07:玲音とありす
 

 lain というアニメの主人公である岩倉玲音は内向的な中学生です。友達付き合いが得意ではなく、いつも目立たなかった彼女ですが、たまたまコンピューターを通じてネットの世界に入り込みます。このネットの世界にはワイヤードという現実世界とは別の世界が展開し、そこで彼女は特別な立場に追い込まれていきます。ネタばれになりますが、物語の最後で玲音は人間ではなく本来ネット上にあるワイヤードと現実世界であるリアルワードとをつなげるプログラムであることが分かってきます。彼女はワイヤードを支配することを通じて現実世界をも自由にする能力を手に入れます。これは橘総研の英利政美という男によってコンピューターや電話などのデヴァイスなしに直接情報の世界を現実世界に反映させることによって可能となったのですが、玲音も彼によって現実世界に肉体を持って作り出されたキャラであることが明らかにされます。

 このアニメは次のような発想に基づいています。

−現実世界もコンピューター上の世界と同様に「情報」によって成り立っている世界であるとするならば、私たちがコンピューター上で自由に削除ややり直しが出来るように現実世界でもそれが可能なのではないか−

 ある時、ネットの中で玲音の分身のような存在が現れて、現実世界での友人たちのプライベートを次々にネット上に明かしていきます。そのために、玲音は友人たちから相手にされなくなり孤立するのですが、その時、玲音を唯一信じたのが親友の ありすでした。追い詰められた玲音はネットの世界と同様に現実世界に生きる人間の記憶を操作して事件の記憶を友人たちの記憶から消し去るのですが、ありすだけはその記憶に手をつけませんでした。そのためにありすは自分がおかしくなったのかと悩みますが、「いやなきろくなんてかきかえればいいの」というメッセージを玲音から受け取り、事実を知ろうと玲音の部屋に向かいます。以下の引用はそこで交わされた玲音とありすとの会話です。
 

ありす「玲音……?」
(ありす は玲音を捜して歩いていくと、玲音が機械の山の中から、全身にコードを巻き付けた状態で現れる。腰を抜かしてしまう ありす。)
ありす「れ、玲音!」
玲音「あ・り・す…」
ありす「何を、したの?」
玲音「何も。ただ、見てただけ」
ありす「何を?」(玲音は ありす を笑みとともに見つめる)
ありす「私、私、自分がおかしくなったって思ってた。でもやっぱり違うのよ。玲音、どうして私だけ残したの? どうして、私だけ元の記憶を残してるの? どうして私だけ、つらいことをいつまでも思い出にしてなきゃいけないの? そんなに、私のことが憎いの、玲音?こんな、こんなのって、耐えられないよ!」
 涙を流す ありす。
玲音「違うんだよ。ありす。私、ありす を悲しませたくなかったから」
ありす「うそ! こんなことして……」
 

 人間は常に他者に対して相反する感情を持っています。人間が他者の実在を信ずることなしに生きてはいけないことは前回に述べましたが、同時に他者は自己にとって常に何らかの脅威でもあります。私たちは常に他人を好意的に受け入れているわけではありませんし、たとえ好意的に受け入れている相手であっても自分の都合で相手を捉えているところがあります。言わば「私にとってのあなた」の立場からすれば、自由意志をもつ他者は脅威であるが、「あなたにとっての私」を必要とする自己にとっては他者の自由意志は不可欠ということになります。玲音が多くの人の記憶を操作したことは、ある意味で他者の自由意志の否定ですが、ありす だけその記憶を消せなかったのは彼女が本当の意味での他者を必要としていたことを示しているといえるでしょう。しかし、これは ありす にとってはとてもつらいことでした。

 恐らく現実に独在論を信じて生きている人はいないと思います。もしいるとすれば、精神病院の中だけでしょう。最近、人を殺したいとか、人が壊れる様子を見てみたいという動機で犯罪を起こす少年たちが出てきていますが、彼らはある意味で他者を傷つけることによって本能的に独在論の世界から逃れようとしていたのかもしれません。人間には本来コミュニケーションの欲求があります。それは社会的には自由意志を持った他者とのコミュニケーションの欲求です。もちろん事務的なコミュニケーションというのもありますが、それは「私にとってのあなた」の立場を越えるものではありません。問題となっている少年たちもそのようなコミュニケーションは出来たのでしょうが、本当の意味での他者とのコミュニケーションが出来なかったために歪んだ行動に駆り立てられていったのではないでしょうか。自己と他者とは相即(互いに他を前提とする関係)にあります。ですから、他者の否定は必然的に自己の否定へとつながります。アメリカで銃を乱射した犯人の多くが自殺したり、小学生を殺した中学生が自分を「透明な存在」と表現したのもその現われだと思います。彼らが不幸だったのは、人間が成長する過程で当然身に付けられたはずの本来のコミュニケーションの体験が乏しかった、もしくは歪められたということです。

 私はこのコミュニケーションの欲求が人間の欲求の根本にあると思っています。生存を維持するための生理的欲求も種を維持するための性的欲求もこのコミュニケーションの欲求の前提になる欲求であり、目的からすればコミュニケーションの欲求に統合されるものだと考えています。しかし、この欲求は何の抵抗もなく充足されるものではありません。時として玲音や ありす のように苦しむこともあります。「独在論の誘惑」が忍び込むのはそのような場面です。たとえ独在論がそのままの形で受け入れられないにせよ、本来の他者を偽りの他者とすり替えることによって受け入れられるように誘惑してきます。もし玲音も ありす という友だちがいなければ、この誘惑に陥ったことでしょう。たとえ記憶を操作したにせよ現実に他者は存在しているのですから。次回は「つなげる」という言葉を通してこの問題を考えてみます。
 
 

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