独在論の誘惑23:独断論としての独在論


 以前、マルクス主義哲学が社会的な影響力を持っていた頃、独在論(独我論)はよく「主観的観念論」と呼ばれていました。そして、この主観的観念論の古典 的元祖と見なされていたのが、イギリスの哲学者バークリーとドイツ理想主義の哲学者の一人であるフィヒテです。バークリーは“存在するとは知覚されること (esse est percipi)”としたことで有名で、フィヒテの哲学は自我の哲学として知られています。いずれも、自我の外にものが客観的に実在することを前提に議論 を展開するのではなく、自分が何かを観念として知覚することからそれらの存在を基礎づけようとしたために、このように呼ばれました。一見すると、かつてマ ルクス主義者が主張していたように、彼らの哲学は私がここで問題にしてきた「独在論」の元祖でもあるように思えるのですが、ここには少しねじれた事情があ ります。

 バークリーにしても、フィヒテにしても、それらの哲学の基礎として「私」にとっての知覚、もしくは観念を据えましたが、決して客観的な実在、今まで私が 語ってきた「他者」を否定したわけではありません。むしろ、彼らは「他者」に対して倫理的であることを求めたのであり、自我の殻に閉じこもろうとする独在 論をいかに乗り越えようかと苦心したのです。独在論が純粋に理論的な立場から否定できないことは [独在論の誘惑04] でも触れましたが、彼らはそのことを確認した上で、いかに客観的実在を受け入れるべきかを考えていたわけです。ですから、バークリーは知覚される実在の背 後に神を想定しましたし、フィヒテは実践理性の立場から、自らの行為との関わりで他者の意味を明らかにしようとしました。一方、マルクス主義の哲学は純粋 理論的な立場から独在論の可能性を考えることすら拒否したと言えます。その哲学にあっては、客観的存在は常に確固とした思想の前提であり、自らの哲学はこ の前提の上に間違いのない形で展開されると信じていました。フィヒテの立場からすると、これはまさに客観的実在を何の理由づけなしに肯定する「独断論」と なりますが、皮肉なことにマルクス主義は政治的にも「独断」的に自らの立場を主張するようになります。

 なぜ、このようなことになったのでしょうか。フィヒテは純粋に理論的な観点から、客観的な実在が在ると決めつけることを独断的としました。これは哲学の 次元の話ではありますが、現実の場面で「独断的」という時、「○○は××だ」と決めつけることをいいます。もちろん、その主張は間違っていない可能性もあ るのですが、それはそう言う人にとってのことであって、他の人には必ずしもそうでない場合も結構あります。ある人にとっては「椎茸はおいしいから、良いも のだ」といえるでしょうが、人によっては「椎茸はまずいから、悪いものだ」となるかもしれません。「独断と偏見で・・」という言い回しが時折使われます が、「○○は××だ」という断定は、それを知覚する誰かとの関わりで成り立つわけであり、科学的に「そうだ」といえることも、科学の立場から誰に対しても 妥当するという意味にしかすぎないのです。

 とはいうものの、マルクス主義の歴史を見ても分かるのですが、政治的な場面では、この「独断と偏見」が横行してきたのも確かです。また、前回も触れまし たが、国家主義者にとっては、その立場によって常にその見方は相反してきます。ある国の人にとっては英雄と見なされる人物が、他の国では非難の対象になり ますし、歴史に至っては、解釈はおろか、事実関係さえ議論の争点になります。このことは国家主義者の間だけにとどまりません。国家主義者にとっては、あま り国家の役割を重視せず、その弊害を説く人たちに対して「左」のレッテルを貼りたがります。確かに昔のマルクス主義者を中心とした左翼との因縁もあるので しょうが、平和運動をしただけで「左」と言われるのも迷惑な話です。左翼にせよ、右翼にせよ、彼らに共通するのは独断的に特定の要素で物事を割り切ろうと した点です。例えば個々の人間を論じるにしても、マルクス主義者は階級で議論しましたし、右翼の人たちは、その人が何人であるかで断定しようとしました。 「それでも日本人か」というセリフには、日本人に対する独断的イメージが前提となっています。

 右翼と左翼とを比較すれば、右翼の独断の方がより人間の本性に根付いているのではないかという気が私はしています。それは右翼の主張する国家や民族の観 念の方がより具体的でイメージしやすいからです。それに対して、左翼の方は理論的な側面に強かったのですが、抽象的な議論に陥りやすく、なかなか具体的イ メージに結びつきません。一時期、左翼勢力が拡大したのは、右翼が政治的に支配的になった反動であり、右翼の主張に対し、左翼が自らの用いる決まり文句を 偶像化することで、国家や民族などの持つイメージに対抗したからだと私は考えています。いずれにしても、独断論は単純なイメージの上に成り立つのであり、 そのイメージを批判されない言葉もしくは呪文にしながら、自己の観念へと転化することによって、「我々の独在論」が成立してきたのです。

 この意味で、全体主義における「全体」の概念は極めて注目すべきものです。戦前の本になりますが、「廿世紀の思想全體主義」の中で務臺理作さんは次のよ うに書いています。

「 しかし全體主義の意味する全體とは、この様に漠然とした意味に於いてゞはなく、現實に存在するところの一定の民族・國家の存在を意味するのである。日 本人にとっては・日本民族・日本國家が全體であり、獨エ人にとっては純粹獨エ民族・獨エ國家がその全體である。そして全體とは結局それ以外のものを意味す るものと考へないのである。また廣く世界のすべての人間に偏通すると考へられる人間性・世界性の如きものをも全體概念の中へ加へない。全體についてその多 數性と更にそれを包攝する普遍性を認めないことが、全體概念の特色と云っていゝであろう。(4p)」

「全体」というのは、何らかのまとまりを持ったものですが、それは常に他のまとまりと共にあります。務臺さんはこれを「多數性」という言葉で表現していま すが、対立関係であれ、協調関係であれ、はたまた部分と全体の関係であれ、一つのまとまりを持つ「全体」は他の全体との関わりのうちにあります。ところ が、全体主義の思想にあっては、自らの国家・民族の他の国家・民族に対する優越が前提とされ、他者が否定されています。これは国家どうしの対抗関係を反映 しているとともに、“見たいものしか見ない”独在論の特徴を的確に示していると云えるでしょう。

 引き続き、務臺さんは次のようにも書いています。

「この地上にたゞ一つの民族、たゞ一つの國家のみが存在すると云ふ如きことは想像することさへ出來ない。若しこの様な見方を固執しようとすれば全體的存在 のソリプシズムに立つ外はなかろう。全體の存在は多數であり、それ等は相互に對立しながらしかも各々はそれ自身の固有な特殊性を維持してゐるものと考へね ばならない。(31-32p)」

ここで「ソリプシズム」という言葉が出ていますが、私はこの言葉を見た時、正直驚きました。というのも、「ソリプシズム」とは「solipsism=独在 論」を意味する言葉だからです。全体主義の思想において、「全体」とはある特定の民族・国家の名前に独在論が捏造した理想的環境を投影させた独断的な観念 の偶像です。それは客観的な実在にその拠り所を求めつつも、自己の内部から出た観念の産物にほかなりません。しかし、社会を通じてそれは実在する環境と なったのであり、歴史にその傷跡を残したのです。

 実在する自然のあり方に逆らった独在論の世界が現実化しても、それは長続きすることはありません。「我々の独在論」に見られる、他者の否定による「我 々」の連帯は、その「我々」が窮地に陥った時、自らの仲間割れによって瓦解するでしょう。しかし、人間が他者を求めつつも他者を忌諱する限り、独在論の誘 惑はなくならないでしょうし、私たちの社会は常に「我々の独在論」の危険にさらされているのです。

 次回は、このエッセイの最後として、私自身の公務員時代の辛い経験を語りながら、他者と自己との不可分なつながりを明らかにしたいと思います。
 
 

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