独在論の誘惑21:捏造される環境世界


 かなり前のことになりますが、“なぜ人を殺してはならないのか”という小学生の問いが話題になったことがあります。その時、多くの文化人と言われる人た ちがコメントを出しましたが、私は大江健三郎さんの意見と、誰かはチェックしなかったのですが、本屋で立ち読みをした内容が記憶に残っています。大江さん は、そもそもそのような問いが出てくるのが「けしからん」というもので、もう一つの方は、「自分が殺されたくないなら、他人を殺してはならない」という論 理は自分が殺されてもかまわない人間には通用しないというものでした。いずれにしても、この手の問いは他にみられる普通の問いのように、単純に推論してい けば答えが出て来るものではないようです。

 実は、私も小学生の時に似たような問いを思いついたことがあります。それは“なぜ社会では人を殺してはならないと言うことがルールとされているのか”と いうものです。それに対しては、“仮に他人を殺せる状況になると自分を含めてすべての人がいつ殺されるか分からなくなり、枕を高くして寝られなくなるか ら”というのが私なりの回答でした。いわば「自分が殺されたくないなら、他人を殺してはならない」という論理で納得したわけですが、実は私の問いは先の小 学生の問いとは微妙に異なっています。先の問いの方は直接「人殺し」を否定する理由を求めていたのですが、私は社会が「人殺し」を禁止する訳を求めていた のです。その意味で、私は敢えて「人殺し」そのものについての問いかけを回避していたわけですが、いずれにしても自らの痛みを通じて社会のあり方を理解し ていました。つまり、無意識のうちに、自分とその環境である社会がつながっているのであり、自分が生きることと社会のあり方とは不可分だと考えていたわけ です。それに対して、先の小学生の問いは直接的に「人殺し」の是非と問うているところが特徴的です。

 私はあの小学生の問いに対して、ごく普通に「自分が殺されたくないなら、他人を殺してはならない」としか答えることが出来ません。しかし、その一方で、 なぜ今の日本で“なぜ人を殺してはならないのか”という小学生の問いが話題になったのかについて考える必要はあると思っています。つまり、その問いに対し て直接答えることよりも、その問いが出される状況に対してメタ的に思考を投げかけているわけです。普通、“なぜ”と問いかける時には、何か他の原理となる 事柄からそうでないことを推論できる場合になされます。“なぜ人を殺してはならないのか”と問う場合、そこには「人殺し」の否定を他の事柄によって根拠づ けられることが出来るのではないかという前提が暗黙のうちに含まれています。大江健三郎さんは、恐らくそのような思考のあり方が耐えられなくて「けしから ん」と言ったのでしょうが、これは私には文学者であるの大江さんの限界を自ら露呈したもののように思っています。哲学者の目から見れば、この問いが社会的 に話題になること自体、「けしからん」の一言で片づけられない状況が社会で進行していたわけであり、そこにこそこの問いかけの本当の核心があるのです。

 世の中には実際に人殺しをしてしまう人たちがいます。その多くは相手に対する感情的なもつれや、経済的問題などで人を殺すわけですが、時たま「なぜ」と 思われる理由で人殺しがなされる場合があります。宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗の事件はその典型ですが、大阪の池田小学校の事件や、つい最近起こった幼女殺害事 件、スーパーでの無差別な殺人事件を見ると、この「なぜ」が目立ってきます。一般的な言い方をすれば、「命の尊さの感覚」が失われているということになる のでしょうが、そのことの本質はなかなか見えてきません。

 だいたい「命の尊さ」というのを言葉で教えることが出来るのでしょうか。時折、少年事件の多発をきっかけに「命の尊さ」を教えるように教育がなされなく てはならないという意見が出ます。しかし、それは先の“なぜ人を殺してはならないのか”という小学生の問いと同じ次元に立った発想です。「なぜ」と問われ るような形で人殺しに走った人たちは、ある意味で自暴自棄に陥り、自らに絶望した人たちです。そのような人たちに理論的に「命の尊さ」を教え納得させるこ とが可能でしょうか。むしろ、そのように物事を対象化して理論付けることによって、もしくはその理論を対象としての相手に教え込むことが出来るという発想 自体が、問題なのだと私は考えます。前回、私は現代社会において個々の人間が、過度の対象化によって、自らの生きる環境から切り離されている状況を問題と しました。つまり、そこには独在論特有の自己と他者とが断絶した状況があるのですが、「なぜ」と問われる殺人事件には、この自己と他者との断絶が自己に とって都合の良い世界を肥大化させ他者そのものを否定する独在論の構造が深く関わっているように思えます。

 宮崎勤の事件に関して大塚英志さんは『「おたく」の精神史』という本の中で [相手性のなさ] という言葉でこの状況を表現しています。この [相手性のなさ] はこの本では宮崎勤を鑑定した医師の言葉を借りて“@「出会った子は私と同じ意志、考え方を持っているから、私と違う考え方をしない」A「そばに居るんだ けど居ないみたい」という二点の印象からなる」と規定されています(307p)。この本によると、宮崎勤は一般の社会から孤立しつつ、その一方で自分に対 して働きかけない対象に対しては奇妙な一体感を感じていたようですが、それは実際に殺害に及んだ幼女だけではなく、自分の祖父や昭和天皇にも感じていたよ うです。大塚さんは自己のイメージをこれらの対象に投影していたのではないかと指摘したうえで、その自己イメージを「責任の主体になれない」という意味で 『イノセントさ』と表現しています(310p)。この『イノセントさ』は押井監督の「イノセンス」を彷彿させる言い回しですが、この映画では「責任の主体 になれない」人形たちが物語の主軸になっていました。この「責任の主体になれない」人形のような人間たちが、突如他者によってイノセントな同一性を否定さ れた時にどうなるのか。このことについては、すでに [独在論の誘惑15:閉ざされた自我] で示したところですが、自己の同一性の外側にある存在は「相手性のない」モノとして強制的に排除(宮崎勤の場合は殺害)されることとなります。

ここでまず注目されなくてはならないのは、「相手性のない」独在論の世界では自己と他者との働きかけに伴う「重さ」の感覚が欠如していると言うことです。 そこには失われた命は取り戻せないという緊張感がありません。まるで車が空回りするように、自己と一体化した内部の世界で生きている空虚さがそこにありま す。その一方で、その空虚さを埋め合わせるように、任意の他者に自己を投影させることによって、架空の自己環境を造りだしているということです。これは自 己の責任が問われない範囲内で世界が捏造されているといえるでしょう。宮崎勤の場合、自己と一体化した祖父の「考え」に従って殺人に至ったと本人は主張し ているとのことですが、確かにここでは大塚さんが書いているように「加害者としての被告人の主体は消滅して」います(312p)。

 酒鬼薔薇聖斗はこの環境の捏造がより強く働いた例かもしれません。彼が「バモイドオキ神」をソウゾウ(想像?創造?)し、その儀式として一連の殺人を起 こしたわけですが、大塚さんはこれを自己実現のための「通過儀礼」として捉えています(421p)。つまりは、社会から孤立した状況の中で、社会から認め られることを目的とした「通過儀礼」としての「バモイドオキ神」への儀式を執り行ったわけですが、ここには独在論の空虚さを否定しようとする強烈な意志が 働いていたのではないでしょうか。それは“他者から認知されたい”という意志ですが、このことは彼が自分お名前を「オニバラ」と読み間違えに怒る様子から も伺えます(424-425p)。酒鬼薔薇聖斗は自身を「透明な存在」と呼びましたが、彼は自らの陥った「透明な」環境世界の中で自分を見いだそうとあが いていたのかもしれません。

 独在論の世界には常に自己を他者から切り離して自己の安全を保持しようとする欲求と、他者そのものを求めつつその他者とのコミュニケーションの欲求が常 にせめぎ合っています。宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗の例を見ると、病的とも言える他者との距離が自己の世界を肥大化させ、他者の世界そのものを飲み込んでしま い、他者のいる環境世界を求めて暴走したといえるでしょうが、このような危険は自分の趣味だけに走るオタクたちに広く見られるのではないかと私は考えてい ます。否、これはオタクと呼ばれる人たちに限らず、現代人一般に見られる危険といえるでしょう。現在のネット社会は容易に人々の欲求を満たす一方、自分の 都合に従って、他者とのつながりを任意に選べる状況をつくりだしています。そこでは自己の欲求が特定の方向に固定化され先鋭化することはあっても、その関 心そのものが変化するきっかけがありません。外にあるすべてものが今ある自己の欲求に従って<目的−手段>の形で関係づけられ、その関心を否定する要素は 排除されます。けれども、その一方で彼らも他者とのコミュニケーションを欲しているわけで、そこには選ばれた他者(つまりは自分と同じような考えを持つ人 々)との「我々の独在論」の危険が待ち受けています。実際に犯罪を起こし話題になるのは、その「我々の独在論」にさえ至ることの出来なかった人たちです が、独在論の誘惑がより問題となるのは、自己にとって都合の良い環境をより捏造しやすいこの「我々の独在論」の場面です。次回は、この「我々の独在論」を 捏造された環境の典型である「国家」を中心に考えてみましょう。

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