環境ホルモン汚染と「疎外」の論理


第3回


  「疎外」の概念
 

 前回まで環境ホルモンの問題を通じて、自然環境について論じてきました。し かし、生態系として問題になるのは別に自然環境とは限りません。我々の社会も 広い意味ではこの中に入ります。環境ホルモンの問題では主体の意味連関の「記 号から主体」の部分が問題とされました。つまり、偽りの記号の受容によって主 体の働きに狂いが生じるということが問われたわけです。しかし、その一方では 「主体から意味(=他者への記号)」の狂いも有り得ます。  この狂いを取り上げたのが「疎外」の概念です。これについては著者の意図を 越えてその著作が、いわば「一人歩き」する例を見れば理解されると思います。 例えば、「歎異抄」は本来、親鸞の教えを維持し真宗教団を一つにまとめるため に書かれたものでした。しかし、後の時代に著者の意図を離れて一揆を認めるも のと解されたために連如によって明治時代まで封印されたのです。これはコミュ ニケーションにおいて「主体から意味」への連鎖が狂ったケースといえるでしょ う。  この「疎外」概念を経済学に応用したのがマルクスです。彼は「労働」とはそ れによって自分に必要な生産物、つまり効用を得るためのものだと考えました。 昔の社会ではこの労働と生産物(効用)とが直接結びついていたのですが、近代 社会ではほとんどの人々が労働者として企業のような社会的組織に属し、いわば サラリーマンとして生活し、そこから得る賃金によって必要なものを買います。 ここでは労働と効用とのフィードバックループの間に企業が介在しているわけ で、いわば労働がその効用(生産物)から疎外されているのです。 [個人]=(労働)⇒[企業のような社会的組織]=(効用)⇒[個人]  後のマルクス主義者たちはこの中に個人と企業との間の力の不均衡を見いだ し、階級闘争と革命によるその解決を唱えました。しかし、現実にはその不均衡 は近代社会(資本主義社会)の中で調節され、彼らの期待ははずれました。しか し、「疎外」の現実は今日でも変わっていません。そこに問題があるのです。   

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