独在論の誘惑 04:思想の行き違い
 

 20世紀の思想史において最も「独在論」の言葉を使ったのはマルクス主義者の思想家たちでしょう。今は昔の話となってしまいましたが、マルクス=レーニン主義が哲学と見られていた頃、マルクス主義以外の哲学はすべて彼らから「独在論」の烙印を押されていました。今となっては彼らを批判するのはたやすいことですが、これにはそれなりの理由があります。というのも、マルクス主義以外の哲学は現象学にせよ実存主義にせよ主観的認識論、つまり「世界の存在は自己の意識内容としてしか理解されない」という立場を前提としていたからです。この立場に立てば「世界は自我の夢である」という独在論を否定することは出来ないのですが、実践的な社会運動を目指すマルクス主義にはこれはとても許容できないことでした。しかし、考えて見れば「世界の存在は自己の意識内容としてしか理解されない」というのは当たり前の事実であり、それを否定すべくもありません。20世紀において不幸だったのは、マルクス主義者たちが「常識」を以って独在論を否定し、その「常識」の権威を以って独在論を否定できない他の現代思想を攻撃したということです。

 ここには完全に思想の行き違いがあります。マルクス主義以外の思想、例えば現象学においてもフッサールなどは「独在論」のような主観主義を回避するために「間主観性」などの概念を提示していますが、理論的に独在論の可能性を否定できない事実を必ずしも直視してはいません。問題なのは独在論が正しいか否かではありません。独在論にかかわる哲学的な問題はむしろそれを可能な仮説として認めた上で次のように問うことです。

 1. なぜ独在論は理論的に可能な仮説として成り立つのか?

 2. なぜ私たちは理論的に可能であるにもかかわらずこの仮説を普通は受け入れられないのか?

 (1)の方は理論的な面での独在論の問題であり、哲学的には認識論、身心関係の問題、言語の問題などがかかわります。それに対して、(2)の方は「人はいかに生きるべきか」を問う実践的な問題がかかわります。私が「思想の行き違い」というのは、マルクス主義以外の現代哲学の多くが(1)の問題のみにかかわったこと、そしてマルクス主義の哲学が(1)の問題に無関心で、「常識」のみでこの問題を解決しようとしたことです。

 私は大学でドイツ理想主義の哲学を学びましたが、この20世紀の思想の行き違いは17世紀から19世紀にかけての「神」をめぐる哲学のあり方に近いものを感じます。今でこそ「神」の存在を理論的に証明しようという試みは哲学の世界では影をひそめましたが、当時は理論的に「神」の存在を証明しようという試みがなされていました。この「神」を「他者」もしくは「外界(私の意識を超えてある外の世界)」に置きかえれば、ここに似たような状況が見えてきます。「神」も「他者」もしくは「外界」もその存在を純粋に理論的には証明できません。しかし、それぞれの時代にあって、その存在を信じることは人々が生きるための前提でした。しかも、「神」も「他者」もしくは「外界」も人間の個人的意識を超えて実在するものとされ、人間そのものを生かすものと捉えられてきました。私は20世紀において「神」の問題が、「他者」もしくは「外界」の問題として捉えなおされたのではないかと考えています。

 しかし、問題に対処するあり方は20世紀の哲学とそれ以前の哲学とではかなり違ってきています。それは「神」については実践的な問題が意識されやすかったのに対して、「他者」もしくは「外界」の問題ではそれがあまり意識されなかったことです。カントは人間の理性を純粋理性と実践理性とに分けましたが、この明瞭な区別のおかげで、「神」の存在は理論理性の立場から肯定されるものではなく、実践理性の立場から肯定されるべきものとすることができました。つまり、その存在は理論的には証明できないにしても、人が生きるにあたって信じるべきものとされたわけです。すでにデカルトの「神の誠実」の考えにもこの傾向は見られたのですが、いずれにせよ、ここでは20世紀における思想の行き違いは生じていないといえるでしょう。

 一方、独在論を通して明らかになるのは、それが理論的に否定され得ないが、普通の人間には受け入れられないという事実です。問題はこの事実の理論的分析と、実践的にそれがどのような意味を持っているかの考察であって、理論的にこの事実が正しいかどうかを決定することではありません。

 このことを考えれば、前回に引用した「ビューティフル・ドリーマー」の中に、すでにこの独在論をめぐる問題が明瞭に提示されていたことが理解されるでしょう。夢と現実とは意識の世界としては同一であるとする夢邪鬼の主張を理論的に退けることは出来ませんが、「会いたい人」がいる以上、その2つは決して同じものとは受け入れられないというのも真実です。しかし、同時に、夢邪鬼の存在を通じて独在論の誘惑が常に存在していることも示されています。というのも、現実にオウム信徒のように「目がさめるのがイヤ」と思われる人々もいるからです。

 ここからは先に掲げた独在論をめぐる2つの問題を踏まえながら、その誘惑の意味を考えて見ることにしましょう。
 
 

[←戻る]  [次へ→]

[アニメのこと]