08:偽りの他者
 

 よく人は人間関係で追い詰められた時に「どうして自分の気持ちを他の人は分かってくれないんだ」と思うことがあります。人間のコミュニケーションはいつも順調とは限りませんから、互いに誤解しあったり、反目しあったりすることもよくあります。コミュニケーションは普通言葉によってなされるものと考えられがちですが、より以上に互いを理解し合おうという意志によって支えられているものです。「どうして自分の気持ちを他の人は分かってくれないんだ」と人が思うのも、相手の理解能力のなさにではなく、相手が自分を理解しようとする意志のなさに対して向けられた言葉といえるでしょう。そこには相手に対して自分を理解してもらいたいという「期待」があります。玲音が自分の分身によって誤解を受けた時、ありす以外の記憶を書き換えたのもこの「期待」によるのであって、決して悪意によるものではありません。しかし、この「自分を分かってもらいたい」という「期待」だけならば、そこに独在論の誘惑が成り立ちます。というのも、そこには「私にとってのあなた」しかなく、「あなたにとっての私」がまだないからです。「あなたにとっての私」を考慮するならば、「相手のことを分かってあげたい」という気持ちが生じるはずです。ありすは玲音に対してそのような感情を持っていました。だから危険を顧みず玲音の部屋を訪れたのだと思います。

 いずれにしても、人間はこの「期待」が見たされた時に他者との一体感を感じます。それは自分が世界の中で一人ぼっちではないことから来る安心感であり、その一方、その「期待」を満たしてくれた他者に対してより高く自分を位置付けようという思いが生まれます。人間は社会的動物だといわれますが、このような思いが人間に社会性を与えているのではないでしょうか。しかし、ここでは必ずしも「相手のことを分かってあげたい」と思う「あなたにとっても私」が考慮されているとは限りません。というのは、そこには自分と異なる他者の入り込む必然性がないからです。

 本来、コミュニケーションには常に他者が必要です。その他者は言葉などの共通のコミュニケーションの手段をもっている一方、自己とは違う意志や感情を持っています。ですから、もし無条件で自己の「期待」が満たされるような他者は本来の意味での他者ではありません。自分と同じような考えを持ち、相手の自分に対する感情を容易に「察する」ことが出来るなら、本来コミュニケーションの必要はないわけです。しかし、時として人はそのような人間関係を求めます。それは人間がコミュニケーションの欲求を持っていると同時に、本来の他者に対して不安を持っているからです。そのような矛盾が問題として立ち現れるのは差別や民族などの人々の対立の場面です。個人どうしの間では民族や宗教を異にするからと言ってそんなに対立や偏見は生じません。私もテキサスにいた間はあまり相手がアメリカ人であることを感じませんでした。個人の間では、むしろその人の性格の方が問題だと言えるでしょう。しかし、民族や宗教を異にする人たちが集団単位で接する場合はそうはいきません。特に、利害関係が絡む場合は言葉や習慣の違いがすぐさま対立につながり、それが長い間にわたって固定化されることもよくあります。そこには自分の属する社会に対する依存心と、その外にある集団に対する敵対心とが明確に現れていると言えるでしょう。この依存心と敵対心とはまさに相即の関係にあり、一方が増大すると他方も増大する関係にあると言えるわけです。しかし、本来のコミュニケーションの欲求にあっては、依存心が高まったからといって、敵対心が生まれることはありえません。むしろ、その社会の外に属する人に対するコミュニケーションの欲求が高まるのが本当のところでしょう。このようなことが起こるのは自分の属する社会の他者が偽りの他者であって、本来の他者ではないからです。ですから、一体感のみを強調する社会にあっては時として分裂や対立が生まれます。外に共通の敵がいる間は固い団結を誇っていたセクトが、敵の消滅後に内部分裂したり、そうでなくても敵に追い込まれると仲間どうしで責任のなすりあいが始まることはよく聞く話です。結局、そこでは自分の「期待」を満たすことが他者に求められていたのであって、自分がその社会に属していたのもそのために過ぎなかったのです。

 玲音は ありす が来るまで一体感を感じれることがコミュニケーションだと誤解していたようです。それは前回に続く次のセリフの中の「つなげる」という言葉に見て取れます。
 

玲音「ありす は大丈夫だったじゃない。ありすは、私がつなげなくっても、私の友だちになってくれた」
ありす「なんのこと、いってるの?」
突然、玲音が顔を近づけてきて、驚くありす。
玲音「ありす だけは、私の友だち。つながってなくても」
ありす「つなげるって、何のこと…?」
玲音「わたしと、みんなと……わたし、ありす が好き」
ありす「何をいってるかわかってるの、玲音!」
玲音「もともと人間は、無意識でつながっている存在。それをつなげ直しただけ」
ありす「玲音が?」
玲音「私は何もしないよ。あっちとこっちと、どっちが本物とかじゃなく、私はいたの。私の存在自体が、ワイヤードとリアルワールドの領域を崩すプログラムだったの」
ありす「玲音が、プログラム……」
 

 確かに人間は「無意識でつながっている存在」なのかもしれません。しかし、その「つながっている」ことはコミュニケーションの前提にすぎないのです。玲音はプログラムとしてワイヤードとリアルワードとをつなげ、人々の意識をも一つにしようとしていたようです。ですから、「ありす が好き」という感情が本来のコミュニケーションの欲求から発していることにも気づかないままです。しかし、無差別に一つにされた世界にはもう他者の存在する余地はありません。そこでは「私」という一人称での独在論ではなく、「我々」という形の一人称での独在論が成り立っています。「我々」の中には自分と違う他人はいますが、自分の「期待」に反し得る他者はいません。極端な民族主義者やカルトの信者たちは、自分たちの組織に反する者たちを排除し、自らを完全にその組織と一体化させていますが、これは偽りの他者と一体化することによって新たな独在論に陥っていると見ることが出来ます。「私」という純粋な形での独在論はほとんど成立しませんが、この「我々」という形での独在論はかなり一般的なものではないでしょうか。独在論が人を誘惑できるのは、人に偽りの他者を与えることが出来るからです。

 マズローという心理学者は人間の欲求は満たされるにつれて段階的に [生理的欲求→安全の欲求→帰属と愛情の欲求→尊重の欲求→自己実現の欲求] の5段階に発展するとしました。私はこれを3段階にまとめて、[生理的欲求→社会的欲求→精神的欲求] と考えるのですが、社会的一体感のみを求めることは、人間の本来の欲求がコミュニケーションの欲求であることを思えば、その自然な発展を抑圧したものと観ることが出来るでしょう。私たちの生きる近代社会ではこの欲望の抑圧がよく起こります。というのも、人間は本来、物質的な欲望が充実すると精神的な充足を求めるのですが、近代社会は常に物質的な欲望を追求するように出来ているからです。ですから、精神的な欲求の充足を物質的な欲求の充足ですり替えようという傾向が常に存在します。また、近代社会ではお金や権力が一般的な人々をも強く支配しているので、精神的な欲求は社会的な帰属を求める欲求によっても阻害され、歪められます。仕事中毒と呼ばれる一部のサラリーマンにもそれは見て取れますし、物質的に豊かであるにもかかわらず満足できない今の日本の若者を見てもそれは理解されるでしょう。また、発展途上国では政治的・思想的自由の欲求を経済発展による豊かさによって覆い隠す傾向もあるようです。天安事件以後の中国での異常な経済発展にもそれはうかがえますし、日本においても地方への補助金が地方の自立意欲を削いでいることにもその例かと思います。いずれにしても、すり替えによって一時的に欲求を抑えることは出来ますが、それはより強く歪んだ形で再び現れます。塩水を飲んでますます渇きがひどくなるように、際限なく欲望が増殖するわけです。不幸なことに、近代社会は経済が成長することを前提に成り立っていますから、それ自身の中に欲望を制御する要素を見出すことは困難です。むしろ歪んだ欲求の増殖とともに自らも増殖し、環境問題をはじめとして私たちの生きる前提を危うくするに至っているのではないでしょうか。

 「他者」というと何となく「他の人間」というイメージが強いですが、必ずしもそれは今まで述べてきたように人間だけを指すわけではありません。むしろ自然を含めた自己を超えたすべてのものをさしているということが出来るでしょう。また、自然というと人間を除いた自然環境を指すことが多く、環境問題というと、地球の温暖化やオゾン層の破壊などがイメージされることが多いようです。しかし、人間自身も一つの自然なのであって、人間自身も自然破壊の被害者であることが見落とされがちです。そこには [自己-他者] の関係を、人の意識を中心に、あらかじめ独立し切り離されたものと見なす考え方があるように思われます。しかし、自己と他者とは相即の関係にあることはすでに前に述べたとおりです。問題は自然を含めた他者を自己の立場でのみ捉えることができないということ、「あなたにとっての私」を考慮した立場で物事を考えることが出来ない点にあります。これがまさに独在論の問題点なのですが、独在論では意識は存在してもその意識を超えてそれを成り立たしめている自然に対する配慮が欠落しています。意識の世界であれ無意識の世界であれ、意識を超えた世界を認めることは、人を超える世界を認めることです。玲音は自らプログラムとして意識の世界に存在していることを受け入れていますが、その意識を成り立たしめている自然についてはまだ気がついていません。次回は最も身近で人が逃れることが出来ない自然である肉体の問題を通じてこのことを考えてみます。
 
 

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