独在論の誘惑16:無関心ならざるもの
 

 前回、ストーカーなどの犯罪者の事例を取り上げましたが、彼らを犯罪に走らせていたのは根本的に他者からの無関心です。その無関心の主な原因が自らにあり、その故に責めを負うべきであるにしても、私たち自身も他者をその無関心な態度で追い詰めることがある事実を心しておかなくてはなりません。このことは個人の場合もそうですが、国家の場合でも同様であり、むしろ自らの態度が他の国に住む「善意の第三者」に危害を加える場合がある以上、より重要なのではないかと思います。

 昨年(2001年)タリバンによるバーミアンの仏像を爆破されるという事件が起こりましたが、私はこの出来事の中に鬼気迫ったメッセージのようなものを感じました。多くの人たちは文化財の破壊としてこの事件に関心を寄せましたが、私には彼らの行為の背後に何か追い詰められた者の外の世界の無関心に対する抗議が感じられたのです。人は本来、絶対的な孤独の中では生きていくことは出来ません。それは独在論を本来の形で人間が受け入れることが出来ないことから来ています。しかし、往々にして人は他人からのメッセージに気づかずにその人を決定的な孤独に追い詰めてしまうことがあります。後から知ったのですが、すでにアフガニスタンでは長年の戦争と旱魃のためにすでに多くの餓死者が出ていたとのことです。今アフガニスタンは戦場として多くの人の関心を集めていますが、どれだけの人々がそれまでのこの国への無関心を顧みているでしょうか。多くの人たちはアメリカで起こったテロとの関係で現在のアフガニスタンの状況を理解し、単にタリバンの崩壊を肯定的に受け入れているだけのようですが、これは今までのこの国への無関心の延長線上にあるに過ぎないといわざるを得ません。
 
 今日宗教は多くの争いの根源にあるように思われています。しかし、もともと宗教は人間が無関心の仕打ちにあった時、それを耐え忍ぶ力を与えてきたのではないかと私は考えています。確かにイスラーム過激派のテロリストたちにとってイスラームの教えは自らの復讐心を正当化する役割を果たしていますが、それとても彼らが無関心の仕打ちによって追い詰められた傷跡を宗教が癒していることを逆説的に示しているように思えます。

 「主はすべての心を探り、すべての思いを悟られる(歴代志一、第28章9節)」
 「汝の胸を おし開き 重荷は已に 取り去りぬ(聖クルアーン 第94 開胸章)」
 「仏はいつもこの世にあって、人々の性質を見通し、そしてそれぞれのよろしきにしたがって、教え導きたもう。(新訳仏教聖典10P)」

 本来、宗教が説いているのは“あなたは決して見放されているわけではない”という真理です。どんなに孤独に陥っても、無関心ならざるものがそれぞれの人のことを見守り、救いの手を差し伸べているというのがその教えです。もし人が“自分はすべてのものから見捨てられている”と考えるならば、もはや救いの余地はないでしょう。多くの人たちはテロリズムと宗教とを結びつけて捉えがちですが、もし本当に宗教がなければ、テロはより容赦のない激しいものとなっていと私は思います。それはむしろ無差別に人を殺した青少年の犯罪にその形を見ることが出来るでしょう。もし虐げられたテロリストたちが本当の絶望に陥ったとするならば、ただ人を殺すことに快感を覚える殺人鬼となっているでしょうが、まだ彼らが無差別なバイオテロ、毒物テロを敢行していないところからして、彼らは単なる殺人鬼とはまだ一線を画していると思われます。

 人は自らの力だけで生きているわけではありません。自分が存在すること自体、自己を超えた他者とのつながりの中ではじめて成り立っています。いわば宗教はこの事実を明らかにすることによって、たとえ他人から見放されても常に自らを生かし続けてくれる他者が存在することを説き、人が絶対的孤独という独在論に陥るのを防いでいるわけです。しかし、このことを単に知ることと受け入れ信じるということとは全く別物です。たとえ神や仏が個々の人間を見捨てていないと言葉で説いたからと言っても、容易にそのことを人々は信じはしないでしょう。今までの宗教の歴史を見ると、宗教がこの真理を人々に受け入れてもらえるためにいかにその形を変えてきたかを見て取ることが出来ます。前回に「南無阿弥陀仏」の念仏に触れましたが、ここでも見られたように、「信じる」という決断をめぐって神や仏の側からのあらゆる歩み寄りが見られます。自らの決断を以って信じる、このことを他者である神や仏は自己に強制することは出来ません。しかし、“あなたは決して見放されているわけではない”という真理を明かすのは他者である神や仏の側にあるのです。

 このことを最も雄弁に物語っているのはイエスの十字架上での受難です。私はクリスチャンではありませんので、イエスがそのまま復活したことと、そして主であることをそのまま認めるものではありません。イエス自身を生贄と見立て、それによる神と人との仲介が成されたと考えるシナリオはパウロ以来のものであると私は捉えています。しかし、この受難の物語には、弟子たちの離反にもかかわらず、孤独の中で一人の人間が神の課した運命を忠実に受け入れた事実が示されています。福音書によると彼の最後の叫びは「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか)」であったと記されているが、この言葉は赤司道雄著『聖書』によると詩篇の中の言葉であるとのことで、その詩篇は次のような言葉で締めくくられています。

 子々孫々主に仕え、人々は主のことを来るべき世まで語り伝え、主がなされたその救いを、後に生まれる民に宣べ伝えるでしょう。(詩篇22)

 イエスの死によってその教えは「来るべき世まで語り伝え」られることとなったのですが、その事実にこそ『復活』の真実があると私は考えています。この復活についてパウロは霊的なものであると規定しています。しかし、私はむしろ復活が霊的であることよりも、イエスの受難の物語が持つ肉体的リアリティが後の『復活』の事実にとってより重要であると考えます。福音書には十字架に掛けられたイエスの体について多くの記述をしていますが、それらは肉体的な痛みの感覚を常に伴っています。後に使徒たちがイエスの教えを自らの身を以って広げていくわけですが、この痛みをそれぞれが受け止めなかったならば、たとえ霊的であれ肉体的であれ復活がなされたとしてもそれは無意味だったでしょう。

 自然の中で生き、その恵みを実感できる生活をしている人たちにとって、イエスの十字架が敢えて必要とされるとは思えません。しかし、人が人の作った社会の中で生活し自らが人を超えた力によって生かされていることを感じることの出来ない人々にとって、イエスの受難と復活はどうしても必要な物語なのかもしれません。肉体は最後に残された自然です。すでに [10:人工物の氾濫] で述べたように、いかに自らの周囲が社会によって覆い尽くされようとも、肉体は最後まで人を超えた自然としての存在を示し続けています。キリスト教はこの肉体のリアリティを自らの物語としての神話に取り入れることによって、他の宗教にない「重み」を持っています。次回からは、この「物語」の観点から肉体的なものの持つ「重さ」について考えていくことにします。
 
 


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