独在論の誘惑18:神様への誘惑
 

 lain の物語にはいつも不思議な矛盾がつきまとっています。「肉体なんていらない」という精神の欲求は本来肉体から発したものですし、玲音自身プログラムに過ぎないとされているにもかかわらず、このアニメでは不思議な肉体的魅力を放ち続けています。物語そのものも玲音による ALL RESET によって一端は放棄されてしまったように見えるのですが、逆にこのことによって物語そのものの「重さ」が浮き彫りにされてきます。そもそも、この ALL RESET 自身が矛盾した行為です。玲音は ありす が動転し苦しむ姿を目の当たりにして ALL RESET Return を選択します。これはそもそも「他者」である ありす のために行ったことですが、自分の存在を ありす から消し去ることによって、唯一自己がその人の「ために」存在している他者を失うことになります。玲音は他者として ありす のために ALL RESET をすることによって独在論の誘惑を否定するのですが、ALL RESET そのものは独在論の選択というわけです。結局、玲音のこの行為は玲音にとってだけ存在するために、この矛盾に悩むのはただひとり岩倉玲音だけであり、画面では誰もいない街の中で玲音がひとり涙を流すシーンが出て来ます。

 そんな玲音に最後のそして最強の誘惑者が現れます。それは、もはや他者がいない以上、岩倉玲音自身なのですが、ここではレインと表記してその場面をご紹介することにしましょう。
 

町中にぽつんと玲音が一人、泣き出す玲音。
レイン「どうして泣くの? 誰の記憶からも自分を消してしまったから? でも、それはあなたが望んだことじゃない?」
玲音「そう…だけど……」
レイン「誰も変な死に方なんてしていないし、誰も傷ついていないし、誰も憎んだりしない」
玲音「そう…だけど……」
レイン「ワイヤードから、死んだ人の情報が紛れ出すなんてことも、もう無いよ。だから、玲音はもうどこにもいないでいいの。それが、望んだことだったんじゃない?」
玲音「あの人みたいなこと、いうううんだ」
レイン「あの人? そんな人も最初からいないの。いても、神様になれるなんて、変なこと考えない」
玲音「もう私はどこにもいない。どこにもいないんだったら、私は誰? 私はどこにいるの?」
レイン「自分でいってたじゃない」
玲音「え?」
レイン「ワイヤードはリアルワールドの上位階層なんかじゃないって。あの人はそれを間違えていた」
玲音「あっ」
レイン「ネットワークは情報を伝えるフィールド。情報はそこにとどまっていない。情報は常に流れて機能するもの」
玲音「そっか……」
レイン「人の記憶、個人のものとか、人の歴史の中のものとか、それだけじゃなくって……、そう、共有されている無意識だって、そんなに膨大なメモリーを蓄積できるようなものを、人間が自分で作れると思う?」
玲音「ワイヤードはつなげているだけだったんだ。でも、じゃあ、どことつなげられていたの?」
レイン「人がそれを知る必要があるのかな?」
玲音「え?」
レイン「知らなくたって、ずっとこれまでやってこられたじゃない。人の世界が、それぞれ神様を作ってお祈りし、世界はこうだって思いこんで…」
玲音「いやな、言い方」
 

 私はここに出てくるワイヤードを通じてつなげられている世界へのレインの言及を聞いて、それが本来神として語られるべきものであると感じました。しかし、レインの態度はあまりにも合理的で冷たいものです。そこには他者に対する関心というものがなく、レインは恐らくそのワイヤードを通じてつながっている世界がリアルワールドを含めた世界の根源であると知っているのでしょうが、その世界を単なる知識の対象としてしか考えていません。世界に対して無関心であり続けること、そのことが玲音にとっても合理的だとレインは語ります。しかし、見ているだけにせよ、玲音にとってリアルワールドは存在するのであり、玲音はその世界から無関心でいることはできません。そんな玲音にレインは神様への誘惑の言葉を口にします。
 

レイン「嫌でも、それが玲音、私なんだよ。わかってるでしょ? そうだ、玲音は人なんかじゃなかったんだね。玲音はどこにでも遍在しているもの。玲音はじっと見つめるもの。そうよ、玲音は神様なんだよ!」
玲音「違う……違うよ!」
レイン「神様になっちゃえば楽じゃない。人なんかより、ずっと楽になれると思う。何もしなくっていいの。ただいて、見てるだけ。誰も玲音をさげすんだりしない。誰も玲音を嫌ったりしない」
玲音「そんなの……」
 

 “何もしなくっていい”“見てるだけ”“誰も玲音をさげすんだりしない”“誰も玲音を嫌ったりしない”世界はまさにW足しがテレビの画面のたとえをで説明してきた独在論の世界です。英利はあからさまに玲音を自己の快楽のために独在論の世界に誘惑しましたが、レインは無関心を通して間接的に玲音を独在論の世界へ誘惑します。すでに述べたところですが、人間には他者を求める欲求と他者を恐れる感情とが矛盾しながら並存しています。人間が独在論の誘惑に陥るのは積極的な快楽の追求のためよりも、むしろ他者から傷つけられることを避けたいからです。レインは「何もしない神様」になることによって“ずっと楽になれる”と玲音を誘惑します。しかし、ここに出てくる神様はどこにでも遍在するものであると同時に、ただ見ているだけではなく世界をリセットして自由に書き換えることのできる存在です。レインは他者の存在を求める玲音に対して最後の誘惑の言葉を放ちます。
 

レイン「ねぇ玲音、もう一度さぁ、初めからやり直そうよ。せっかくリセットしたんだもん」
 

 あなたが玲音だったらこの誘惑を退けられるでしょうか。あったことをなかったことにする、自分に都合の悪いことは書き換える、しかし、そのことによって他者の存在は否定されず、自己の他者を求める欲求は拒否されることはない。ここには私が [08:偽りの他者] で示した「我々の独在論」のように形式的には他者の存在を否定しない独在論のより完全な形があるといえるでしょう。しかし、この世界には不可逆的な「重さ」をもつ世界にある「かけがいのなさ」が存在しません。他者が存在するにするにしても、それは常に <私にとっての他者> に過ぎず、<他者にとっての私> はないのです。

 玲音はすでに世界の書き換えを経験しています。「のぞき屋 玲音」とみんなから後ろ指をさされ、リアルワールドに居場所を失った彼女は、ありす の記憶以外すべての世界を操作して、自分に都合の悪い出来事をなかったことにしてしまいました。しかし、そのことのために唯一の他者である ありす を苦しめ世界を ALL RESET したのです。

  「もういい!」

 これが玲音の独在論の誘惑に対する答えです。彼女の苦悩はまだ少し続きますが、その終りを語る前に、この玲音の叫びをアニメではなくゲーム版の lain の話から少し探ってみましょう。
 
 

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