独在論の誘惑13:見たいものと見たくないもの
 

 リバタリアニズムの主張を見て、まずおかしいと思ったことは、国家のような政府に対しては異常に嫌悪感をもっているにもかかわらず、多国籍企業のような私的であっても巨大な社会組織に対しては全く嫌悪感も警戒感も持っていなかったことです。私は3つの自然論、つまり第一の自然としての本来の自然、第二の自然としての個々の人間、第三の自然としての社会との3つの自然論を提示しています。リバタリアニズムは個人の自由を最大限に尊重する立場をとりながら、第三の自然である社会については国家や政府に対して個人の優越を主張するだけで、私的であれば巨大企業も個人と同等に扱っています。これは恐らくアメリカやイギリスなどのアングロサクソンの国が他の国々のように資本主義の歴史において常に先頭を走ってきたことと無関係ではないでしょう。イギリスにせよアメリカにせよ、他国の経済発展にプレッシャーを感じることなく、資本主義を発展させることができたのは幸運なことです。他の国々ではドイツやロシアのように、社会主義の旗のもと、上からの集産化、国家統制のもとでの近代化が必要とされました。また、イギリスもアメリカも多くの植民地やフロンティアを抱えることによって、経済成長を加速させることで貧しい人たちにも富を与える余地がありました。いずれにしても、これらは特別に恵まれた状況といえるでしょう。

 しかし、たとえそうだったとしても、リバタリアニズムにおける国家に対する嫌悪と私企業に対する好感とのアンバランスは不自然です。現実問題として個人にとって私企業(会社)は国家以上にその自由を制約する大きな存在です。このことが日本の多くのサラリーマンが会社人間としてサービス残業を強いられる一方、リストラに悩まされていることからも理解できるでしょう。個人事業主にとっても事態は同様で、官庁も含む大きな企業体が彼らの生活を左右していることには変わりありません。リバタリアンが私企業に嫌悪感を持たないのはその中に個人の経済的成功の可能性を見ているからだと思いますが、恐らく実際に生活している普通の人には一部の人たちに経済的成功を導く自由の理念よりも日々の生活の方が大切でしょう。

 森村さんは「自由はどこまで可能か」の最後の部分で「リバタリアンは極端だと考えられることを恐れてはならない」とその理念を鼓舞しています。けれども、社会思想にあってはまず個人の理念ではなく、人々の生活の安定が優先します。多くの人々にとっては、一部の人を金持ちにする社会よりも、安定した生活を維持してくれる社会である方が望ましいのではないでしょうか。かつてマルクス主義者の多くは自らの理念を社会に押し付け、その理念について来れない人たちを見捨て、時として粛清しました。それはまるで彼らの社会理念のために人間が存在し、人間のために社会理念があることを忘れていたかのようでしたが、リバタリアニズムにも同様の異常さを感じます。かつての社会主義者は自ら積極的に敵対者を粛清しましたが、リバタリアンは市場原理と弱い人たちへの無関心で敵対者を葬り去ろうとしています。

 極端な社会主義者においてもリバタリアンにしても共通していることは、常に自分たちの都合の良い事柄だけに目を向け、それ以外の事柄は目を背けるか、何らかの理由をつけて誰か他人に責任を転化しているところです。つまり、見たいものは見えるが、見たくないものは見ない、ということです。

 すでに前回指摘したように、リバタリアニズムの思想ではあまりにも間接的な因果関係に対して無関心でありすぎます。臓器売買の問題に関していえば、臓器がモノとして扱われることによる心理的・社会的影響を無視しています。森村さんは「自由はどこまで可能か」の56−57ページで、売血の例を出して、臓器売買は必ずしも人間の身体に対する尊重の念を損なわないと主張しています。しかし、容易に再生される血液と再生不能な臓器とを同列に論じて良いのでしょうか。また、この箇所に出てくる「・・・の根拠を認めない根拠としては弱すぎる」という言い回しも気になります。私はむしろ逆の立場から森村さんの主張に対して「・・・を認める根拠としては弱すぎる」と考えます。リバタリアンは人間の自由を最優先すべきものとし、確実な論拠なしにはそれを制約してはならないと考えているようです。しかし、私は「生かされている」ことを重んじる立場から、自らを「生かしてくれる」ものに対してその尊重の念を損なう可能性のある事柄には慎重でなくてはならないと考えます。

 このようにリバタリアニズムは身体も含めて自分を「生かしてくれる」存在に対しての配慮が希薄です。臓器移植以外の例としては、遺伝子組換え作物に対する規制の否定が上げられるでしょう。リバタリアニズムの立場では個人の自由を最大限に尊重していますから、競争原理よろしく企業が「遺伝子組換えナシ」の表示をするであろうから、遺伝子組換え作物を食べたくない人はそれを食べなければ良いということになるかもしれません。しかし、仮に遺伝子組換え作物に問題があった場合、その影響が自分たちの子供に現れることも考えられます。子供に馬鹿な親を持ったと言って自己責任を問えるでしょうか。また、自分の恋する人がそのために遺伝子レベルの障害を持っていたために結婚ができなかったとして、その人を遺伝子組換え食品を食べるような馬鹿な人間(もしくは馬鹿な親を持つ人間)に恋をしたと言って責めることが出来るでしょうか。そもそも、植物は花粉によって受精しますが、この花粉はどこに飛んでいくか分りません。遺伝子組換え作物を作りたくなくても、結果的にその影響を受けた作物を作る危険はあるのです。以前、2000年問題が騒がれた時に多くのアメリカ人はそれによるトラブルに神経質になりましたが、コンピューターよりも複雑な自然のシステムに同じような危険を持ち込んでも平気なようです。

 リバタリアンが物事を自分の都合に合わせて恣意的に(勝手に)物事を捉えていることについて、極めて印象的な記述が「自由はどこまで可能か」の中にありました。それはバスティアという人の「見えるものと見えないもの」というパンフレットを紹介した次の部分(164P)です。
 

 バスティアは、悪い経済学者とよい経済学者を分かつものは、前者が行為や制度の結果のうちすぐに発生するもの、つまり「見えるもの」しか考慮しないのに対して、後者がその後発生するもの、つまり「見えないもの」も考慮する点にあると主張する。
 

私は正直この記述を見た時に、自分の目を疑いました。その印象を一言でいえば、「類似品にご注意ください」と書かれた類似品を見つけた感じです。この本の中では公共事業への財政支出を非難するためにバスティアに言及されていますが、リバタリアンは常にケインズ的な公共投資政策や財政赤字に反対する時はバスティアを持ってくるようです。自ら墓穴を掘るような議論をするリバタリアンもリバタリアンですが、その墓穴を突けない反リバタリアニズムの経済学者も経済学者です。

 リバタリアニズムにおける「見えないもの」への無関心は上に示した遺伝子組換え作物の事例でもよく分ると思いますが、リバタリアンがバスティアに言及し続けられるのは経済学者の人たちがある意味で現実感覚を失っているからではないかと思います。近代科学の成立後、語り得るものについては語るが、語り得ないものについては語らない、という実証主義の精神が学問を支配しました。それは確かにそうなのですが、語り得るものを語ることによって語り得ないものについても語ったような錯覚を学者たちが持つようになっってしまった気がします。

 私の個人的な話になりますが、母がガンのため最後の療養をしていた時に、病院の先生に「天仙液」という漢方薬を飲ませたいと申し出たところ、もし飲ませるならばこの病院を出て行って下さいと言われました。現在、大分県にはホスピスがないので仕方なく相手の要求に屈し、一週間ほど「天仙液」の服用を中止しましたが、正直、これほどの学者(専門家)の傲慢を感じたことは今までありません。確かに世の中にはガンに効くという怪しげな薬も多いですし、医療行為の責任者として知らないものを服用させることに消極的になる気分も分ります。しかしながら、患者側が責任を取る意志を持っているということ、加えて副作用がほとんどないことが実証されているにもかかわらず、近代西洋医学の範囲外にあるというだけで服用を拒否したことは、私にほかの選択肢がなかったことを考えれば、恐喝にも等しいことと言えるでしょう。私も相手の立場を考慮して、「天仙液」が中国において国家的レベルで承認されていること、また、その効果についてかなりの臨床データがえられていることを示す資料を持って行きましたが、結局、それらを使う機会を得られませんでした。死を迎える患者においては、通常の医療ではおさまらない問題が生じてきます。例えば、この薬の服用に関して言えば、単にガンに対して延命効果があるとかその痛みを抑制する効果があるというだけにとどまらず、家族が患者に対して出来るだけの努力を(たとえ無駄であっても)するという精神的意味合いがあります。このような単純な医療の領域にはとどまらない問題があるのに、あくまで医療の立場、それも無力と分っている医療の立場で物事を判断することは最良な医療に対して誤謬をもたらします。私はこれを「実証主義の無制約な適用による倫理的誤謬」と呼びますが、医療の現場でも経済学の現場でも、また単なる数合わせで予算を組み上げる行政にも同じような誤謬があるように思います。

 この医療の事例でいえば、家族も含めた患者側と医師の間には決定的な壁があります。それはテレビを見ている人間とその画面の中で映し出されている人間との間にある壁のようなものです。テレビを見ている人はいつでも画面の中に写しだされている現実から目を背けることが出来ます。つまり、「見たくないもの」は見ないで済むわけです。しかし、画面に映し出されている現実にある人間にはそれが出来ません。自分の都合に合わせて数字や言葉を操作することで現実から逃れることは出来ないのです。リバタリアニズムについて言えば、あまりに露骨にそれをやっているように思います。しかし、もしそれが社会思想として世の中に働きかければ、それは現実のものとなり、その現実から逃れられない人々を生み出します。次回はそういう人たちの問題に触れてみます。
 
 

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