげようか?

あたる:えっ、知ってんの?現実に帰る方法知ってるの?

女の子:だれでも知ってるよ。ただ目がさめると忘れちゃうの。
     こうやって、ここからとびおりるの。
     そして、下へつくまでに会いたい人の名前を呼ぶの。
     名前を呼べない人はきっと目がさめるのがイヤなのね。

あたる:それなら大丈夫。お兄ちゃん会いたいひと(女)いっぱいいるから。

女の子:その代わり…

(女の子はあたるに向かって手まねきをする)

あたる:ん?

女の子:責任とってね!(ラムの声で)

(帽子のかげからあたるの恋人??のラムの顔がのぞく)
 

 このあと、あたるは驚きのあまり足場を踏み外して現実へ落ちて行くのですが、すでにこの物語の中で独在論の世界が夢の世界として明らかにされています。それはここでは必ずしも自分の夢とは限らないわけですが、いずれにしても「責任を取るべき」他者のいない、やり直しが何度も可能な意識だけの世界であることは確かです。
 
 

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