独在論の誘惑17:重さのある世界
 

 「覆水盆に帰らず」という言葉があります。聞くところによると、別れた男に復縁を迫られた女が盆の水を地面に捨てて、この水が元の盆に戻らないように、私も元のさやには戻れませんといったのが、その由来だそうです。私は以前この話を聞いて、その男が濡れた地面をかき集め、それをビーカーに入れて熱を加えて再びその水を蒸留してみたらと考えたことがありますが、たとえうまくいったとしても完全にその水が元の盆に戻ることはないでしょう。「覆水」のたとえはやや極端ですが、たいていの行為は取り返しがきくとしても、元に戻すにはそれなりに手間がかかります。多くの場合、完全に元に戻すことはできませんし、命に至っては、一度失われると二度と取り戻すことはできません。しかし、コンピューターの場合はその日常世界の常識が通用しないのも確かです。バックアップをしておけば、データーはいつでも復旧できますし、最近では自動的にバックアップをして過去のデーターをいつでも復元できるようなシステムもあるようです。

 いわば、コンピューターはある意味でデーターの不可逆性を保証することができるわけですが、この点がコンピューター世界と現実世界とを区分する決定的な指標ではないかと私は考えています。コンピューターの世界は細かい回路の中にある無数のスイッチの「入/切」で成り立っていますが、それを変化させるには物理的には大したエネルギーを必要としません。どんなに複雑なデーターも、全く単純なデーターと同じようにコピーし他に移植することが出来ます。しかし、現実の世界ではそうは行きません。人間のような複雑な生命体でなくとも、家のような単純な構築物でさえ、全く同じ物を作る事はできませんし、似たものとしての複製であってもそれを作るにはそれなりに手間がかかります。それは物理的現実世界には「重さ」があるからであり、何らかの形を作るにはその「重さ」が抵抗となってしまうからです。コンピューターの世界の場合、そこにあるのは形だけの世界であって、どんなに複雑な形でもデーターとして再生することができます。しかし、現実の世界では抵抗としての「重さ」が形の再現を阻むのであり、また複雑な有機体に至っては、「重さ」を持った物体相互の関係が固定した形そのものの再現を困難にしています。

 このような現実世界の性格はエントロピーの法則によって示される時間の不可逆性に見て取ることができます。本来、エントロピーの法則は熱力学の法則であり、まわりより激しく分子が運動している「より熱い」状態は時間の経過と共にまわりと同じ温度になっていき、その逆はありえないという発見に由来しているのですが、この「逆はありえない」というところから時間の方向性を示す法則と見られるようになりました。“世は無常”という言葉がありますが、この時の無常の流れの中では決して同じ形は二度と現れません。一瞬一瞬刻々と物事が変化していることを考えれば、「同じ形」という言い方も出来ないのかもしれません。いずれにしても、そこには同じ形が繰り返されることなく <不可逆> に流れる時間があるといいえるでしょう。

 ところで、私たちの意識の世界はこの現実世界とコンピューターの世界のような可逆的な世界の間に成り立っているということが出来ます。私たちの意識が常に外界としての現実世界とのかかわりの中にある以上、現実世界の不可逆性は必然的に私たちの意識をも支配します。他者とのかかわりの中で取り返しのつかない事態を起こせば、それは不可逆な出来事として意識に影響を及ぼし続けるでしょう。しかし、その一方で、純粋な意識の世界はコンピューターの世界と同様に可逆的な世界です。コンピューターの中で自由にデーターが生み出され消去されるのと同じように、人間の意識の世界では想像力が自由にいろいろな形を作りそれを消し去ることが出来ます。独在論の世界は本質的に外界を否定することによって、純粋に意識だけの世界となったわけですが、「見たいものだけを見る」ということが出来るのも、不可逆な外界を拒否してしまっていたからです。独在論の世界は外界を否定しているという点では純粋な夢の世界だということも出来ます。すでに <可逆的> であるというこの世界の特徴を「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の中で無邪鬼は的確に喝破していました。“夢やからこそ、やり直しがききますのんや。なんべんでも、くり返せますのや”というセリフによって、彼は夢が現実世界の <不可逆> という制約から自由であるといい、夢の世界へ諸星あたるを誘惑したのです。しかし、その誘惑が拒否された時、今度は諸星あたる自身が自らの「重さ」のために現実世界へ落下していったのは象徴的です。夢の世界には本来「重さ」はなかったのであり、その世界から現実世界へ戻るためには再び「重さ」を自らの肉体に取り戻す必要があったのです。

 うる星では「重さ」と <不可逆性> との問題が単に象徴的に示されていただけですが、lain ではより直接的な形でこの問題が描き出されました。前回までの lain からの引用では、グロテスクに肉体化した英利政美が玲音によって封じ込められるところまでご紹介しましたが、その後、玲音はおびえる ありす のために自分と自分のいた世界をなかったことにしてしまいます。

   ALL RESET
   Return

玲音の意識が上のボタンをクリックした時、すべてがリセットされ、世界は何ごともなかったかのように進行し始めます。lain の話の中では玲音の存在のために命を落とした人たちもいたのですが、誰も死んだことにはならず、あの英利政美でさえ、しがないサラリーマンとして日々を送っています。私は最初にこの物語を見た時、lain というアニメは物語であることを放棄したのではないかと感じました。しかし、最後の2話を何回も見ながら ALL RESET にもかかわらず、lain は物語としてあり続け、物語としての真実を明らかにしていると思うようになりました。その真実とは、ALL RESET によって逆に浮き彫りにされた <不可逆な> 現実世界の「重さ」です。

  きおくに ないことは なかったこと
  きおくなんて ただのきろく
  きろくなんて かきかえて しまえばいい

これはlain の中ででてくるテロップですが、「記録」としての「記憶」が消去されても、そこには消去されることを通じて残された「痕跡」ともいうべきものが描き出されていました。岩倉玲音の存在はすべての人の記憶から失われましたが、記憶の「痕跡」は ありす にも他の人たちにも何らかの形で残っていたわけです。これが「重さ」を持つ現実世界の <不可逆性> を明らかにする鍵となるのですが、このことについては lain の最終話に出てくる玲音に対する玲音自身の影による誘惑の部分をご紹介しながら考えていくことにしましょう。
 
 

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