独在論の誘惑24:他者の中の自己、自己の中の他者


 以前、私はどんな悪人でも輪廻転生を繰り返して、いずれはすべての人が救われ、天国に行くと信じていました。けれども、約11年間の公務員生活を経て、 世の中には救われずに、そのまま消えていく人たちもいるのではないかと考えるようになりました。キリスト教やイスラーム教の説くように、いつまでも地獄で 苦しむことはないにしても、死んだらそれまでで、そのまま忘れ去られていくだけの人々もいるのではないか、逆にそのことに彼らの人生の意味がある人たちが いるのではないか、そう思うようになったのです。一見、彼らにとって残酷な救いようのない考え思われますが、実は彼ら自身、自らそのような運命を望んでそ うなるのではないかと、最近考えています。

 公務員をしながら人間とつきあって分かったことは、人間の性格には相反する2つの方向性があるということです。それは<開いた方向>と <閉じた方向>と私は呼んでいますが、これこそが今までこの「独在論の誘惑」で問題にしてきた、人間の他者を求める本性と他者を恐怖する本性 に対応します。これらはどんな人の中にも相反する形で存在し、実際にこの2つのバランスを維持することによって生きているわけですが、<自らを開く ために自らを閉じるのか>、それとも<自らを閉じるために自らを開くのか>をその人生の中で、たとえ意識しない形であっても、最終的に 決定しなくてはならないのではないかと感じています。

 前回では「国家」をめぐって独断論としての独在論について語りましたが、別に国家に関わらなくても、この様な独在論の感覚は至る所で見いだせます。実際 に社会人として生活してみると、その職場職場に「常識」と呼ばれるものがあり、人々は独断的にそれに従って他者を評価しています。それは、その場における 「同意 (agreement)」によるものですが、それが必ずしも理にかなったものとは限りません。このことは、今日話題になる公務員の問題や企業犯罪に見て取 れるでしょう。組織ではいろんな人たちが働いていますから、やむを得ないものとしてそれを認めている人の方が多いのですが、その一方で、集団の殻、つまり は「我々の独在論」の世界に閉じこもり、その「常識」からはずれた人、その「常識」についていけない人(多くの場合、仕事が出来ない人)を蔑む人たちがい ました。私は公務員としては職場に恵まれた方で、多くの方に恩義を感じていましたが、自らの哲学者としての感性のために、このような人たちに敏感にならざ るを得ないこともあったのです。

 当時私にとって問題となったのは「常識」と呼ばれる暗黙の「同意」がどの程度の有効性を持つかと云うことでした。社会人として仕事をする以上、建前通り に仕事が進むはずはないのですが、集団の殻の中で無批判に「常識」に従い、その中で残業をしながらより多くの仕事をすればそれで済むのか、また、その「常 識」についていけない人を、タダそれだけの理由で蔑むことが許されるのか、ということが問題になったわけです。これは現実問題として働いている公務員とし ての私の身体の異常として現れたのですが、「常識」が自然の理に反した時、そのような事態に無関心であって良いのかが問われていたわけです。 このことは 突き詰めれば“人間は万物の尺度であるのか”ということになります。

 このような「人間を万物の尺度とする」人たちに共通に見られたのは、「我々」の世界の中に意識が完結して、人間を超える世界を意識していなかったという ことです。その一方で、「努力」が彼らの拠り所であり、努力信仰とでもいうべきものが彼らの場を支配していました。いわゆる、“やればできる”の世界です が、努力信仰に陥っている人たちは、弱い人たちを努力不足を口実にして簡単に蔑む傾向があります。また、このような人たち自身、何らかの壁にぶつかった 時、自分自身を蔑み、自暴自棄になる傾向もあるようです。いずれにしても、このような雰囲気は日本の中では普通に見受けられるのではないでしょうか。あい さつの場面などでも、他の人へのお礼の気持ちを表す言葉はよく聞かれますが、神様や人間以外の自然に対する感謝の気持ちを示す言葉はあまり聞かれません。 このことは、「Oh! My God!!」とか「イッシャーアッラー(神にお任せ)」という言葉が日常の中で聞かれるキリスト教やイスラーム教の文化圏とは異なったところです。文化 的・歴史的背景があるのでしょうが、今の日本には自分を生かしてくれる人間を超えた力に対する無関心があると言わざるを得ません。

 本来、日本人にも自然に感謝するという形で自らを超えたものに対する信仰は息づいていました。けれども、近代化とそれのもたらす繁栄の中でそれも忘れら れた感があります。その一方で、日本人はキリスト教などの説く人格神には、なかなか馴染めないのは確かです。人格を持って現れる一神教の神は、絶対者を絶 対的な他者として明確に示すのですが、日本人にとって常に外部にある支配者としてのイメージを与えるために、自らと神とのつながりがなかなか見いだされな いのです。

 宗教は本来、人間を超えつつも人間をそのうちで生かし続ける何かとのコミュニケーションのあり方だと思っています。人間には他者とのコミュニケーション の欲求があり、それが<自らを開く方向性>を生みだしているのですが、その欲求が求める究極の他者とは、絶対他者でありつつも、絶対的な包摂 者であるこのような存在だと思います。ところが、人間はその他者を見いだすことなく、自らの空想の世界や常識的な社会の現実に偽りの他者を造りだし、その 中に安住しようとします。心理学者であるマズローは人間の欲求を5段階に分け、宗教的な欲求をその頂点に掲げましたが、独在論の誘惑は、偽りの環境を捏造 することによって、個人としての生存のレベル、社会的な認知のレベルに人々の欲求を抑え込もうとします。それは人間の欲求の成長から見て無理があるのであ り、その故に他者や自己への「蔑み」が生まれるのですが、このことに対してどれだけの人が自覚的に問題意識を持っているでしょうか。

 仏教では、もともと人間は仏になるための「善根」を持っていると言いわれています。それはキリスト教やイスラーム教でも説かれる人間の内面に潜む神の力 といって良いのではないかと私は考えています。私はその「善根」こそ、人間の持つ他者へのコミュニケーションへの欲求そのものであり、人間を人間たらし め、今在る私を「私」たらしめている力ではないかと考えています。私たちは単に外から“生かされる”という形で神につながっているのではなく、自ら“生き ている”という現実においても神につながっているのです。ところが、独在論に目を眩まされた人たちは、そのことに気づかず、自己と他者とを切り離して考 え、“自分にとって”の世界だけに安住しようとします。仏教的にいうならば、自我があるという誤った考えに陥り、独断的な形で他者があるという思いこみの うちに、それに執着して生きているのです。

 lain というアニメでは、「人はみなつながっているんだ」というセリフが出てきましたが、実は人に限らず、すべてがつながって生きているのであり、それ故に lain 自身、最後に自己を偏在するものとして生きる道を選ぶことが出来たのでしょう。人は常に神と共にあります。本当は実体として神と人間とが別々にあるのでは なく、神と人とは常につながっているのであり、人は本来、神の現れの一つであるはずではないかとさえ考えています。ただ、このことは感覚的にわかりにくい ところがありますし、人が「神の現れの一つ」であるにしても、人間が有限であり、常に「死すべきもの(mortal)」として生きていることには変わりあ りません。

 そのように思いながら、人間は本来、泉のようなものではないかと私は最近考えるようになりました。泉からはきれいな水がわき出ますが、その水はもともと 天地をめぐって泉の口からわき出ているものです。一方、泉からわき出た水は周囲を潤しながら、あらゆるものの命を育んでいきます。普通、人間と呼ばれてい るのは、この泉の口の部分にすぎず、人間が人間について語る時、その口が大きいとか多くの水が流れているとかに気を取られ、かえって自らわき出る水を小さ な範囲に押し込めて、澱ませているのではないか、そのようにも思えます。泉が泉であるのは、天地が天地であることによるのであり、自らの力によるのではあ りません。独在論とは、その泉の流れを内の方向にも外の方向にも閉ざしてしまい、結局は周囲を汚しつつ、自らも枯らしてしまう病ではないでしょうか。

 人は常に“生かし合い”ながら流れている水の中に生きています。しかし、今の世の中、きれいなまま流れるように生きていくのは容易なことではありませ ん。今回は「独在論の誘惑」という形でその困難さを明らかにしましたが、その一方で、社会そのもののあり方、人間自身の生き方をより具体的に変えていく方 策も考えて行かなくてはならないでしょう。幸い、私は地域通貨の活動や貨幣論の研究などによって、その糸口をつかみかけています。独在論の誘惑による弊害 は病としてなくならないとしても、それによって死に至らないための工夫は可能ではないかと考えています。
 
 

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