独在論の誘惑12:経済学者、英利政美
 

 「人間は進化できるんだよ」と玲音に話しかけた英利政美は、その進化の行く先をどこに求めていたのでしょうか。「物理的制約」はすでに制約ではありえないと考えていた彼にとっては、進化の行く先は人の無制限の自由であったように思えます。しかし、無制限の自由が本当に人間にとって理想なのでしょうか。少なくとも私には人を幸福にするとは思えません。というのも、いかに自由であったとしても、ひとは必ずしも幸福のために何をすべきかをしているわけではなく、むしろ貪るような人間の欲求は人を不幸に陥れるからです。

 東西冷戦が終了し、自由主義陣営に対する社会主義陣営の敗北が明らかになってから、アメリカを中心にリバタリアニズムという思想が注目されるようになりました。この思想は市場経済に対し全面的な信頼を寄せ、政府の個人生活に対する干渉を最低限にすべきであるとし、福祉などの社会保障も否定する考え方です。かつての夜警国家を支持する思想の再来のようにも見えますが、私はこれを「人間自由至上主義」と考えています。それは、国家などの政治的権力に異常なまでの嫌悪感を持つ一方で、人間の利益に関わらない自然のあり様に関して無関心であるからです。この思想は肉体も含めた自然的存在 ― それはある意味で、私たちが生きる外界そのものですが ― に対してそれ自体の独自の価値をほとんど認めません。極論すれば、すべては「私にとっての…」という立場で割り切ろうとする立場でしょうか。

 私がこのリバタリアニズムの思想の特異性に気づいたのは、森村進著「自由はどこまで可能か」の中の臓器売買や代理母の問題に関する記述を読んだ時です。正直、臓器をモノとして単なる自分の道具と見なす点で、英利政美が経済学者になった感を覚えました。私はこれを読むまで「独在論」の立場からの社会思想の可能性についてあまり意識していなかったのですが、これを読んで実際にそれが可能であり、現に存在していることを確信しました。無論、正面きって独在論の主張をしているわけではないのですが、「私にとってのあなた」の立場のみを考慮し、それを最優先のものとする思想が現に存在しています。かなり長くなりますが、独在論特有の他者の捉え方が出てきますので、立岩真也さんの著作に対して臓器売買を支持する立場から批判を加えた部分を引用してみます。まず、立岩さんの「私的所有論」の引用から始まるのでちょっと注意してください。
 

「私の身体は感受されるものであり、私が私のものとして制御する私ではなく、、私があることと切り離しがたくあり、あることの一部をなしていながら、他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような私があり、私の身体がある。(中略)私のもとにあるものが他者として私に現れることが肯定される。私からそうした他者性を消去してしまうことの否定が「私の肯定」と呼ばれるものではないか。(「私的所有論」 110P)」
「私達は私による世界の制御不可能性の上で、何かをしたりしなかったりするのであり、そこでどれほどか私の意のままに私と私の周囲とがなることから確かに快楽を得ているのではあるが、その不可能性がすべて可能になったときには、私達にとっての快楽もまた終るのではないか。(115P)」

 立岩は、人が自分の制御・操作しない部分を残そうとするのは、「それは全く単純な理由からで、他者があることは快楽であるからである」(同右)と主張する。

 しかし、これは人身所有権を否定する論拠としては全く不十分なものである。人は確かに自分が制御できない、立岩のいう「他者」が存在することを欲するだろう。しかし自分自身の中に求めるまでもなく、自分以外の人々も、世界の無数の物質も、すでにして「他者」である。全世界が自分にとって制御可能になってしまったら快楽がなくなるなどというのは杞憂の極みである。世界は自分の自由にならない「他者」で満ちているから、せめて自分の身体くらいは自分の自由にしたいと欲するのが人情なのであって、たいていの人は自分の身体をコントロールできないことを喜んだりはしない。

 だが百歩譲って、立岩のように自分の身体をある点では制御できない「他者」にしておくことを快楽とする、あまのじゃくな人も少なくないと想定しよう。しかしそのようなひとは自分の身体を操作しなければよいだけの話である。誰も彼らに臓器を売れとか買えとか代理母になれなどと強制していない。自分の身体を操作したくない人がいるということは、そうでない人が自分の身体を操作することを禁止する理由にはならない。自分の身体の処分を禁ずる理由として、立岩のような立場に立つ論者は「私たちはそのような社会に住みたいのだ」と言うかもしれないが、ある種の社会に住みたいという欲求は、言いかえれば「他の人々が自分の望むように行動してもらいたい、自分が持っている感覚を他人にも共有してもらいたい」という欲求だ。そのような欲求まで他人が尊重しなければならない義務はない。

 もう一つ付け加えておくと、立岩の提出する論拠では、臓器の売買だけでなく無償の譲渡も出来なくなってしまう。身体の操作に体かが与えられるか否かは、その論拠とは無関係だからである。この帰結は立岩を含めて大部分の人にとって受け入れがたいであろう。

 立岩が右の論拠によって自己の身体に関する自己決定をどの程度制限しようとしているのかも不明確である。彼は言う。
 

「他の人が気にするものを気にしない人がいるだろうし、様々なことを考えた上でやはり私は望むという場合がありうるから、禁止することはできないだろうと思う。しかし、少なくとも単純には肯定しえないし、場合によっては制限されうると考える。(156P)」
 

「禁止することはできない」けれども、「場合によっては制限されうる」とは、一体どういう意味だろうか? 私自身は「制限」を「禁止」の婉曲な言い換えと考えているので、理解が困難になる。だがいずれにせよ、立岩も自己の操作を気にしない人がいることは認めている。このような人を不合理とか不道徳とか決めつけることができないから自己決定を認めるべきだ、というのがリバタリアンのとるべき結論である。

 ※この引用部分全体は森村進著「自由はどこまで可能か(講談社新書)」の66から68ページまでの内容です。
 

 立岩さんが言わんとしていることは、ここまで「独在論の誘惑」を読んでこられた方には明白でしょう。それは、自己が存在するためには他者の存在が不可欠であり、少なくとも自分を超えた他者が存在しているという確信が私たちが生きていくためには必要であるということです。確かに立岩さんの言い回しにはかなりまわりくどいですし、他者があることは単に「快楽」ではなく、生きるために不可欠であるということも抑えておく必要があると思います。けれども、立岩さんは「私が在る」という意識と私の身体とが不可分に結びついていることも指摘しています。つまり、「私が在る」という意識は私の身体によって可能なのであり、その意味で、「私」は身体を通して「生かされている」というわけです。

 これに対して、森村さんはこの「私」が「生かされている」という現実に全く無関心です。彼にとって問題なのは道具として「私(の意識)」に奉仕するための身体です。確かに「自分の身体をコントロールできないことを喜んだりしない」というのは正しいのですが、それは身体が私の意識と共に普通にある状態において言えることであり、自分の意識から離れてその身体を勝手に売買したいという欲望とは別なものです。森村さんは身体を通して人が行動することと、それをモノとして「操作する」こと、もしくは「処分すること」とを混同しているように思われます。私たちは身体を操作することによって行動しますが、逆に身体の欲求に従って行動します。つまり、意思と身体とは互いに前提とし合っているわけです。しかし、誰かが何かを「操作/処分する」ことはそうではありません。「操作/処分する」誰かは「操作/処分される」何かとは独立に存在します。身体が正常にあるのも意識のおかげですが、意識そのものがあるのは身体のおかげです。この「生かされている」という視点を無視した生き方が正常であるとはちょっと思えません。

 しかし、問題は「生かされている」という感覚を無視して生きる人間と私たちが共に生きていかなければならないという現実です。リバタリアニズムの立場からすれば単に趣味の問題として「個人の勝手」で済まされるかもしれませんが、実際にそれで済むのでしょうか。人は皆つながっています。単に人だけではなく、自然そのものとつながっているのです。そのつながりはは必ずしも目に見えることではありませんが、見えないからといって無視できるものではありません。世の中には直接的な因果関係と間接的な因果関係とがあります。英語では「彼が私の弟を殺した」という文章に対して「私の弟が彼によって殺された」という形での受動態は出来ますが、「私が弟を彼によって殺された」という文章は成り立ちません。後者の受動態を日本語学では「迷惑の受身(必ずしも迷惑なことだけではないですが)」と言い、間接的な因果関係を受動態で表現するものとされます。リバタリアニズムは、アメリカ的思想からかもしれませんが、あまりに後者に無関心です。

 しかも、森村さんの論理展開にはかなり危険な強引さがあります。彼は「禁止」と「制限」との区別を意図的に無視しています。しかし、現実に「禁止」と「制限」とは違います。それは「すべてのクレタ人がうそつきである」という文章と「何人かのクレタ人は嘘つきである」という文章とが同じでないことを考えれば分るでしょう。論理学の用語を使えば、この区別は全称命題と特称命題との違いとなりますが、この区別を無意識にもしくは意図的に混同させることによって論理を誤魔化すのは昔からの常套手段です。「独在論」の立場では「知覚できぬものは存在しない」となるのでしょうが、本当は「知覚できぬものは、存在するとは言えない」というのが正確です。

 次回は、リバタリアニズムの問題点をより具体的な観点から考えてみたいと思います。
 
 

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