独在論の誘惑 14:人格破壊
 

 「戦線から遠のくと
  楽観主義が現実にとって変わる
  そして、最高意思決定の段階では
  現実なるものはしばしば存在しない
  戦争に負けている時は特にそうだ・・・
 (劇場版パトレイバー2 後藤隊長の呟きから)」
 

 日本の戦争責任や戦後補償の問題を考えると、いつも気になることがあります。それは戦争という状況での残虐行為を単に道徳的な是非の問題として捉えてよいのかということです。単に行為という側面から捉えればいかなる場合にあっても残虐行為は残虐行為であることには変わりありません。しかし、戦争という状況において平時であれば善良であったはずの人々が残虐行為を行っていることを考えると、戦争に関わる悲劇の責任追及は単に「××が悪い」というレベルのことではないように思われます。

 そのような疑問にある意味で明確に答えてくれたのが「日本鬼子(リーベンクイズ)」というドキュメンタリー映画でした。この映画では靖国神社での現在の人々の様子を映した部分もありましたが、ほとんどが中国で残虐行為を行った人々の証言によって構成されています。私はこの映画を「ゆふいん文化・記録映画祭」で観たのですが、ほとんどの人たち(特に女性)がその生々しい内容に拒否反応を示したのに対して、私は一筋の救いを感じました。それは私が以前からこの手の残虐行為の事実を知っていたからでもありますが、この映画を通して人間の人格がいかに破壊されていくのかを理解する一方、その破壊された人格が回復する可能性を見出したからです。

 繰り返しになりますが、はじめから残虐な人間はこの映画には登場しません。確かに彼らは残虐な行為を行ったのですが、最初からそれを望んでしたわけではありません。多くの場合、上官から無理やり命令され、同僚からどやされて残虐行為を行うようになり、結局は残虐であることを感じられなくなったというのが真実です。軍隊は極めて閉鎖的な社会であり、上官の命令が何よりも優先する組織です。このような中で個人は常に他者の壁によって圧迫を受けています。直接的にはその場にいる上官や同僚ですが、間接的には一人ひとりの親類縁者であり、「天皇陛下」や「お国」の名をかざす恥辱の圧力です。個人として信念を持つ者であれば、残虐行為に加担することは普通はないと思います。しかし、恥辱の圧力はその人の親兄弟を人質に取った形で、残虐行為を迫ります。つまり、命令に従わないということは天皇陛下やお国に対する背信行為であり、親兄弟に対し恥辱を与える申し訳の立たない行為ということになるのです。この見えない形でも迫る他者の壁は人間の精神を根底から破壊します。

 カルトの関係でよく洗脳やマインドコントロールのことが話題になりますが、恐らくこれほどうまく人間の人格を破壊する環境はないでしょう。軍隊は常に閉鎖的で逃げ場がありません。しかも自分の肉親が心理的に人質に取られる一方で、その残虐行為に周りから正当性を与えられ、その行為の被害者は言葉の通じない中国人です。このような状況で日本人と中国人との間には独在論的ともいえる壁が積み上げられていきます。自己の行為を心理的に正当化するには、まずその行為が命令に基づくものであると納得すること、そして残虐行為の対象者が人間ではないと感じるようになることです。人間でなければ殺すことも許されるでしょうし、人を殺すことの苦痛から逃れることも出来ます。このようなプロセスは以前「08:偽りの他者」でも触れた社会レベルの独在論の典型的なあり様を呈しています。人間として存在するのは「我々」だけであり、その外の人間はもはや人間ではないとする形の独在論です。

 この種の独在論は「我々」が大きく見えるに従って強くなりますし、その中に取り込まれた人間はこの「我々」を大きく見せることによってその独在論的立場を強めようとします。よく援助交際をしている女の子が「皆がやっていることだから・・」と言いますが、他者を自分の世界に引き込むことによって心理的に自己を正当化しようとするわけです。たいていの人間は一人では独在論を信じることが出来ませんし、他の人間を殺してもそれをただのモノと割り切るだけの強さはありません。結局、この「我々」の独在論は常に自己を強めようとしますが、それはますます残虐行為をエスカレートさせていきます。そもそも、なぜわざわざ善良な人間に人殺しを命じる上官がいたのでしょうか。それは恐らく他者を巻き込むことによって自己を正当化したかったからだと思います。人間には良心があるために、かえってそれを麻痺させるために残虐行為を日常化させるのです。

 無論、このことは実際に残虐行為を行った人たちを免罪するわけではありません。残虐行為が残虐行為である以上、その責任は問われるべきです。しかし、単に彼らを非難し罰するだけでは問題の解決にならないばかりか、新たな被害者を増やすことにもなりかねません。よく南京虐殺などの日本の残虐行為に否定的な人たちは、このことを全く理解していないのではないかと思うことがあります。彼らは残虐行為などの悪事は常に特定の誰か、もしくは特定の国家によって引き起こされると考えているようです。ですから、事実そのものを否定する、もしくはその事実の責任を他者に転嫁することによって日本、もしくは日本人である自分を正当化しようとしているようにも思われます。しかし、それは単に自らの見たくない現実に目を背けているだけです。仮に南京虐殺による犠牲者の数が中国側の見解の10分の1であったとすれば、虐殺の罪は10分の1に軽くなるのでしょうか。もしそうなら、彼らがより多くの人を殺すことの出来る武器を持っていて10倍の人間を殺したら罪は10倍になるのでしょうか。虐殺などの残虐行為では、殺人が無差別に行われるためにその数を云々することにはあまり意味がありません。必要なのはなぜこのような異常な事態が起こってしまったのかと問うことです。

 私はこの原因として戦争状況における命令するものと命令されるものとの距離があるのではないかと思っています。実際に現場にいる上官と残虐行為を命じられた兵士の間には、実際に行為を実行する者と実行しないものとの距離があります。一方、このような現場にいる軍人と指揮官として現地で命令を下す人間との間には自分の手を汚す者と汚さないものとの距離があります。これをより上に辿って行けば、日本にいて机上で作戦を立てる人たちと戦地に赴いて実際に危険にさらされる軍人との距離があります。それぞれ強い立場の人間は画面の外から画面の中へさまざまな命令を送り込みますが、彼らは決して画面の中の命令される人間ほどには追い込まれているわけではありません。もし、何らかの事情で上の人間に不都合が生じれば、そのしわ寄せは下の人間に次々と及びますが、下の人間ほど逃げ場がありません。最終的に逃げる余地のない中国の人たちが次々と犠牲にされたのです。

 このことをよく示しているのが従軍慰安婦の問題です。別に昭和天皇が従軍慰安婦の設立を命令したわけではないでしょうが、軍規の維持に悩む軍の上層部の人たちは何らかの手段でこれを解決しようとしたでしょう。そのためには従軍慰安婦が有効となったのでしょうが、実際、自発的に従軍慰安婦になってくれる女性などそんなにいるはずはありません。そうすると現場に命令だけが下るわけですが、現場としてはその命令を遂行するために必然的に罪もない女性たちを狩り集めることとなります。ここには一種の無責任の構造が存在します。現場からすれば上からの命令の遂行として自己を正当化しますし、上は上でそれは現場がやってにやっていたことだとするでしょう。手を下そうとするものと実際に手を下すものとが異なるために問題はますます深刻化していくのです。

 私は、正直、かつての日本の戦争についてその責任を直視できない人たちはすでに幾分か独在論の世界に足を踏み入れていると思っています。それは「我々の」独在論であるために、さまざまな論戦をはって同調者を募ろうとします。そうすれば自分を正当化したままで無垢でいられるというわけです。しかし、戦争における残虐行為が突きつけているのは人間そのものの罪の現実です。彼らは「日本」を主語にして「日本に責任はない」という形を通して自分には罪がないと思いたいのでしょう。しかし、別に日本人だから残虐行為を起こすわけでもなく、中国人だから残虐行為を起こさないというわけではないのです。日本の戦争責任は、日本が戦争を起こした故に、その事実の直視を通して人の罪をその中に見出し、二度とそのようなことが起きないために努力するところにあります。何らかの責任を問われるとは自分が何らかの逃れない形で現実と関わっていることを意味しています。それを「見たくない、故に見えない、従って存在しない」というのが独在論の思考プロセスなのです。

 「日本鬼子」でインタビューに答えていた人たちは、幸いにも自らの人格を取り戻した人たちです。彼らにはもはや独在論の影はありません。それは、戦後、周恩来の指導によって彼らが寛大な処置を受けたからだと思います。周恩来は残虐行為をした彼らを人間として扱いました。戦争が終わり、人殺しの大義名分を失った彼らには報復の恐怖があったのでしょうが、赦しを通して自らの人格を取り戻したように思います。罪は絶望的ではありません。だからこそ直視が出来るのですが、その罪を常に画面の向こう側に追いやって目を背け続けるならば、その罪は絶望的となるでしょう。

 次回は現在日本などで話題となっている凶悪犯罪を考えることを通して、罪が絶望的になる過程を明らかにしたいと思います。
 
 

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