独在論の誘惑15:閉ざされた自我
 

 ここ数年、日本だけでなく世界的に凶悪犯罪が目立ってきています。神戸での連続児童殺傷事件をはじめ、佐賀でのバスジャック事件、そしてつい最近の大阪池田市での児童殺傷事件など衝撃的な事件が相次いでいます。日本だけでなく、銃社会のアメリカでもこの手の事件は目立っており、コロバンハイスクールの事件以来、学校内での無差別殺人に対していかに生徒が対処すべきかを教える専門家がいるほどです。このような凶悪事件の特徴は被害者に対する具体的な殺人の動機を欠いていること、もしくはあったとしても、完全に自分勝手な思い込みによるものだということです。

 このような犯罪を起こした人たちには、前回に触れた他者をモノと見なす独在論の傾向がはっきり見て取れます。多くの場合、重大な犯罪を起こしたにもかかわらず、犯人たちには罪の意識が感じられません。逆上して一時の感情で人を殺してしまった場合、たいてい犯人はそのあと深く後悔するのですが、これらの犯罪の多くは計画的でさえあります。しかし、前回「日本鬼子」で紹介した人たちと比べて決定的に違うのは、自ら独在論の世界を、しかも「我々」の独在論ではなく、「私だけ」の独在論の世界を自ら選び取ってしまったということです。恐らく彼らもかつての日本鬼子たちのように追い詰められていたことには間違いがないでしょう。しかし、かつての鬼子たちが外からの圧力で独在論の世界に追い込まれたのに対し、現在の凶悪犯罪の犯人の場合、自ら迷い込んだという感じがします。

 私がこのような現在の犯罪の特徴を最もよく示しているのはストーカー犯罪だと考えています。事実、池田小学校での殺人犯は元妻に対するストーカー行為を繰り返していたようです。時折テレビなどでストーカーの具体的事例が紹介されているのですが、驚いたことに彼らにはほとんど悪い事をしているという自覚がないようです。それどころか、自分がこれだけ努力しているのにどうして相手は自分のことを受け入れないのかと考えているようです。被害者である相手の立場を全く考えることが出来ず、自分の苦労しか考えることが出来ない点においてまさに独在論に陥った典型的な例ではないかと思います。私たちからすればストーカーになるにはいくつかの関門をくぐらなければなりません。まず、ストーカーになるのには時間とお金、そして忍耐力が必要です。特定の相手の行動に付きまとうには、日頃残業に追われているサラリーマンには不可能ですし、相手の行動をつぶさに知るためには、盗聴器を仕掛ける、ごみ箱をあさるなどの特別な努力が必要です。次に、ストーカーになるには自分が常に相手に対して正しい立場にあると思う信念が必要です。このような信念はストーカー行為を続ける彼らの努力によってある程度正当化されるのでしょうが、それにしても、相手が明らかに嫌がっているにもかかわらず、「自分は常に正しい、悪いのは相手の方だ」と思いつづけるのは、ある意味で自己を騙す才能が必要です。

 結果として、ストーカー行為がそのまま殺人や脅迫などの犯罪に繋がるケースがありますが、そこで共通に見られるのは、自己正当化に伴う被害者への際限のない「期待」の増大です。人間のコミュニケーションが「期待」によって成り立っていることはすでに社会的欲求とのかかわりで述べましたが、彼らの場合、それがより純粋な形で現れています。被害者である相手に対して自己本位の期待を肥大化させることは、「私にとってのあなた」しか相手に求めることができず、常に相手を自分の快楽の道具と考えるところから生じてきます。彼らは相手を自分の快楽のための道具と「期待」し、被害者に自分の快楽を満たす「義務」があると考えているから、相手の自己に対する否定的態度を罰すべき罪悪だと思いこむことができるのではないでしょうか。仮に3人の人間の間でAがBをストーカーし、BがCをストーカーし、CがAをストーカーするケースがあったにしても、ストーカーである3人は自分のことを棚に上げて互いに相手を悪だと決めつけるでしょう。独在論の世界では自己の正当性の根拠が問われることはなく、ただ自己に対する正当性のみが問われるからです。

 正確にはストーカー行為があったかどうか分かりませんが、私の母校の一つである名古屋大学の文学部で最近セクハラ事件がありました。セクハラ事件だけに詳しい内容は分からないのですが、単なるセクハラではなく脅迫事件でもあるようです。このことについてはすでに名古屋大学が事実を認定しているのですが、その一方、その懲罰は停職6ヶ月という異常に軽いものでした。この懲罰の軽さ自体も問題なのですが、加害者である教授は自らの正当性を主張し、被害者を逆告訴し、テレビにまで出演したという話を聞きました。すでに大学側が事実認定をしている以上、セクハラの事実は間違いないと思うのですが、すでに実質的に教授人生を絶たれているにもかかわらず、このような行為が出来るというのは、ストーカーに特徴的な過剰な期待に基づく自己正当化の衝動が見て取れるように思います。

 自分の都合の良いように物事を解釈するのはひとつの才能です。それが良い方向に現れれば、逆境にあっても物事を楽観的に捉え心を強く保つことが出来ます。また、多少病的であったにしても、相手を逆恨みすることがなければ、単にお目出度い人で済むことでしょう。この典型は「らんま1/2」(アニメ)に出てくる九能兄妹です。この兄妹の兄は♀らんまと天道あかねに心を寄せ、妹は♀らんまを憎みつつ♂乱馬に心を寄せちょっかいを出しつづけています。この二人はそれぞれ兄は♀らんまにも天道あかねにも煙たがれ、妹は♂乱馬にうっとうしがられるのですが、なぜか自分たちは相手に好かれているのだと思いこんでいます。不思議なことに、この兄妹は互いに変態であると思っているのですが、自分だけはまともであるとも思っています。こうして見るとこの兄妹はまさにストーカーの素質十分というところですが、決してストーカーのように相手を逆恨みしませんし、また♂♀らんまや天道あかねから迷惑がられても、決して憎まれているわけではありません。あくまで「らんま1/2」という物語の中でのかく乱要因に過ぎないのです。
 

*アニメをご存知ない方のために一言。♂乱馬も♀らんまも同一人物で本来♂である乱馬が水をかぶると♀らんまになるわけです(お湯をかけると元に戻る)。ところが、九能兄妹はこのことを知らず、それぞれ♂♀らんまに心を寄せているのです。
 

 現実のストーカーと九能兄妹を比較して見ると分かるのですが、ストーカーの人たちは自分たちの「期待」が裏切られることに異常に敏感です。九能兄妹の場合はどんなに相手に煙たがられても、「なんて内気なんだ」とか「君は誰々のために本心を告白できない可哀想な境遇にあるのだ」と考えて決して懲りることがありません。それに対して、現実のストーカーは「期待」が裏切られる度ごとに相手に対する憎しみをつのらせ、ついには犯罪に至ることもあります。このことの背景には、すでに述べたように、彼らが極めて追い詰められていることが考えられます。それは独在論の不幸から来るといえるでしょう。すでに述べたように人は本来他者なしでは生きて行くことは出来ません。ところが、ストーカーの人たちは、無意識のうちに他者に対する感覚を失い、それを補うために特定の誰かに付きまとうのだと思います。だからこそ、その特定の誰かに拒否された時、飢え死にしそうな人が食べ物を恵んでもらえなかったような感覚でその人を逆恨みするのです。

 しかし、どのような事情があるにせよ、私はこのようなストーカー的な犯罪は厳しく罰せられるべきだと考えています。大阪池田市で児童を殺傷した犯人は精神障害者であったそうですが、事件の計画性から見て、やはり罰せられるべきでしょう。というのも、刑事罰というものが必ずしも報復的な罰ではなく、更正のための手段とも考えられるからです。ですから、私は彼らに死刑を課すことを支持しません。むしろ、これらの犯罪の多くは死刑によって終止符を打つにはあまりにも重大すぎる事件だと思います。たとえ社会に出ることが出来なくても、社会から隔離されたまま徹底的に自らの罪と向き合って一生を送るべきだと考えています。もし逆に犯人たちが独在論の世界に居座ったままでそのまま死刑に処せられたとしても、それは単にモノとしてしか生きていない存在から単に肉体的生命を奪ったとしかいえないでしょう。というのも、彼らはすでに生きることに絶望し、自らモノのように生き、単に周囲の人たちを巻き添えにしようとしただけだからです。

 犯罪の刑罰においては自由意志の有無が常に問われます。同じ追い詰められていたとはいえ、そのような状況を自ら作り出した点において彼らは「日本鬼子」と呼ばれたかつての兵士たちと同等に考えるわけにはいきません。恐らく彼らが刑務所や更正施設の中で人格を回復するのはこのような鬼子たちよりも困難なのではないかと思います。確かに犯人の生活環境がその犯罪の遠因となっていることは指摘できるでしょう。しかし、その一方、人間は自らの意志で自分の環境を作り上げていることも確かです。ストーカーの場合、自らの過剰な「期待」が現実との摩擦を起こし、ますます自分を追い込んでいるといえます。多くの犯罪者の場合、自分が回りに見捨てられているという感情を持っています。何らかの理由で道を踏み外した後、周囲からの理解が得られないまま、ずるずると犯罪をエスカレートさせていたというわけです。しかし、ストーカー犯罪に典型的に見られるように、彼らの多くは自分の罪の重さよりも他人に冷たくあしらわれたことに意識が向いています。自分のことを棚にあげて他人にその責任を転嫁しているのです。独在論の世界を「見たくないものは、見えないもの。見えないものは、存在しないもの」とするならば、彼らは「見たくないもの」を「存在しないもの」として生きてきた責任を問われるべきでしょう。

 とはいうものの、いくら自由意志があったとしても間違いというものは常につきまといます。人間が不完全な存在であり、それ故、罪ある存在とするならば、たとえ現実に刑事事件を起こしたからといって、機械的に責任を問うだけでは十分とはいえないでしょう。私は自由意志に基づいて唯一責任を問われるべきことは、自らの不完全性を自覚して本当に救われたいと望むかどうかの一点にあると思います。たとえ周りから見放され絶望的な状況に追いやられたとしても、本当はこれが自分の望む状況ではないことを知り、たとえ自分の力ではどうにもならないにしても、もし誰かから救いの手が差し伸べられるなら、その手に自らを委ねる意志があるかどうか、ここが問題だというわけです。

 かつて親鸞は一度でも「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生が出来ると言いました。宗教には縁遠い現代人からすれば、このような考えはあまりにも虫がよすぎるように思えるかも知れません。しかし、「南無阿弥陀仏」という一言を唱えるには唱えようとする意志が必要です。たとえ強制されたにしても、自ら口を動かさなくては言葉は発せられません。もし「南無阿弥陀仏」と唱えることが無意味だと心から確信していれば、実際問題として、いかに強制されても「南無阿弥陀仏」とは口にしないでしょう。私はこの「南無阿弥陀仏」の一言に責任を問われるべき自由意志の是非が現れると考えています。

 次回は宗教的な救いの問題を通して、これらの犯罪とその背景にある独在論との問題を考えて見ます。
 
 

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