09:疎外された肉体
 

 私は、本来、自然哲学を研究している者なので、人間を含めたすべての存在を自然の中に含めて考えています。ですから、自然科学の対象以外の社会・人文科学の対象も自然としての同じ秩序にしたがっていると見なしています。しかし、実際には、人間や人間の作り出した社会を一般に私たちが「自然」というものと同一次元で考えることには限界があります。というのも、人間や社会には、他の自然に働きかけ対抗する主体としての特殊性があるからです。そこで、私は一般に「自然」と呼ばれているものを「第一の自然」、人間を「第二の自然」、そして人間の作り出した社会を「第三の自然」と呼ぶことにしています。自明のことですが、第一のものが第二を、第二のものが第三を生み出したのであり、それぞれ後のものは前のもののあり方に制約されます。ところが、独在論ではこの順番が狂ってきます。独在論にあっては、「自我」としての人間が第一に存在し、それに対抗する形で一般的な自然と社会が現れてきます。確かに、これらの対抗するものは自分の意思で自由になるものではありませんが、すべてが「私にとっての○○」という形でしか捉えられていないわけです。

 しかし、独在論にはなかなか抗いがたい存在があります。それが肉体です。独在論の立場では「自我」がすべての中心にあるべきなのですが、その自我を成立させている意識は常に肉体によって影響を受けています。仮に独在論の立場に立って自我の快楽を追求しようとしても、その快楽の基準そのものが肉体的感覚によるものであり、ある意味で、自我を成り立たせている意識が肉体のために存在するとも言えるわけです。つまり、『私』そのものが肉体を前提としているわけで、独在論の立場にとどまろうとするならば、肉体から生じる感覚を色分けして、「これは気持ち良いこと」「これはイヤなこと」とあらかじめ決めておいて、意識に生じる事柄をすべてその基準で割り切るようにしておかねばなりません。これは [快−不快] の最も原初的な感覚に基づくものです。皮肉なことですが、自我に対抗する外の事象に対して『私』による支配を及ぼすために、意識は意識を生み出した肉体の要求に過剰なまでに忠実になってしまったといえるかも知れません。大阪府立大学の森岡正博さんは「無痛文明論」を展開されていますが、この中で指摘されている痛みを否定し遠ざける「無痛社会」もこのような自我意識が異常に拡張された結果ではないかと私は考えています。

 この「痛み」を感じる触覚は五感のうちでも最も肉体的で原初的な感覚です。ですから、自我意識によって支配された社会が「無痛」を志向するのはある意味で当然だともいえるでしょう。誰でも痛みや厚さを感じた時には反射的に身体を動かします。また逆に、触覚的な快楽には抗し難い力があります。触覚は生物の行為と直接結びついている点で、自我意識に先立っているとも考えられます。例えば、私たちが痛みなどの苦痛を急に感じた場合、どう表現するでしょうか。本当に大変な場合には「痛い!」としか言えないのではないでしょうか。そうでなくても、「胃が痛い」とか「歯が痛い」とか表現することはあっても、「私は胃に痛みを感じる」とか「私は歯に痛みを感じる」とか言うことはあまりありません。あるとすれば、医師に「どこが痛いですか」と聞かれた場合ではないかと思います。

 この感覚を表現する際に何が主語になるかを考えると、五感のそれぞれの特徴が見えてきます。触覚の場合、主語は省略されるか、痛みの箇所が主語となります。また、味覚、嗅覚、聴覚の多くの場合、「リンゴはおいしい」「納豆はくさい」「自動車がうるさい」その感覚を与える対象が主語となります。この中では聴覚がやや特殊で「私は音楽を聴く」という形で私が主語になる場合も多々ありますが、これらの感覚の重点が感覚する『私』にあるのではなく、感覚される「対象」にあることは間違いないと思います。これに対して、特殊なのが視覚で「窓を開けると、富士山が見えた」という形で対象が主語になることもありますが、かなりの頻度で「私は○○を見た」という形で『私』が主語になります。これは感覚を起こす原因が対象にある場合よりも『私』にあることが多いからであって、その意味で、他の感覚よりも意識による支配を受けやすいともいえます。この「独在論の誘惑」の中でオウム信者に触れた時、彼らはテレビのチャンネルを変えるように生きる世界を変えているのではないかと述べましたが、独在論の世界においてはすべての感覚が視覚と同じように自我の選択の範囲内に収められているわけです。
 

 ところで、lain では、ありすが玲音の胸に手を当てて、心臓の音を一緒に分かち合うことによって玲音に意識を超えた世界があることに気づかせます。前回引用した続きを見てみましょう。

ありす は玲音の言葉を聞き、玲音の首筋に手を当てた。
ありす「違うよ」(優しく)
玲音「えっ?」
ありす「私よくわからないけど、玲音のいってること、間違ってると思う。こんなに冷たいけど、でも生きてるよ。玲音の体。私だって、ほら」
ありす は、自分の胸に、玲音の手を押し当てた。
ありす「ね? どき・どき。どき・どき……」
玲音から自然な笑みが漏れる。微笑みあう二人。
玲音「どうして? どうしてかなぁ?」
ありす「怖いからだよ。怖いから、どきどきしてる」
玲音「だって、ありす 笑ってる」
ありす「うん、そうだよね。でも怖いの。ずっと怖かったの。なんでかな?」
玲音「なんでだろう?」
 

 心臓などの内蔵の動きは意識から独立した自律神経によって制御されています。確かに意識下に表れる精神状態が自律神経を乱すことはありますが、肉体が意識を超えて意識そのものを生かしつつ働いていることを明らかにしてくれます。

 確かに「無痛化」を志向する独在論的な感覚世界は肉体の欲求を反映していますが、歪んだ形でそれを反映しているのであって、決して肉体そのものと合致しているわけではありません。独在論の世界では肉体は自らに快楽を提供する道具なのであって、自らをこの世で生かしている自然ではないのです。ここでは明らかに<意識−身体>の二元論の構図が見て取れます。つまり、肉体は意識から切り離され道具と見なされると同時に、本来の自然である第一の自然も意識から切り離され疎外されているわけです。

 次回は道具としての肉体を通じて、私たちの生きる世界が人工的になっている現実を考えて見ましょう。 
 
 

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