医療と哲学 1

実体としての身体、気としての身体
 

 「気」の概念は東洋医学のみならずその哲学の中心的概念であり、実際に鍼灸 医療にたづさわっている人々にとっては、長野先生の書いているようにはっきり とその「実在を感得する」ことができるものでしょう。私のような素人でさえ も、特定のつぼを押したとき自身の気血の流れの変化を通じてそれを感じること があります。けれども、さて「気とは何か?」と問われるならば、なかなか答え にくいのではないかと思います。「気」とはもともと「沸き上がる蒸気」をイメ ージして出来上がってきた概念であり、微細なもの、ガス状のもの、もしくは生 命のエネルギーそのものというように一般には考えられているようです。しかし ながら、これではいまだ言葉としてはやや抽象的ではっきりとしないという感じ をぬぐえません。これに対して、具体的に「肝臓が悪い」とか「病原菌が侵入し ている」という表現はより具体的ではっきりしています。私たちは実際に肝臓を 見ることができますし、病気を引き起こす細菌やウィルスなども顕微鏡を通じて 見ることができるからです。「気」というものも気血の流れを通じて確かに感じ 取ることはできるのですが、それ自体を目で見たり、手に取ってみたり、数量的 にその大きさや速さを直接的に計ることはなかなかできないでしょう。恐らくこ の点がかつて東洋医学が近代医学に比べて評価されなかった理由であり、また今 日においてもその成果がなかなか科学的に解明されない原因ではないでしょう か?

 実はこのことが哲学のレベルでも重要な問題になってくるのです。というの も、その背景にはこれらの医学のものの見方の根本的違いがあるからなのです。 最初に私は「病因論」の問題に触れましたが、普通私たちは常識的には病気の原 因を何らかのモノのせいにしようとします。例えば、肝臓が悪くなったら酒のせ いではないかと言いますし、食中毒になった場合はサルモネラ菌が原因だったと 言ったりします。この場合、その原因を私たち は手に取り、目で見ることがで きますから、それに対する処置も理解がしやすいわけで す。これに対して、東 洋医学が得意とする慢性病の原因はあまりはっきりとしたものではありません。 多くの場合、日頃の不節制による身体全体のバランスの崩れによるものと考えま すが、それを数量化することは極めて困難ですし、たとえそれができたとして も、同じ条件ですべての人が発病するとは限りません。ここに東洋医学もしくは その哲学を語る時のまず最初の問題があります。

 そこで、まず東洋医学のものの見方を考える前に、常識的で西洋医学の前提と なっている私たちの一般的なものの見方を明らかにしてみましょう。

 病気の原因であれ何であれ対象をモノとしてみる見方はそれを実体として捉え る見方と言うことができます。「実体」にはいろいろな定義があるのですが、こ こでは古代ギリシアの哲学者アリストテレスにならって私たちが語る文章の「主 語となるもの」と考えてみたいと思います。この「主語となるもの」の多くは 「肝臓」にせよ「細菌」にせよ特定のまとまりを持った目で見、手に取ることが できるものですが、“エネルギーが不足している”という表現に見られるよう に、特定することさえできれば、まとまりのない形のないものでも「主語」にな ることができます。ちょっと専門的になりますが、ここでの「主語」は「AはB である」すなわち〈S is P(主語 is 述語)〉という文章の形で語られている わけであり、より詳しく言うならば「主語である○○は××という性質(述語) を持つ」という形で語られているわけです。ですから“胃は食べ物を消化する働 きをもつ”とか“大腸菌O157はベロ毒素を持っている”という言い方はこの 形の文章になり、「胃」や「大腸菌O157」は主語として特定されたものとい うことになります。

 私がここで言葉の形式にこだわっているのは、実は私たちのものの見方がこの 形式に深く依存し、大きく影響されているからです。もしこの形式に従って 「胃」や「肝臓」や「細菌」について語るとすれば、私たちはそれらを他のもの とはとりあえず独立したものとして見ていることを意味します。というのも、こ こでは各臓器間の関係については触れられていないからであり、もしそのような ことについて語ろうとするならば、“胃の不調が肝臓の不調を引き起こした”と いうように、具体的にある臓器と他の臓器との関わりについて新たに語り直さな ければならないからです。

 もうお気付きの方もいるでしょうが、このように対象を実体として捉えること は部分と部分とをつなぎあわせることによって全体を表現することを意味しま す。というのも、こ こでまず語られるのは「胃」や「肝臓」のように独立した 部分であるからであり、全体 としての身体はそれらの部分が語られることを通 じてはじめて何であるかが語られることになるからです。しかし、一般に東洋医 学はこのような形で身体を捉えることはありません。東洋医学では身体は気の集 散として捉えられます。「気」というものは、先ほど述べたように、微細な粒子 であるとしても、エネルギーの一種として自ら動き他者に働きかけるものであ り、実体のように単に他者から独立してあるものではありません。それ故に 「気」によって身体を語ることはそれを構成するさまざまな部分の働きの相互連 関の流れとして語ることであり、更には、身体全体をそれを含めた自然そのもの の流れの中で位置付けることを意味します。

 長野先生の本の中ではこのことは「レオモード(流動的様式)」として述べら れていますが、他にも石田秀実氏の「流れる身体」という表現に見られるよう に、東洋医学、特にその思想にたづさわる人々には一般的な認識になっているよ うです。私はこのような「気」の働きかけによる身体の見方を「機能体 (function) 」として身体を語るものと考えま す。この「function」とは普通 数学で「関数」と訳されているものですが、そもそも「 機能」とか「働き」と か「役割」を意味する言葉であり、数学上の関数の概念は例えば「f(x)=2x」のよ うに「任意の数xを2倍にする働き」として見ることができます。このことは自 動切符販売機を例にとってみれば分かりやすいかもしれません。今、私は大分県 の竹田に住んでいますが、JRで大分に行くには1250円かかります。そこで 私はいつも大分に行くときは自動切符販売機に1250円を入れて下から出てく る切符をもって列車に乗るわけです。この関係をさっきの「f(x)」の形に当てはめ ると〈自動切符販売機(1250円)=大分までの切符〉と表現され、この販売 機が「機能体(function) 」ということになり、図で示せば下のような形になり ます。

1250円 → (自動販売機) → 大分までの切符

 私はこの機能体の概念を哲学的にさらに押し広げてこれを〈f(s)=m〉と いう形 で定式化します。ここでの「f」は今の「機能体」のことですが、 「s」は「記号(sign)」、「m」は「意味(meaning)」 と言うことです。ですか ら、〈f(s)=m〉とは機能体 「f」は外界のさまざまな事柄をそれにとっ て意味ある「記号(s)」として受け取 り、自らの働きによって他者にとって 新たに記号となる「意味(m)」を創り出すことを式として表現したものという ことになります。*1

 このように定式化すると分かりにくいかもしれませんが、実際に私たちの身体 が神経パルスやホルモンなどの指令を受けながら、食物を消化し、呼吸を通して それを燃焼させ、血液を通して全身にエネルギーを供給していることを考えれ ば、理解していただけると思います。考えるに「気」の集散とかその流れとして 表現される身体は、次の図のように〈f(s)=m〉の連鎖もしくは広がりとし て捉えられるべきものであり、この流れとしての連鎖の乱れが病気を引き起こす と見ることもできるでしょう。

          ↑        ↑        ↑     
・・・・・ → m・s → [f] → m・s → [f] → m・s → [f] → m・s ・・→  
          ↓        ↓        ↓       


 このような機能体としての身体の側面をよく示しているのが「三焦」という東 洋医学の概念です。「三焦」の部位については従来さまざまな説があるようです が、これを実体と考える限り結論は出ないでしょう。すでにこのことについては 石田秀実氏が「三焦の機能場」として図示(「中国医学思想史」169p) している ように、生命活動の根幹をなす一連のプロセスなのであり、「三焦」という臓器 があるのではなく、機能があるのです。このことに関して私が『軌跡』の中で注 目するのは、長野先生が「胃の気」を外呼吸及び内呼吸の機能として重視してい ることです。人間の身体を一つの機能体として見るならば、食物を取り入れそこ からエネルーを取り出し排泄する機能体であり、それは広い意味での呼吸のプロ セスと見ることができるからです。

       ↑        
     ┏━━┓       
     ┃上焦┃  (肺) (食道) 
     ┗━━┛   ↑    │
       ↓     │   │
     -------------------┼------┼------
       ↑     |      │
     ┏━━┓   |     ↓
     ┃中焦┃  (脾)←(胃)
     ┗━━┛       │
       ↓         │
     ---------------------------┼------
             ↑                 ↓
             │     (膀胱)←(小腸)
     ┏━━┓       │
     ┃下焦┃       ↓
     ┗━━┛      (大腸)
                │
             │                 │
             │                 │
       ↓         ↓
               (魄門)


 ところで、このような機能体の働きは言葉の上では動詞によって表現される 〈SーVーO(主語ー動詞ー目的語)〉の形の文章で表現されると私は考えま す。というのも、この文章では動詞を媒介にして「主語」と「目的語」とが互い に異なるものとして結びつけられることになるからであり、このつながりは気の 流れとして限りなく広がっていくからです。人間の思考は先に述べた〈S is P〉とこの〈SーVーO〉との2つの形の文章を前提にして成り立っています。 このことは普通意識されませんが、どちらを思考の基本に置くかでものの見方が 異なってくることは注目されねばならないと言えるでしょう。*2
 

*1 〈f(s)=m〉の図式は「世界(宇宙)は意味に満たされている」とす る宗教的世界観の哲学的表現です。これは空海の「五大にみな響あり 十界に言語を具す  六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり (『声字実相義』)」の言葉 などにも見られますが、身近な所ではユーミンの『やさしさに包まれたなら』の 曲の中の「目に映るすべてのものはメッセージ」の歌詩にも見て取れます。

*2 『軌跡』の参考文献にも掲げられている「断片と全体」の中で著者のデビ ット・ボーム氏は〈SーVーO〉の文型を世界を断片的・固定的に捉える原因で あるとした上で「レオモード」の考えを展開しています。しかしながら、世界を このように捉えるもとにな っているのは〈S is P〉の文型による思考である というのが私の見方で す。確かに〈SーVーO〉の文型にも事象を断片的・固 定的に捉えてしまう傾向はありますが、これはすでにベルクソンなどによって指 摘されているように言葉の持つ必然的性格によるものであり、思想が言葉による 以上、ある程度は避けられない傾向だと思います。
 
 

[←戻る] [次へ→]

[自然界のこと]