独在論の誘惑20:人間にとっての環境問題

  自分が自分であるために、そして・・
  人間であるためには、数多くの部品が必要なのよ
  他人と違う顔、それと意識しない声、目覚めの時に見る掌、幼かった時の記憶
  電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり
  そのすべてが「私」という意識そのものを生み出し
  そして「私」をある限界に制約し続ける
 (攻殻機動隊 草薙のセリフから)

いま私は別府の地域活動に関わっています。別府は戦災を受けていなかったこともあって、数多くの古い建物が残っています。もともと日本一の温泉湧出量を誇 る町ですが、その恵まれた自然環境と温泉町としての古い歴史が不思議な情緒を醸し出していると言えるでしょう。同じ観光地でも、ディズニーランドのような テーマパークを見ると、完全に人工的な建造物によって夢の世界を描いたようなものもあるのですが、別府はそうではありません。また、別府の隣には同じ温泉 で有名な湯布院がありますが、良しにつけ悪しきにつけ人間臭さの垢がたまった別府は湯布院とは別の種類の観光地といえるでしょう。上のセリフは押井監督の 「攻殻機動隊」から引用したものですが、別府という町を思うと、同じ押井監督が最近公開した「イノセンス」に出てくる雑々とした街の景観をその内に持って いるように思います。

 人間は自然の進化の中で生まれてきたものですが、街も似たようなところがあります。それが上から人工的にある計画に沿って形造られることは希ですし、ま た、行政が街に対して何かをしようとすると、かえってその街の魅力が失われてしまうことがあります。

 別府はその意味でも典型的な街で、古くからの建物が簡単に取り壊されたりする事例がありました。浜脇という場所にあった浜脇高等温泉などはその良い例で す。最近では「二階堂」のコマーシャルなどで旧き良きレトロな町並みが紹介されることがありますが、この浜脇高等温泉はまさにそのような雰囲気を持った建 物であったにもかかわらず、市によって取り壊されてしまいました。他にも、別府には亀川の浜田温泉、竹瓦の竹瓦温泉などの建物があるのですが、前者はいっ たん取り壊された後に再建され、後者は別府市の温泉のシンボルとなりつつあります。2つとも、「千と千尋の神隠し」に出てくる温泉館と似たような作りに なっているのですが、浜脇高等温泉と同じように、取り壊しの危機にありました。幸い、地元の人たちの熱心な保存運動、そして一部の人による寄付によって保 存されることとなりましたが、これらの例はいかに私たちが古いものに対して無関心であったかを物語っていると言えるでしょう。

 これらの例は別府市という行政に関わる事例でしたが、別府の場合、より深刻だったのは、戦前から高度経済成長期に至る市民の自分立ちを取り巻く自然や歴 史に対する無関心でした。砂湯というと、今では何か特別な場所のように思われますが、かつての別府の海浜はほとんどが天然の砂湯でした。けれども、今では 「上人ヶ浜」というところに残るだけで、あとは屋内の砂湯くらいしか見あたりません。また、かつての砂浜を埋め立てた後には、高い高層ホテルが建ち並び、 海岸を走る国道からは海を見ることが難しくなっています。海浜の埋め立ては戦前のことでしたが、このホテルは昭和40年代に建てられたもので、当時は高度 経済成長の時代で、観光業も職場単位による団体旅行が中心の時代でした。当時の別府は、まさにこの高度経済成長に乗ったわけですが、今ではそのことが裏目 に出ていることは否めません。自然や歴史といった街の環境に対する無関心は単なる行政の問題ではなく、そこに住む人たち一人ひとりの問題であり、別府とい う街は、そのような人間と環境との現実をよく表していると言って良いでしょう。

 環境問題というと、たいてい私たちは自然環境の問題と考えますが、現実は必ずしもそうではありません。文化遺産の保存に見られる社会環境の維持も大きな 環境問題です。最近、地域コミュニティの衰退と共に、犯罪や子供たちの教育の問題が話題になりますが、これらも社会環境に関わる問題といえるでしょう。今 までの環境問題の考え方は、環境というと自然環境だけをイメージして、<人間 対 自然> という図式で捉えられることが多かったようですが、実際には人間も自然の一部であり、その人間が造った社会も大きな自然の中に位置づけられなくてはならな いのです。先人たちが、自分たちのコミュニティのあり方を通して自然と共存してきたことを考えれば、社会環境の問題と自然環境の問題とはつながっているの であり、単純に切り離して考えるわけにはいきません。社会環境の中で人間一人ひとりの自然に対する意識や接し方が変われば、自然環境に対するとらえ方も変 わるのであり、自然・人間・社会の間にはそれぞれ循環し合う関わりがあるのです。

 温泉町として発達してきた別府は、このような一筋縄ではいかない環境問題の複雑さをよく示しています。近代の到来と共に観光都市として発達してきた別府 は、まず経済的繁栄のために自然環境を破壊してきました。その結果、いったん別府の街は栄えたのですが、その一方で、人々の街の歴史に対する意識が失わ れ、浜脇高等温泉は取り壊しに至るわけです。今日ではこのことに対する反動が現れているわけですが、現実問題として、海辺に建ち並ぶ高いホテルを取り壊す わけにも行かず、さりとて当時の借金による負担もまだ残っています。ディズニーランドなどのテーマパーク、そして湯布院などの新しい観光地の場合、観光地 づくりはゼロから出発することが出来ます。つまりは、一定のイメージに沿ってその場所や街をデザインすることが出来るわけです。けれども、別府のような街 はそのようには行きません。どうしても、今までの連続性の上に立って、負の遺産と思われる(かつての)近代的ビルディング群も、その街の魅力の中に取り入 れる必要が出てきます。

ここで考えなくてはならないのは、環境と個々の人間、そして社会との連続性です。何らかの形で別府のまちづくりをしようとすれば、単に別府という街を自分 たちが手を加える対象とするのではなく、自分たちを生かしてくれる主体と捉え直さなくてはなりません。従来の近代的なやり方は、働きかける主体としての人 間と働きかけられる対象としての環境を別々のものと考えていました。いまだに、「環境に優しい」というフレーズにはそのような人間の自然に対する傲慢な考 え方が見て取れるように思います。しかし、人間は自然によって生かされてきたのであり、また個々の人間は、この人間と自然との関わりの歴史の上で生かされ ているのです。まちづくりに限らず、このことを踏まえて「環境」というものを捉えなくては、私たちは自らの多くの社会問題に対処できないでしょう。

 最近、レトロブームと呼ばれていますが、その背後にもこの問題があるように思います。以前書いたと思いますが、プロミスの宣伝に黄色い建物が乱立する不 自然になぜ若者が不快感を感じないのか、また、どうしてオウムの信者たちにとって伝統的な神社仏閣が単なる背景にすぎず、その一方で簡単でみすぼらしいサ ティアンと呼ばれた建物の中で修行を続けることが出来たのか、これらのことを考えると、街に生きている一人ひとりの人間に街を含めた環境に対する感性が失 われて来ているのは確かです。ここで問題なのは街の景観に対する無関心です。美的感覚には大きな個人差がありますが、この無関心さは私を私たらしめている 環境に対する無関心であり、ひいては自分自身に対する無関心につながるものです。レトロブームとは、そのような感性を補完するものとして人々が無意識のう ちに要請したものかもしれません。まさに上の「攻殻機動隊」のセリフにあるように“人間であるためには、数多くの部品が必要なの”です。

これまで幾度か述べてきたように、独在論の世界では、自己と他者との関係は常に主体と対象という形で別々に分けられています。しかし、他者が自己と切って も切れない環境であることを思えば、人間一人ひとりが自らの由来を他者を通じて取り戻し、その他者である環境と共に生きる必要があるといえるでしょう。し かし、いまだに環境は「人間のため」という独在論の視点で捉えられることが多いように思います。結果として、古くからのコミュニティとともに、自然として の人間もその環境と共に歪められています。次回はそのような環境の中で、個々の人間がいかに自らを見失っていくかを考えていくことにしましょう。


P.S. 別府の古い姿については、下記のサイトを見るとよく分かります。

  別府八湯懐古 写真集
   http://www.coara.or.jp/~sanken/retro/

今回触れた、浜脇高等温泉や竹瓦温泉などの写真もあります。
 
 

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