06: 愛の定義
 

 独在論の世界でも人生に悩むことはあります。それは私の人生が私にとってのものだからです。しかし、人生の問題の解決は自分自身を超えて他者を受 け入れることでしか可能ではないのではないでしょうか。考えてみれば当然のことですが、自己は他者なしには成立しません。自己が存在し得るのは他者とのコ ミュニケーションがあるからで、それがなければ自己は自己であることを認識すら出来ないでしょう。このことは独在論の場合でも同様です。ただ、独在論の場 合は他者が単に「自己にとってだけ」の他者にすぎず、その他者そのものが自分と同じように感情をもち、悩みながら生きているということを否定している点が 特殊なわけです。ここでは「私にとってのあなた」はあり得ても「あなたにとっての私」は存在しえません。

 私はこの「あなたにとっての私」を自己のうちに見い出すところに愛が存在すると思っています。「愛」という抽象的で使い古された言葉を定義するこ とは危険ですが、私は敢えて「愛」を次のように定義します。

  「愛」とは自己を超えて自己と同じように独立して存在する他者の実在を不可欠と感じる感情である。

 この定義は独在論の否定の感情であることは容易に読み取れるでしょう。独在論の世界では自分以外の他者はすべて機械人形と同じ感情や意志をもたな い仮象ですが、恐らくそのような事実をまともに受け入れられる人間はいないはずです。それ故、私たちは自らのうちに「愛」を持っているとも言えるわけです が、必ずしもそれに従って生きているわけではありません。それは他者が現実の場面では自分にとって敵対する存在、そこまで行かなくても煩わしい存在である からです。人間は「あなたにとっての私」を意識しつつ生きることを望んでいますが、「私にとってのあなた」の立場で他者にかかわっているのも確かです。む しろ後者の方が普通ではないでしょうか。

 他者の中に自己を見出すためには自己を他者の立場から相対化する必要がありますが、自己を超え出ることを必要とします。このことから「愛」を考え た哲学者にマックス・シェーラーという人がいます。彼はハイデッガーよりやや前に生きた人ですが、現象学の立場から倫理の問題に取り組んだ人として知られ ているようです。私はこの人の名前は知っていたのですが、具体的にその思想を知ったのは竹田での夏期哲学講座での茅野良男先生のお話を聞いた時のことで す。少し長くなりますが、その時のテキストから引用してみます。
 

何故に<知>は別のものの現象なり本質なりへと乗り越え関与するのか。シェーラー(Max Scheler, 1874-1928)は一言でいう。その根拠は「愛<Liebe>」である、と。「<愛>すなわち献身(Hingebung)であり、いわば [主体ノ] 自己存在と [他ノ存在ノ] 本質とのもろもろの限界を突破すること(Sprengung)である!」知ることは知る主体と他の存在との間の<存在関係>であり、これが上のように 「愛」に基づくが故に、知の<究極的目標>すなわち知が<何のために>あるかといえば、それは「他と成ることという一つの生成(ein Werden, ein Anderswerden)」であるということになる。よく<学問のための学問><芸術のための芸術>といわれるが、知は知のための知ではなく、「知は生 成に奉仕するのである」(Wissen dient einem Werdem)。もちろんこの<生成>は知の獲得として主体の自己生成となるのである。
 

 講座でこの話題が出た時、かなり反応がありました。日本では「愛」という言葉は文学的にしか捉えられていないのですが、たとえ一つの指標であって も、定義を以って明確に言葉を把握することによって私たちの生きる現実が見えてくるものです。

 実は、私はすでに10年以上前から、上のような形で「愛」を定義していました。それは「ビューティフル・ドリーマ」を見て以来、私が「愛」を他者 と自己との関係の中で捉えていたからです。茅野先生のお話を聞いた時もこの映画のことを思い起こしました。反復になりますが、前に引用した「ビューティフ ル・ドリーマ」のセリフの一部をもう一度、思い出してください。
 

女の子:お兄ちゃん、どうしても帰りたいの?

  −−中略−−

女の子:教えてあげようか?

あたる:えっ、知ってんの?現実に帰る方法知ってるの?

女の子:だれでも知ってるよ。ただ目がさめると忘れちゃうの。
    こうやって、ここからとびおりるの。
    そして、下へつくまでに会いたい人の名前を呼ぶの。
    名前を呼べない人はきっと目がさめるのがイヤなのね。

あたる:それなら大丈夫。お兄ちゃん会いたいひと(女)いっぱいいるから。

女の子:その代わり…

(女の子はあたるに向かって手まねきをする)

あたる:ん?

女の子:責任とってね!

(帽子のかげからあたるの恋人??のラムの顔がのぞく)
 

 このシーンの後、あたるが現実の世界へ落ちていくことはすでにお話しましたが、女好きのあたるは落ちながら女の子の名前を次々に叫んで いきます。けれども、現実に激突しようとした時、彼が叫んだのは「かーあさん、ラム!!」というセリフです。

 自分にとって本当に会いたい人とはそんなに多くはないのかもしれません。しかし、一人でもそんな人がいれば、世界は無限の広がりを見せていきま す。一人でも愛する人がいれば、独在論の殻は破られ、人とのコミュニケーションが成り立つからです。次回はこの観点から Lain というアニメを取り上げてみましょう。
 
 

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