独在論の誘惑 19:物語は繰り返せない


 私は lain をアニメとして知ったのですが、これは本来ゲームの話だったそうです。つまり、lain にはゲーム版とアニメ版との2種類あるわけですが、それぞれの話はかなり異なっています。出てくるキャラも違いますし、筋書きも相当に異なっているようで す。アニメの場合、私たちは1つの物語をその展開にそって見ていくのが普通ですが、ゲームの場合はそうではありません。ゲームは何度もプレイできますし、 その都度異なった物語のを体験することもできます。その意味で、私たちはアニメに出てくる玲音と同じ立場にあるわけです。しかし、現実の世界においてその ことが許されたなら、本当に私たちは幸せになれるのでしょうか。たいていのゲームではそれを繰り返して最終関門まで「クリア」することによって望んだ結末 に至ることができます。恐らく現実世界もやり直しによって自分の目的をかなえることができるでしょうが、そこに自分が本当に生きる物語を見い出すことはで きないでしょう。というのも、自己が自分と他者の未来を知ってしまっている限り、他者と対等の立場に立つことができないからです。

 次に掲げるのはネットで知り合ったRAYさんが書かれたゲーム版の lain についての感想です。普通のゲームがプレイの繰り返しによって望むべき目的に近づくのに対して、lain はそうではなかったようです。かなり長いものですが、そのまま引用させていただきます。


・・・・
人は死んだらそれで終り。
人ならずとも死んでしまったら其処で全ては終了する。

ゲーム版lainのラストで玲音は自殺する。
自分の口に拳銃を突っ込んで引金を引く。
プレイヤーは玲音の頭がぶっ飛んで静かに血が流れる光景を
淡々と見せつけられる。
そして物語は終わる。

だがラストにこんな会話がある。
「終ったよ」
「ううん。始まったの。これからずうっと一緒だね」

そしてエンディング。
玲音は死んだ。それで全てが終った筈である。

だがエンディングが流れた後には
「continue」
「end」
の二つの選択肢が表示される。

始めてプレイした時はラストがあまりにもショックだった為
「あれはきっとバッドエンドだったんだな」
「もう一度やれば大丈夫だろう」と思い
私は「continue」を選択した。

これはゲームなんだから何度でもやり直しがきく。
死んだって何度でも「continue」して良い結果の方向性へ進む事が出来る。
普通「ゲーム」とはそういうものである。
何度も失敗して少しずつ上達する。

だが「serial experiments lain」という作品はゲームではなかった。



グッドエンドという希望を抱いて「continue」した私の前に現れたのは
初回のプレイでは見る事の出来なかった更に凄惨なデータだった。
結果初回プレイ時同様2周目でもまた玲音は自殺した。

そして再び
「continue」
「end」
の選択肢。
ようやく私は恐怖を感じた。初回での玲音の自殺等は「ショック」ではあったが

「恐怖感」は抱かなかった。
しかし選択肢は淡々と表示されている。

それでもまだ見ていないデータはある。
まだ私は希望を抱いていたのだろう。
再び「continue」を選択する。

だがやはり私の前に表示されるのは悪夢のようなデータばかりであった。
今までは主に玲音のデータだったが主治医である柊子のデータも増えてきた。
プレイを繰り返すうちに玲音自殺エンドの他に
柊子死亡エンド(柊子の死に顔は本気で怖い・・よくこんなのSCEのチェック通
ったもんだ)等
他の悲惨なエンディングも増えてきた。


結果何度も「continue」して何度も玲音が死んで
プレイヤーが得られるのは更に悲惨な結末だけだった。

全てのデータは5回エンディングを迎えれば見る事が出来る。
だがそこまでプレイした者は途中で「希望」など抱かなくなっただろう。

絶望の中プレイヤーが求めるのはただ「もっと玲音を知りたい」。
それだけである。
恐怖という感覚すら麻痺し始め何時しか玲音の存在に魅了されていく。

「serial experiments lain」という作品はそんな麻薬のような作品だった。

このゲーム版lainをプレイする人は大抵アニメ版から入った人が多いと思う。
アニメ版ラストでもう一人のレインが
「ねぇ玲音。もう一度さ、始めからやり直そうよ?
折角リセットしたんだもの。」
という問いかけに
玲音が「もういいっ!!」と絶叫するシーンは興味深い。

それは私が叫びたい事だったのだから。


 この書き込みに対して、ゲーム版の lain は ありす のいない lain ではないかという書き込みがありました。私もそう思います。私はゲーム版を知らないのですが、他者のいない物語を繰り返すことは、いかに自己の望みがかな えられたとしても、Unhappy Ending といえるのではないでしょうか。それは、そこには他者の存在を要求する『愛』の感情を満たすことができないからです。

 現実の世界でも何らかの形で失敗に対してやり直す機会はあるでしょう。普通のゲームの場合も、これと似たような感覚でプレイが繰り返され、クリアされて いくのだと思います。しかし、現実の世界では失敗した事実をなかったことにすることはできません。普通のゲームでも前の失敗を踏まえて新たに挑戦しなおし ているというところではないでしょうか。しかし、lain というゲームは私たちが生きていることそのものをゲームの中に映し出したが故に、繰り返しによって Happy Ending に至ることができないのです。というのも、このゲームのやり直しは過去の出来事の消去に他ならないからです。一見、過去の出来事をデーターの記憶としてな かったことにできるなら、物語をやり直すことができるように思われるかもしれません。しかし、そこで消去されているのは自己以外の他者の出来事であり、自 分自身の記憶はそのまま残されています。自己は自己から逃れることはできません。自己は自己に対して“ずうっと一緒”に在り続けるのです。

 物語をいくら繰り返しても、この自己の記憶の中に繰り返された物語の痕跡が蓄積されて行きます。lain  のゲームの中ではプレイを繰り返すにつれてデーターの量が増えているようですが、これは物語を繰り返すことによって自己に刻み付けられた痕跡が増大したこ との結果なのかもしれません。しかし、プレイの繰り返しによっていかにデーターが増大し、プレイヤーがゲームを有利に進めることができたにしても、そこに 出口は見い出されません。現実の世界において他者とつながろうとする『愛』の欲求が満たされなければ決して Happy Ending に至れないように、このゲームも ありす という他者を欠いている以上、残された結末は自殺という形で象徴される自己否定でしかありません。物語を繰り返すことによって自己に蓄積された痕跡は、本 来、現実世界にあるはずの「重さ」を自己の中に積み重ね、プレイヤーの「希望」を押しつぶしながら、プレイする人間を“麻薬のような”力でゲームに引きづ り込んでいるようにさえ思えます。

 この「重さ」を持った痕跡の蓄積を受け止めることでしか独在論の世界から逃れることはできません。もし自己の記憶を消去してもとの世界にも戻ろうとして も、以前と同じように再び独在論の世界へと迷い込み、同じことを繰り返すだけでしょう。いずれにしても、自己は自己に残された痕跡からは逃れることはでき ないのです。その一方、この積み重ねられていく痕跡は独在論の限界を明らかにし、その誘惑を超えた世界を私たちに指し示してくれます。次回からはこの痕跡 の否定によって独在論が自我そのものを空洞化させていくことについて語っていくことにしましょう。
 

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