医療と哲学 2


  医療の十分条件
 

 ところで、医療のもともとの目的とは何でしょうか? これも極めて基本的で 難しい問題ですが、少なくとも人間の本来あるべき健康な状態を取り戻すことに は異論がないでしょう。確かに健康な状態とは上を見ればきりがないのですが、 その人なりに無理のない自然な身体の状態が維持されていることと考えればさし あたり問題ないと思います。そのためには病気でないことが必要条件となります が、それだけでは十分とは言えません。東洋医学では御存知のように「未病」と いう概念があって、表面的には健康であっても、潜在的な疾患の可能性がある場 合にはこれを予め直しておこうという考えがあります。他方、東洋医学ではたと え熱や下痢のような症状があったとしても、それが人間の持つ自然治癒能力の現 れである場合には、特に身体に過度の負担がかからない限り、その症状を押えよ うとはしません。それは薬などで症状が一時的に押えられても、病根が絶たれな い限り、かえって人を健康な状態から遠ざけることがあるからです。

 このことから分かることは、東洋医学では身体全体について望ましい健康な状 態がどのような状態であるかがかなりはっきりと捉えられているということで す。これに対して、西洋医学ではこの状態が案外曖昧であるように思われます。 よく普通のお医者さんにかかっていろいろ薬をもらうのだが、次々にあちこちが 悪くなって、結局薬漬けになって身体全体を損なってしまったという話をよく聞 きます。恐らくこれはこの医学が健康になるための必要条件である病気もしくは 症状の除去には詳しくても、本来医療が目的とする健康な状態が一体何であるか についてより積極的な知識を持っていないからではないでしょうか? 身体を臓 器などの複数の実体の組み合わせと見る限り、健康はその各実体に異常がないと いう形でしか語られません。しかし、それだけでは健康という医療の目的にいか にたどり着くかについて語ったことにはならないのです。

 このことは人に道を教える時のことを考えると分かりやすいかも知れません。 道を教えるには2つの方法があります。一つは“二つ目の角を右に曲がって、そ こから三番目の通りを左に曲がって、・・・”というように、一つ一つ細かく行 程を指定していくやり方で す。もう一つは“向こうに見える鉄塔を目印にして 行って、そこから見える青いビルの 方へ進んで、・・・”というように、その 都度目的物を示していくやり方です。普通はこの両方のやり方を組み合わせて人 に道を教えるのですが、一般に西洋医学は主に前者のやり方によるものであり、 一方東洋医学は後者のやり方に重点を置いているように思われます。というの も、西洋医学は身体を実体の集まりと診る以上、個々の実体を健康という目標の ために一つ一つそのあり様を指定して行かなくてはならないのですが、東洋医学 の場合、目標となる健康のための十分条件がすでに身体そのものののあり方とし て示されているからです。前者のやり方は後者に比べて、より直接的に問題の解 決を示すことができる点で優れています。それは目的物を示すやり方は具体的に そこに至るまでの行程を示していないので、時としてそこに至るまで遠回りをす ることがあるからです。しかし、その一方、前者のやり方は一度間違ってしまう と取り返しが付かなくなるという欠点を持っています。というのも、このやり方 では、もし二つ目の角を間違えて、三つ目の角を曲がったらもう道に外れて迷っ てしまうことになるからです。ですから、前者のやり方は行き先が近い場合には 効果的ですが、それが遠くなった場合には非常に面倒な教え方になってしまいま す。*1

 私はこの前者の道の教え方の利点と欠点とが西洋医学を特徴づけていると考え ます。例えば、感染症などのように病原体がはっきりしている場合にはこの医学 は確実にその威力を発揮するのですが、他方、慢性病のように複合的な要因によ って生じた病気に対してはそうでもないからです。実体的なものの見方は複雑な システムを考察するには適さないと思います。というのも、今の例にあるよう に、それは一つでも違うと全体が見えなくなる欠点を持っているからです。この ことが一番よく分かるのは医療よりもむしろコンピュータープログラム作成の現 場ではないかと思います。そこではたった一つのバグ(間違い) が全体をダメ にする危険性をはらんでいます。恐らくそれを考慮していろいろな安全策 が取 られているとは思いますが、この危険から逃れることはできないようです。その ために、プログラマーの中には神経症になる人が多いのは確かでしょう。また、 このタイプのシステムは一度その前提を設定してしまうとその変更が非常に難し くなる欠点も持っています。例えば、もうすぐ西暦二〇〇〇年を迎えますが、「' 99」から「'00」に移行する時、コンピューターが「'00」を「2000」で はなく「1900」と読んでしまうことがあるそうです。この間違いを防ぐには システム全体の改変をしなくてはならないので思いのほか大変な作業であると聞 いています。いずれにしても、実体をつなぎあわせて全体を観るやり方は、身体 や社会などの多くの要素が絡んだ有機的なシステムには、その「複雑さの壁」に 阻まれてその効果を発揮できないと言うことができるでしょう。

 これに対して、目標を設定するやり方は、たとえそれにさまざまな阻害要因が あったとしても、最終的にはその目標に行きつける可能性が高いという点で複雑 なシステムを観るやり方として優れています。道を教えられた側がその目標に行 き着く意志がある以上、いずれはそこに行き着くであろうからです。医療のこと を考えれば、この意志こそ身体の自己回復能力(自然治癒力)だと思います。

 ところで、具体的に東洋医学はいかにして医療の目的を設定できるのでしょう か? これは身体を気の流れ、その現れと見る立場から必然的に導き出されると 思います。それは気があるべき姿できちんと流れていることが健康だということ です。身体は気が流れるべくして流れているものだと考えれば、気がどこかでう まく流れていないことを見出しそれを解決するのが医療の目的ということになり ます。確かに気は単に流れていればよいというわけではありませんから、まず気 の現れである身体のバランスに注目する必要があります。陰陽の一方の気が流れ すぎている場合もあるでしょう。そのような場合は片方の気の流れを押えて、他 方の気の流れを増す必要もあるでしょう。この意味で、「長野式処置法」におい て「気流促進法」が第一に掲げられているのは、気の哲学を踏まえる立場からす れば、当然のことと言えます。この処置法に続いて掲げられている「水分代謝処 置法」や「血流促進処置法」も広い意味で〈f(s)=m〉の連鎖としての気の 流れと見ることもできますから、同じ意味合いをもつものと思います。また、気 の順調な流れと、それによって維持される陰陽の身体バランスとは表裏一体のも のですから、身体バランスの維持にかかわる「自律神経型・内分泌系調整処置 法」も気の流れをその現れから整えるやり方だと言えるでしょう。

 一般に東洋医学は陰陽五行説によっているといわれますが、単に陰陽もしくは 五行のバランスのみに着目する立場からはこのような考えは出てこないでしょ う。というのも、先に述べた「三焦」の論争に見られるように、当の中国人でさ えも「気」を「働き」と観ることに徹することができず、「陰陽」や「五行」の それぞれを独立して存在しうる実体的要素と観る傾向があるからです。この場 合、各要素のバランスを論じることはできても、何故そのバランスが問題になる のかを問うことはできません。『軌跡』の序で松本岐子氏が指摘する“キミィ、 これは肝虚だョ”以上進まない古典派の人々はこのような人々ではないかと思い ます。
 

*1 この2つの方法の違いはアリストテレスの言葉を用いれば「始動因」と 「目的因」 との違いということになります。彼は物事が成り立つための4つの原因を掲げま したが、運動の原因としてこの2つを掲げました。「始動因」がビリヤードの玉 のように他者によって動かされる受動的な運動の原理であるならば、「目的因」 は一定の目的に従って家を建てる大工のように能動的な運動の原理であると言え ます。
 

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