必殺、読書人!!

 

121:日本の哲学
 






「西田哲学と左派の人たち」 服部健二
 

 哲学の現場というべきものが見えてくる本です。今では西田幾多郎以外はあまり話題になりませんが、思想というものが一人で紡ぎ出されるものではなく、多くの人々の対話から、そしてその人たちの生きていた時代から生まれて来るものだということが良く分かる本です。

 日本近代の思想の流れには戦争という大きな節目があります。それは単に多くの人々を死に追いやっただけではなく、思想の流れにも大きな影響、そして最終的には拭い切れない傷跡を残しました。すでに「文化と文明とについて(1)」でも触れたように、戦前と戦後の間には思想的な断絶があり、戦前の思想的営みの多くは戦後になって断ち切られた感があります。それは戦前の哲学者の多くが戦争をはさんで亡くなったことが直接の原因ですが、残された者の多くが時代の荒波の中でマルクス主義を中心とした左派の思想に翻弄されたこと、その一方で、学問の実証性を口実に哲学を文献学に墜したことがその原因ともいえるでしょう。しかし、思想というものは試練の中にも何らかの痕跡を残すものです。この本で取り上げられているのは、西田幾多郎をはじめとして田辺元、三木清、そして立命の教授として戦後も活躍された梯(かけはし)明秀と舩山信一です。前の3人は戦前の世代に属する人々ですが、後の2人は戦後活躍されたという点で現代との直接的なつながりを持っています。

 彼らが活躍した時代を敢えて「昭和」という視点で捉えるならば、思想を規定してきたのは右翼的国家主義とマルクス主義を中心とした社会主義ということになるでしょう。戦前と戦後とではこの2つの政治的な関係は逆転するのですが、この両極の立場はそれぞれの思想家に対して試練を与えつづけてきました。もし自ら哲学することを欲しないならば、このどちらかの立場をとることで人は安住することが出来るでしょう。しかし、真に自ら思想を紡ごうとする者にはそれは出来ないことであり、それ故により厳しい現実に直面することになります。三木清が1945年に獄死したことはその典型的な例ですが、梯も舩山も戦前に獄中体験をしています。

 そもそも「昭和」の思想は思想そのものをいかにして実践の中に見出すかという課題を背負っていました。西田の「行為的直感」をはじめとして思想が机上の空論ではなくして、いかに現実味のあるものかを思想自身が探究しつづけていたわけです。それは西田や田辺の時代には技術論などのアカデミックな段階にあったのですが、三木の時代においてはかなり実際的なものとなりました。彼はアカデミズムとジャーナリズムとの統一を志したのですが、近衛文麿の昭和研究会に参加することによって現実の政治との接点を持つようになります。当時は言論統制が厳しい時代だったのですが、それだけ思想が現実に影響を及ぼしていた時代であり、思想も現実に合わせて表現されなくてはならない時代だったと言えます。これは思想の純粋な発現を妨げたかもしれませんが、より以上に思想にリアリティを与えてきたように思います。舩山は当時「協同体論」を展開していましたが、これなども今日、見なおす価値があるといえるでしょう。

 これらの思想家の中で戦後生き残ったのは梯明秀と舩山信一ですが、私は立命館の出身でありながら梯先生の名前を知りませんでした。舩山先生にしても、私が在学当時すでに退官されており、一面識もありません。その頃の私は、立命の先生方がフォイエルバッハなどの独自の研究をされていることを知ってはいたのですが、カントなどの哲学の基本文献の勉強に忙しく、そちらにあまり関心ががなかったというのが正直のところです。しかし、当時すでにお二人は戦後の思想的な流れを踏まえて対照的な立場で哲学研究をされていた気がします。舩山先生については、すでに「日本哲学者の弁証法」で触れたので、ここでは梯先生のことについて少し触れておきましょう。

 舩山先生がフォイエルバッハの研究を通じて現実の人間的唯物論の立場から社会の問題を考えていたのに対して、梯先生の場合は逆に自然哲学の研究から社会を見ていたのではないかと思います。そこに登場するのは歴史というマクロの視点です。普通、自然科学では歴史という変化する視点はあまり問題とされませんが、哲学が実践という主体的行為を基礎とする以上、自然も自らを形造る歴史的なものと見られるのはある意味で当然のことかもしれません。このような思想は多様な自然を人間の思考の枠に閉じ込めようとする否定的な面もありますが、逆に人間やその社会をより広い立場で現実的に考察するために必須のものといえるでしょう。私は一般に「自然」といわれているものを「第一の自然」、それが生み出した人間を「第二の自然」、そしてその人間が造り出した「社会」を「第三の自然」と呼んでいますが、今日話題となっている環境問題などはこの3つの自然の関係がバラバラになったために生じたものと言えます。つまり、自然を自然として捉えなおし、人間や社会との間に共通の基盤を見出すことは緊急の課題と言えるわけです。その意味で、梯先生の物質概念の検討は極めて興味深いところです。

 最後になりましたが、この本はその「はじめに」にも書かれているように「けっして論文集では」ありません。一言でいえば、生きた思想の叙述ということになるのですが、それは単に過去の思想家の伝記を綴ったからではありません。この本を書かれた服部先生は梯先生、舩山先生のもとで学問をされたのですが、両先生に対する思想的対話がこの本の中で続けられています。例えば、梯先生についてはブロッホの「未存在の存在」の思想が提示されていますし(216P)、舩山先生についてはフォイエルバッハの「窮迫(Not)」についてのやり取りが明かされています(218P)。実に、この本のなかでは著者自身を通じて思想の流れが生きつづけているのであり、それ故に哲学の現場がそこにあるのです。私は服部先生からドイツ語しか学んでいないのですが、この本を通じて、ようやく私自身もその営みの末端に位置することが出来たのではないかと思う次第です。
 
 

「日本哲学者の弁証法」 舩山信一    こぶし文庫
 

 立命館大学哲学科におられた故舩山信一先生の書かれた本です。この本では戦前の日本の哲学者たちがいかにして「弁証法」と取り組み、自らの哲学を構築したかが語られています。西田幾多郎は別として他の哲学者たちの本は店頭に並ぶことも少なくなったので、哲学科の学生でも今の若い人にはかなり馴染みがないかも知れません。私も最初読み始めたときには、正直言って、取っつきにくいという印象を受けました。それでも何とか読めたのは彼らと私の間にドイツ理想主義哲学の共通の地盤があったからだと言えるでしょう。解説の一番最後に三木清の部分から読み始めると分かりやすいと書かれていましたが、私もそうだと感じました。

 今でこそ西洋哲学の学会もかなり文献学的になっていますが、当時は相当に創造的な雰囲気があったことがこの本から窺えます。それはある意味でカントからヘーゲル、更にはフォイエルバッハやマルクスへ至る哲学史を独自にトレースし直したところもあるのですが、西洋の哲学者たちがキリスト教の文化的背景に持つのに対し、日本の哲学者たちの場合、仏教や中国の思想を背景に持つ点でかなり独自の発展が見られるようにも思います。殊に、「弁証法」について言えば、戦前の日本において哲学の中心課題の一つとして研究されたことは注目に値するでしょう。

 しかし、日本でもこの「弁証法」は東西冷戦の終結とともにあまり口にされなくなりました。これは明らかにマルクス主義の退潮によるものですが、より以上に戦後「弁証法」とは何かという基本的なことが戦前のように問われなかったからだとも言えるでしょう。事実、三浦梅園の研究においては「弁証法」という言葉がいまだに混乱をもたらしています。敢えて、弁証法の特徴をここで述べさせていただくならば、私は「如何にあるか」という視点で対象を考察するのが弁証法だと考えています。あるものを「如何にあるか」と問う以上、その対象はその対象以外の他のものとの関連でそのあるものを問わざるを得ません。ですから、弁証法的に考察するとはその対象を含む全体について考察することであり、更にはその対象と関わる我々自身をも考察することを要求します。それに対して、形式論理によって対象を分析し明らかにするのは「何であるか」と問うことだと思います。このような分析的思考は対象を独立した実体と見なし、その最低限の特徴ともいえる属性との関係で物事を明らかにしますが、属性もそれを知覚する我々との関係で成り立つ以上、最終的にはカントの物自体のように認識不能のものを仮定することもあります。これは「弁証法」のもっとも広義な特徴ですので、その中には運動性の乏しい有機体説なども含まれてしまいますが、舩山先生も「理由を持たぬ単に本質的なものは弁証法とはいえぬ(163P)」とおっしゃているように、弁証法の最低限の条件を示すものとしては間違っていないと思います。

※この区分は「医療と哲学(3)」における〈重ね合わせの論理〉と〈つなぎ合わせの論理〉との違いにも対応します。

 さて、舩山先生はこのような弁証法を通して西田幾多郎、田辺元、高橋里美、三木清などの哲学者たちを論じるのですが、ここで機軸になっているのは存在と認識、主体と客体とを結ぶ「実践」だと言えるでしょう。西田幾多郎においてそれは「行為的直観」であり、田辺元にあっては絶対媒介の弁証法における宗教的実存主義や社会的実践ということになります。それに対して、高橋里美の「包弁証法」は過程の超越によって弁証法を理念の中に封じ込めている点で、弁証法の趣旨からはずれているともいえるでしょう。少なくとも、この本を読む限りはそう思われます。

 この意味で、最も重要な意味を持ってくるのが三木清です。彼は西田の「行為的直観」による実践の概念を主体の技術性と社会性にまで展開し、主体と客体とが相互に超越する(織りなす)ものとして世界を捉えます。ここでキーになってくるのが「形」の概念です。三木の弁証法は「形の弁証法」といわれますが、ここでの「形」とは変化するものであり、また決して客観的なものにとどまらず、主観的なものです。舩山先生の記述で注目すべきは、この「形」が現実に変化することによって、単にその実践が主観的な意識にとどまらず、まさに何らかの「形」で残るところです。これが、西田や田辺の弁証法と異なるところであり、舩山先生が最も評価される点のようです。

 この本の中では三木清に関する記述に最も多くのスペースが割かれています。その後にも「唯物弁証法」の項目が続くのですが、これも多くは三木についての記述が占めており、ある意味でその後日談の感すらあります。舩山先生は三木清とは個人的にもかなり深い親交があったようですが、唯物論者として彼に敬意を払っているからだともいえるでしょう。三木清自身は唯物論者でもマルクス主義者でもなかったのですが、観念論の影響下にあったアカデミズムに対しても、社会運動家を中心に広まりつつあったマルクス主義にも深い洞察を持ち、真に哲学者として両者を吟味できた点においては彼の右に出る者はいなかったようです。事実、舩山先生自身若い頃はバリバリのマルクス主義者として三木を批判していたのですが、後に態度をあらためています。また、三木清も舩山先生もともにアカデミックな学者よりも一般向けの評論を多く書いており、哲学の現場を社会的な活動の場に求めていたこともその理由として掲げられるでしょう。

 このように、舩山先生は三木清とかなり近い立場にいるのですが、必ずしもその説を全面的に受け入れているわけではありません。

 ただ形の論理、構想力の論理は直観的契機が勝っており、したがって真に実践的であり得るか。実践にはやはり媒介、過程、対立を欠くことができない。形の論理は結局弁証法を越えるのではないか。私は三木氏自身も最後にこのような考えであったと思われる。三木氏は唯物史観研究時代に弁証法を有機体説に対立させられたが、形の論理は結局有機体説に帰るものではなかろうか。(199P)

むしろ弁証法としてみるならば、媒介・過程・対立の要素が欠けており、舩山先生からすればいまだ実践的な哲学に至っていないようです。

 この三木に対する舩山先生の不満感は哲学的に重要な意味を持つのではないかと私は考えます。確かに三木は「形」を通して我々の実践の結果がの残る場を明らかにしました。行為にせよ技術にせよ、私たちの実践はこの形において「跡」を残します。けれども、そこには「重さ」がないのです。舩山先生が特にこのようにおっしゃっているのではないのですが、哲学史を少しでも学んだものならアリストテレスの「形相」に対する「質料」を連想するはずです。そこでは「形」にはない「重さ」が問われているのです。この「重さ」の有無が観念論の立場を脱して切れない三木清とそれを尊重しつつも人間的唯物論を説く舩山先生との決定的な違いになっているような気がするのです。

 これはコンピューターをやっているとよく分かるのですが、「重さ」のない「形」だけのデジタル世界ではいつでも情報をリセット、つまり“なかったこと”にすることが出来ます。けれども、現実の世界ではそうは行きません。たとえ出来るにしても、いろいろと手間がかかってしまいます。特に、生物の世界では死んだものを生き返らすことは出来ません。実在の世界ではエントロピーの法則が働いているので、時間には一定の方向性があり、特に生物などの複雑なシステムではその変化は不可逆なのです。舩山先生が三木の「形」の弁証法を評価しながらも、それに納得できなかったのはそのあたりに理由があるのかも知れません。

 実は、私がこのことに気づいたのは「lain」というアニメを見たときです。アニメの世界はトコトン人が作った世界なので、かなり実在の世界にはあり得ない状況も描くことが出来ます。それだけに、肉体が存在しない情報系だけの世界(ワイヤード)を構想し、そのことを通じて肉体のリアリティを描き出すこともできます。この物語そのものは今までの出来事を ALL RESET することによって破綻してしまったのですが、にもかかわらず主人公である岩倉玲音(lain)のキャラを通して肉体のリアリティを描き出すことに成功しています。むしろ、ALL RESET して物語を無理に終わらそうとすることによって実在の世界の不可逆性、その存在の「重さ」を見せつけています。単なる「形」はデフォルメされても血は出ません。けれども、人間は引っかかれれば痛みを感じますし、血も出ます。舩山先生が三木の論理に「媒介・過程・対立の要素」、つまり弁証法における否定の要素が欠けているように思われたのも「形」からは痛みを感じ取ることが出来なかったからかも知れません。

 このことは舩山先生がフォイエルバッハの研究をされ、そこから人間的唯物論を導きだそうとされていたことからも見て取れます。この本の解説を書かれている立命館の服部先生(なぜかエヴァンゲリオンの庵野監督に風貌が似てらっしゃるのですが)によると、舩山先生の念頭にあったのは「自我は身体内存在であり、身体の中にあることは世界のなかにあることであり、世界に開かれていることだ(227P)」とするフォイエルバッハの自我論だそうです。私は「lain」を見た後、この身体性の問題に思い至り、「メルロポンティー・コレクション(筑摩文庫)」を買ったのですが、フォイエルバッハのことは忘れていました。確か岩波文庫の「唯物論と唯心論」の中でフォイエルバッハが食事をし、けがをすれば血の流れる人間の身体性を基盤にして哲学を論じるべきだと書いていたと思います。

 舩山先生はその人生からしてもあまりかっこいい人ではありませんでした。少なくとも、一昔前まではやったヒーローのイメージとはほど遠いものがあります。それは一度は社会主義的実践運動を志しながらも、転向してしまったことからも窺えます。転向後、一時は自らを「生ける屍」と自嘲されていたようですが、このような先生の人生は「やっぱり僕は・・・いらない人間なんだ」と感じていたエヴァの碇シンジを思い起こさせます。私は「文化と文明とについて(1)」の中で西田や三木などの戦前の思想家たちの築いた文化の流れが戦争をはさんで断ち切られ、その一方でアニメなどのサブカルチャーが日本の文化を背負っていると指摘しましたが、その文化の歪みは舩山先生の哲学そして人生と無縁でなかったような気がします。私が本来「日本哲学者の弁証法」を読むつもりでいた時間に「lain」を見てしまったのも何かの因縁かも知れません。
 

補遺:舩山先生の著作についてはこぶし書房から著作集が出ていますのでご紹介しておきます。
  第一巻  認識論としての弁証法
  第二巻  ヘーゲル哲学の体系と方法
  第三巻  ヘーゲル哲学体系の生成と構造
  第四巻  人間学的唯物論
  第五巻  西田・ヘーゲル・マルクス
  第六巻    明治哲学史研究
  第七巻  大正哲学史研究
  第八巻  日本の観念論者
  第九巻  昭和の唯物論哲学
  第十巻  民主主義と漁村
 価格は98年9月刊行当時、各8000円+消費税です。ちなみに、大分の県立図書館には入っていました。
 

P.S. 「lain」については、たいていの人が知らないと思うので、プロモーションのHPをご紹介しておきます。あんまり参考にならないかも知れませんが、暗い雰囲気だけは伝わるかも知れません。
 
 

「三浦梅園と中国哲学思想」 浜松昭二朗  大分梅園研究会

 考えてみればごく当然のことなのですが、哲学は言葉によって成り立っています。このことは別に哲学にだけに見られることではなく、他の科学でも文学でも同じですが、哲学の場合、他とは違った言葉の問題があるように思えます。今回、浜松昭二朗さんの書かれた「三浦梅園と中国哲学思想」を読んであらためてその感を持ちました。

 哲学の場合、その用語はその哲学者独特の意味づけをされています。しかし、それは哲学者個人が勝手に行っているのではなく、その言葉がいかに用いられてきたかという流れの中でなされているのです。今まで梅園哲学の理解が困難だった理由のひとつは、この流れがなかなか見いだせなかった所にあると思います。その意味で今回の「三浦梅園と中国哲学思想」のV部は極めて示唆に富んだものでした。私は今まで梅園哲学は、仏教哲学をベースにしつつも中国哲学の言葉で展開された独自の哲学だと考えていました。つまり、彼の哲学の直観的な全体像は仏教のイメージで捉えることができるのですが、その部分の論理的展開は中国哲学の伝統に則っており、ある程度中国哲学の素養がなくてはその哲学を理解できないと考えていたわけです。今回の浜松氏の訳された論文から、「気」「物」「質」などの梅園哲学でも馴染みの概念が、我々の普通に考えている漢字の意味とさほど離れてはいないこと、しかしその一方で、それらの言葉は範疇として哲学的に磨きをかけられてきたことをあらためて確認しました。哲学者は言葉を決して日常の意味を離れて勝手に用いることはありません。けれども、世の中の一般的なあり方を語るために、個々の具体的な事物やそのイメージを越えた、いわば「範疇のレベル」で言葉を用いなくてはならないのです。実際には、中国哲学も多様であり、言葉の用いられ方もさまざまなのですが、そこに一定の流れがあり、梅園哲学もその流れを踏まえていることを知ればその哲学の理解に大いに助けになると考えます。

 さて、哲学の言葉にはこの流れとは別のもうひとつの側面があります。それは言葉としてはあたり前のことですが、言葉は何かそれ以外の実在を意味し指し示しているということです。このことは哲学だろうと、科学だろうと、はたまた文学だろうと変わりありません。ただ、哲学の場合、抽象的な「範疇のレベル」で言葉を用いるため、往々にしてこのことが忘れられることがあります。梅園自身は「自然を師とせよ」と言った人ですから、そのようなことはないのですが、哲学研究の多くが言葉の流れにとらわれるあまり、単なる文献学に墜することも多いのです。これは哲学する人間が常に自然や社会などの現実に対して問題意識を持っていなくてはならないことを意味します。それ故、哲学という学問はー梅園が用いた織物のたとえを以てするならばー言葉の歴史的流れを縦糸としながら、自分の自然や社会などに対する問題意識によって、自ら思考し言葉の横糸を通していくものだと言えるでしょう。「三浦梅園と中国哲学思想」の中では、T部の「梅園論ノート」の部分が浜松さんの梅園哲学を介して展開された横糸の部分と思います。

 このことについて言えば、浜松さんはマルクス主義の立場から問題意識を持って梅園哲学にアプローチしているようです。ソ連崩壊の後、一部ではマルクス主義を時代後れと見る向きもありますが、私はそのように考えてはいません。少なくとも、その哲学には強い関心を持っています。しかし、イデオロギーとしてのマルクス主義には大きな問題があったと思います。それは、先程のたとえを用いるならば、マルクスやレーニンの哲学による言葉の流れのみを学び、より広く多様な言葉の流れを排除したこと、そして人を師とし自然を師とせずに自らを正当化したことです。私は今日のマルクス主義者はこのことを反省した上で、マルクスの哲学、唯物論の哲学を捉え直すべきだと考えています。

 このことで私が「梅園論ノート」の中で気になったのは、「形式論理」「弁証法」などのマルクス主義哲学の用語がそのままの形で出てきていた点です。確かに、「『韓非子』と梅園」の中の「三、鉾と盾の話」のように、「矛盾」という概念の解説を通してかなり丁寧にこれらの用語の意味がつかめるようになっています。しかし、すでにでき上がったマルクス主義哲学の立場を前提としているために、梅園哲学解明の要としての弁証法のイメージが具体的につかめないのです。実は、私は大学でヘーゲル論理学の勉強をしたのですが、それはヘーゲルやマルクスの哲学の言葉がいかに具体的に現実世界とかかわっているのかがわからなかったからです。雰囲気としては分かる、いや分かった気にはなれる、しかし、本当はどうなのか?これらの言葉は現実の世界に実際どのようにかかわっているのか? このような問題意識でヘーゲルに取り組んだのですが、結局、明確な答えを得ることはできませんでした。ただ、ヘーゲルもマルクスも未完成であり、現実世界との取り組みを通じてその思想を深めていかなくてはならないと思った次第です(マルクスは「論理学」を書きたいといっていたそうですが、それは私の望みでもあるのです)。そのためには、自然科学の成果を自らの思想に取り入れる必要もあるのですが、これはかなり難しいことです。浜松さんも「湯川秀樹の梅園論」の中で梅園哲学と現代物理学との関連に言及していますが、厳密にそれを行おうと思えば、しっかりとした言葉の枠組みがあり、その上で一定の基準で科学の成果と比較する方法論のようなものが必要だと思います。

 「三浦梅園と中国哲学思想」はU部に梅園自身の著作の現代語訳があり、全体として浜松氏自身の梅園哲学との取り組みを通して哲学の現場が見てとれるように構成されています。浜松さんのように梅園をきっかけにして哲学に関心をもたれる方が増えればと思います。
 

P.S. 残念ながら、浜松さんのお話によると「三浦梅園と中国哲学思想」はもう在庫がないそうです。けれども、浜松さんは最近、光陽出版社から「現代に生きる三浦梅園の思想」を出版されました。これはマルクス主義の立場からより突っ込んで三浦梅園の思想を解説したものです。
 
 

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