独在論の誘惑 05:無関心の罠
 

 独在論の世界は「ビューティフル・ドリーマー」に見られるような夢の世界と見られることが多いのですが、必ずしもその世界は自分の思い通りになる世界ではありません。むしろ、理由もなく自我につきつけられた世界というのが本当のところかもしれません。何故なら、独在論の世界に生きない人々にとって世界は私たちの働きかけによって変化しますし、それであるからこそ「責任」云々という話にもなるのですが、独在論では他者がいない以上、働きかける対象も、それにから「責任」を問われる存在もないからです。独在論の世界に生きる人間にとって、恐らく現に生きていることが自分と無関係に成り立っている以上、その世界に対して責任を持つ気になれないというのが、本当のところではないでしょうか。

 ところで、独在論が我々を誘惑できるのは、その世界が自由に意識によって変えられるからではなく、むしろその人の都合のよい形で意識を対象を選択できるからです。20世紀の哲学者であるハイデッガーは「関心(Sorge)」によって人間の意識世界は成り立っていると説いたようですが、確かに私たちの生きる世界が意識世界であると解釈できる以上、それは正しいように思えます。ただ、「関心」という立場からのみこの世界を解釈しようとすれば、私たちの生きる世界の大切な一面を見落としてしまうのも確かでしょう。というのも、「関心」は〈自己→他者〉への意識の成り立ちを説明できても、〈他者→自己〉への意識の成り立ちを説明できないからです。

 このことは「関心」に対して「無関心」という言葉を考えて見れば良く分かります。「無関心」とは、一言で言えば、他者に対するかかわりの拒絶です。例えば、遠くアフリカの国々で国の債務のために十分な教育や医療が受けられない人々についての番組が放映されていたとします。日本は途上国に多くのお金を貸し付けているので、このことは決してかかわりのないことではないのですが、多くの人はこのような問題に無関心のままです。このような人の中には借りた金を返す事の出来ない途上国の人間が怠惰だからし方がないんだと考えている人もいるようですが、そのような人に限って、自分の考え方を検証しようとはせず、敢えてこのような番組を見ようとはしません。そこには日本人と途上国の人たちの間に「無関心」という形の壁があるのであって、それは日本人の他者に対する拒絶とも言うことが出来るでしょう。

 私が「無関心」という言葉を意識するようになったのは、「無関心は罪である」ということを語っていたマザー・テレサの公共広告を見て以来のことです。無論、すべての人がすべての人道的な事柄に「関心」を持つのは不可能であるのですが、何らかの人道的な事柄に「関心」を持つのは人として求められることだと思います。「無関心」が咎められるのは、「関心」の対象が人の意思によっているからです。確かに私たちがこの国に生まれ生きている現実は私の意思を超えてありますが、私たちが何に「関心」を振り向けるかは、たとえ忙しい日常を考慮に入れても、ある程度は私たち自身の責任によるものです。

 私はハイデッガーの哲学には詳しくないのですが、この高名な哲学者がナチスの運動に荷担し、戦後もその責任について明確な「悔い改め」をしなかったのは彼の哲学に独在論の影が付きまとっていたからではないかと思っています。実際にはどうか知りませんが、私は彼が何らかの形でアウシュビッツでやせこけた人たちを直視したという話を聞きません。聞くところによると、彼の主著である「存在と時間」では「関心(Sorge)」のために本来的自己を見失っている人間に「死への存在(Sein zum Tode)」が提示されているそうです。つまり、「死」というものが日常的「関心事」埋没している人々を本来的自己を意識させる契機となるわけです。しかし、それは単に独在論がその死によって限界づけられていることを明らかにしているだけであって、その「死」ですら、その「生」と同様、自らの「責任」の範囲外のものと言えるでしょう。そこには未だ「責任」を以って関わるべき他者が見えてこないのです。ハイデッガーの研究者からはハイデッガーを批判するならハイデッガーを読むべきだという声が出そうですが、私には他に「無関心」になれない事柄が多くあるのでそこまで手が回らないとお答えするしかありません。これはあくまで私の希望になりますが、ハイデッガーの研究をされている人たちは、ナチスの問題も含めて、彼の哲学における他者の問題を明らかにしてもらいたいと思っています。

 ところで、「ビューティフル・ドリーマー」の監督をされた押井さんの作品について、ハイデッガーとの類似性が指摘されることが時たまあるようです。恐らく人間の意識の内面性を「問い返す」ことを通じて物事の根源を明らかにしようとする態度がハイデッガーの哲学を連想させるのではないかと思うのですが、押井さんにはハイデッガーにはない現実的な一面があります。それは「牛丼屋」や「立ち食いそば屋」に象徴されるバタ臭い日常のリアリティです。このリアルな場では人を無関心にさせてはおかない〈他者→自己〉の意識の現実が生きています。「関心」のみが優勢な独在論の世界では、常に意識の嗜好がその世界のあり様を規定しますが、何かに「無関心」ではいられない世界では、人の意識をその中へ引きずり込む力強さがあります。そのために忙しくなりすぎて、「関心」を持つべきものに「無関心」になったりもするのですが、現に私たちが生きる世界は〈関心−無関心〉をめぐって自己と他者とが交渉を繰り返している世界だと言うことが出来るでしょう。もしそのような世界が苦痛ならば、自ら世界そのものに「無関心」になればそれをかわすことが出来るかもしれません。実際に、私はそのようにして世の中に適応した人々も見てきましたが、そのような人たちがいかに他人に対して冷たい人間になれるかも同時に知ることになりました。私がハイデッガーのことを敢えて言及するのは、「無関心の罠」にはまった人たちがあまりにも他者に対して残酷になれるからです。

 次回はこの観点から、「愛」について考えて見ます。
 
 

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