10:人工物の氾濫
 

 私は大学2年の時、偶然に「うる星やつら」の初回を見て以来、アニメファンなのですが、このアニメほど人工的なものはないといえるでしょう。最近ではデジタル技術の発達でますますその傾向が強くなっているともいえるのですが、私はなぜかアニメには人工的なものとしての不自然さを感じません。それは、その世界が完全に人工的で計算できる世界であるが故に、かえってその中に不純物が混ざり込まないからだと思います。はじめから2次元の映像世界と思っていますから、宮崎アニメに見られるアクロバット的なシーンも違和感を覚えませんし、押井さんの世界に見られるような世界そのものの危うさも演出できるのだと思います。しかし、アニメは現実世界の反映の一つであって、現実そのものを深く見据えることなしには良い作品を生み出すことはできません。80年代にアニメはひとつの頂点を迎えましたが、その後、社会的には狭い領域で停滞してきたといえると思います。それは、思うに、当時のアニメブーム以来、アニメしか知らない人たちがアニメを作るようになったからではないでしょうか。人工的なものには広がりがありません。より良いアニメを作るためには、アニメを超えた体験が必要なのです。

 その意味で、lain は注目すべき作品ではなかったかと思います。アニメとしての非現実性に私たちの現実をうまく映し出しているように思います。人工的な世界だからこそ問い返すことのできる肉体の重さがそこに描かれていたといえるのではないでしょうか。これから、前回引用した部分に続き、現実に目覚めはじめた玲音を再び誘惑しようとする英利政美のセリフをご紹介したいと思いますが、その前に私たちが生きる今の現実を少し振り返ってみたいと思います。

 私は昨年(2001年)5月の末まで約10ヶ月テキサスで日本語を教えてきました。テキサスのあるアメリカも日本も先進国ですが、私のいたのは東テキサスの田舎で、広い平原に潅木や牧草地が広がり、時々牛や馬の姿を目にすることが出来ました。アメリカも田舎に行くと文明が自然の中に点在しているという感じで、私の住居の近くでは野良犬、リス、さまざまな虫たち(たまにはサソリらしきもの)が出てくるような場所でした。私自身は幼い頃このような自然を体験していましたので、特に違和感はなかったのですが、問題は日本に帰ってきてからでした。日本では人工的なものが満ち溢れています。まず気になったのは都会のアナウンスの多さです。日本では球場などで「ファールボールにお気をつけください」というアナウンスがされますが、アメリカではありません。日本では他でも、駅のホーム、デパートのエレベーター、大型車の左折、自動販売機に至るまであらゆるアナウンスが氾濫しています。日本にいるとあまり気になりませんが、よく考えて見ると、何らかの形で私たちの生活の隅々まで人工的なものが干渉しているといえるわけです。

 また、私がテキサスにいた時、日本語を教えていた学生が黒人であったため、白人をも含めた黒人の顔には何とか慣れたのですが、逆に日本人の顔に違和感を覚えるようになりました。これはテキサスで多くのアジア系の人たちと英語で話してきたためでもありますが、特に日本に帰ってから若い女性の顔の区別がつかなくて、時として失敗することがありました。後から日本に一時帰国したテキサスの友人が言っていたのですが、どうも化粧のし方がワンパターンであったことが多少影響していたようです。しかし、わずか10ヶ月、日本を離れただけであるのに、テキサスについたときのショックよりも、日本に帰ってきた時の衝撃の方がはるかに大きかったのは皮肉なことです。

 また、視覚について言うならば、日本に帰ってきて目についたのが、若者の髪の毛に色でした。テキサスでは髪の毛の色の違いはたいてい生まれつきなのですが、日本の場合はそうではありません。天然の金髪に比べても日本人の染められた髪の毛はどうしても人工的なものに見えてきます。恐らく、これはサッカーやアニメのドラゴンボールの影響なのでしょうが、アニメの模倣を現実世界でやるとどうしても浮いた感じがしてきます。女性についてもこれは言えることで、私は leaf などのゲームやアニメのキャラには萌え(ときめき)を感じますが、モーニング娘には萌えません。私はモー娘を「着せ替えタレント」と呼んでいるのですが、全員何だか人形のように見えて時々区別がつかなくなります。かつての女性アイドルには、歌の下手さを含めて、人間臭さがありましたが、最近のアイドルには人工的な感覚が目立つ気がします。

 恐らく私がこのように感じるのは世代感覚の問題があるのは確かでしょう。テキサスでは私にとっては懐かしい70年代のポップスがよく流れていましたし、自然環境も野原の多かった昔の大分に近いものがあります。今の子供たちはテレビゲームや塾で忙しいようですが、あの頃の私も、テキサスの子供たちと同じように自由に外で遊ぶ時間がありました。テキサスから帰国して、ベトナムからの留学生の方のお世話をする機会があったのですが、何となく懐かしくて昔に戻って友達に会ったような感じがしました。NHKの「ひるどき日本列島」という番組でアジアの留学生を下宿生に持つ大家さんの話が紹介されていましたが、その大家さんも今はない日本人の面影を彼らに見ていたようです。アジアでも、日本と同様に、都市化の進展は激しいですが、まだ人々の感覚の中には農村の生活から受け継いだ自然の記憶が生きているようです。日本でも、以前私が住んでいた竹田などでの田舎では、目覚ましの音ではなく、虫や鳥の音で目がさめます。髪を不自然に染めても、その不自然さをあまり感じないのは、今の若者たちがあまりにも人工的な環境で育ったためかもしれません。そこでは自然の中で生活していた頃の記憶が薄れてきてるのは確かでしょう。

 しかし、人間が暮らし育つ環境として考えれば、過剰に人工的な環境はかなりの危険をはらんでいます。同じ起きるにしても、目覚ましの電子音には目を覚まさせること以外の広がりがありません。それはあくまで人を起こすための目的に制約されているのです。それに対して、虫や鳥の音で目がさめるのは、その背景に自然の奥深さを感じさせます。別に虫や鳥たちは人を起こすために朝から鳴いているわけではありません。しかし、それらの音によって目覚める時、季節の移り変わり、その日の天気などを同時に感じ取ることができます。自然界のすべてのものは連関し合っています。lain 風に言うならば「つながっている」のです。しかし、人工物の多くは人間の持つ何らかの目的によって制約されているために<目的−道具>の関係に縛られています。逆にいえば、自然の連関を途中でさえぎって、人間の都合で何らかの異物をその内に挿入しているわけです。

 以前、味気のないサティアンという建物ものに住むオウムの人たちが、彼らにとって古い神社や仏閣の建物を単なる背景に過ぎないと言ったことを覚えていますが、彼らは古人の持つ美意識を共有していないようです。京都では高いホテルの建設が景観を崩すとして反対の声があがったそうですが、若者を対象としたテレビのコマーシャル(プロミス)では堂々と古い町並みに黄色い看板の建物が次々と立っています。私たちは即座に便利さを実現する機能と美的対象とを分けて考えがちですが、両者には自然の摂理という共通の基盤があります。私たちが美しいと感じる黄金比率 [(√5−1):2、ほぼ1対1.618] は自然界にもしばしば見出されるものですし、他にも美しいと感じるものの背景には自然の調和を象徴しているものが多いようです。もし人間たちがその場の都合で自分たちの環境に手を加え続けるならば、その環境だけではなく、その環境に生きる私たちの感覚もおかしくなる危険があるのではないでしょうか。

 独在論とは「私のため」の立場のみから外界を捉えようとするものです。それは<私>と<他のもの>との分離対立を前提としますが、現実には私たちをも含めた自然環境の分断も引き起こします。これは本来「つながっている」はずの世界の否定なのですが、岩倉玲音がこの「つながる」の本当の意味を知ったとき、いかにして<独在論の誘惑>を退けたかを次に見てみましょう。
 
 

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