必殺、読書人!!

 

331:経済学・経済思想





「複雑系としての経済」 西山賢一  NHKブックス
 

 経済学の対象が単に人間の経済活動に限定されるものではなく、人間社会や人間そのものに及ぶものであることを教えてくれる本です。ここでのキ−ワ−ドは「複雑系」という言葉ですが、言葉ばかりが先行していまだにその内容が理解されていないところがあります。この考えは突然現れたものではなく、以前からニュ−サイエンスなどにも見られたものですが、ここへ来て急に脚光を浴びてきたようです。一言でいえば、複雑系とは、今までの科学が部分の積み重ねによって全体を理解しようと試みていたのに対し、それを基礎としながらも、全体を全体のあり方に従って理解しようとする知的歩みの一つと言えるでしょう。ですから、複雑系の問題は単に複雑系と呼ばれるものにとどまらず、先に述べたカオス理論、カタストロフやフラクタルなどの数学的理論、さらには生物学から出て来ているオ−トポエイシスの思想などと共に語られるべきではないかと思います。

 これらの新しい考え方の特徴は、まず、特定の条件から特定の結果が出ることを前提としていないということです。今までの科学では、ニュ−トン力学に典型的に見られたように、一定の初期条件から一定の結果が確定的に生じることを前提としてきました。言わば、答えがひとつしかないことを想定していたのですが、複雑系の場合はかなり事情が違います。もちろん、科学ですから答えを出さなくてはならないのですが、このような確定的な形で答えを出そうとはしません。むしろ、ある特定の状況が成り立つのにはどのような条件が必要なのかという観点で対象に臨みます。サッカ−などのゲ−ムにたとえれば、その試合の結果がどうなるかを予想するのではなく、その試合をどうしたら面白く出来るかという観点で対象に臨んでいるのではないかと思います。このようなゲ−ムのル−ルは考えてみると良く出来ていて、サッカ−ではオフサイドで安易に点が入らないようにしていますし、野球では盗塁が賭けとして成り立つ微妙な距離に塁間が定められています。人間の経済活動もこのゲ−ムに似たところがあって、それを具体的に予測することは困難ですが、少なくともそれが成り立つための条件を提示し、その条件が維持されているかどうかを判定することは出来るでしょう。面白いのは、従来の科学が出来るだけ特定された解を求めていたのに対して、複雑系に象徴される新しい科学が出来るだけ解の多様性を保証する条件を見いだそうとしているところです。確かに、サッカ−や野球が筋書きのあるドラマだったら面白くありません。

 このようなわけですから、複雑系の発想を経済学をはじめ社会科学に導入するとこれらの学問に思わぬ変化が出てきます。今までの経済学ではその内部で特定されたパラメ−タ−から、需要と供給の均衡、弾力性の理論などの仮説を通して結論を導いていたのですが、それを超えた社会的、人間的な要因から経済活動を見直すことになります。一般的に経済学者は今の不況の原因を銀行などの金融機関の不良債券のなかに求めます。けれども、どうしてそんなに不良債券が生じたかについては論じようとはしません。その背景では日本人のものの考え方、行動のし方が広く問われているのですが、経済学者はそのことを問題としようとはせず、安易に資金投入などの金融政策でのレベルでの解答に満足してしまいます。そもそも、不良債券が増大したというのは、まず資金を融資する時点での判断ミス、更にそれが不良債券化した時点での判断ミスという二重の判断ミスが重なっているのですが、平成不況の真の原因は日本人の判断能力のなさだといったエコノミストを私は知りません。判断力は彼らにとって守備範囲外のことのように思われているようです。いかし、経済活動がそれに基づいている以上、彼らのこのような人間の能力に対する無関心は自らの学問が不完全なものであることを明らかにしていると言えるでしょう。。

 私が西山さんの「複雑系としての経済」という本を読んで驚いたのは、人間そのものに対するこのような広い問題意識がすでに語られていることです。特に、この本の最後の部分で「美」についての問題までもが問われているのには驚きました。この「美」の問題は哲学において判断力の問題として語られています。普通、判断力というと論理的に物事の真偽を決定する能力のように思われていますが、人間の判断力はそれにとどまるものではなく、むしろ美的な感性をその第一の基礎とするものです。この本では中井正一の「美学入門」について取り上げられていますが、恐らくこの本の背景にはカントの「判断力批判」があったのではないかと思います。いずれにしても、美的感覚が人間の価値意識を規定するのであり、その意識が人間の経済活動の目標を規定します。ここでは美的感性の根源に「宇宙の秩序の中につつまれることで、その中に引き込まれて、自分の肉体も、自分は意識しないけれども、じかに、直接に響きあっている (213p) 」ことが述べられていますが、この宇宙と人との一体感は人間が地球上で他の生物たちと生きていくために不可欠な感覚と言えるでしょう。従来の経済学は数字によって計測出来る経済市場の結果のみに基づいてその善し悪しを判定して来ましたが、それがいかに限定されたものに過ぎないかについてはほとんど考慮がなされてきませんでした。経済学が科学であるためには数字によって計測出来る要因を押えることも必要です。けれども、そもそもその数字の適用範囲はどれだけなのかということを考慮していないなら何のための数字か訳が分からなくなるでしょう。カントは「純粋理性批判」において人間理性の適用範囲を批判的観点から再検討しましたが、経済学や他の社会科学にも同様の問題意識は不可欠です。

 この本では「複雑系」の考えのもとに、いかに経済的な要因以外のものが経済に絡み合っているかが考察されています。それは、言わば、経済を「図」として捉え、人間の精神的なあり方を「地」として捉えているのではないかと思います(これについては「医療と哲学 3」を参照して下さい)。その中で特に私が興味を持ったのは、マズロ−の欲求段階説によって消費活動を見直している部分です。本来、マズロ−は人間の欲求を5段階に分けているのですが、西山さんはこれを「生存的欲求」「関係の欲求」「成長への欲求」の3段階にまとめ直しています。これは以前から私も考えていたところで、「生理的欲求」「社会的欲求」「精神的欲求」の3段階に分けて考えていました。この本ではこの3つの段階に従って、人間の消費目的がモノから情報へ、より精神的なものへとシフトしていくことが述べられています。日本ではバブルに対する反省から、物作りを重んじる空気もありますが、単なるモノのための物作り、ましてや経済的な数字を上げるための物作りはマルクスの言った「物神性」の極みとも言えるでしょう。経済学は今まで人間の消費活動を規定する「効用」の問題を等閑に付して来ました。とりあえず、市場の価格をそのまま「効用」と見なして来たのです。けれども、現実に消費が落ち込む事態に遭遇すれば、「真に人間に必要なものとは何か?」という観点から、「効用」の問題を取り上げざるを得なくなるでしょう。この本で述べられている人間の欲求に関する問題提起はその意味でも重要だと思います。

 実は、この人間の欲求の問題はかなり大きな問題で、先に触れた人間の美的感性の問題とも深くかかわってきます。先に、美的感性の根底には宇宙と人間との一体感にその基盤があると述べましたが、この人間の欲求の各段階も、より広い宇宙との交わりの段階に対応していることは容易に見てとれることと思います。つまり、人間にはその欲求が実現されればされるほど、より高くより広い宇宙との一体感、私の言葉で言い換えれば、より開かれた宇宙とのコミュニケ−ションを望む本性があると言うことです。けれども、この本性は常に現実に顕在化するものではありません。むしろ、近代社会ではより高次の欲求をより低次の欲求にすり替える傾向が存在します。殊に、「精神的欲求」を「社会的欲求」にすり替えることによって、人間の成長へのエネルギ−を社会の肥大化のために抑圧し歪めることはよくあることです。これは途上国においては政治の民主化を阻み、時として経済の悪化が政治の不安定化につながる要因ともなっています。また、日本のような先進国では、社会的な秩序の崩壊や若者の無気力などにつながっています。無論、経済学がこのような問題に直接解答を与え得るとは考えませんが、「複雑系」の考えのもとにそれがより広範な社会的問題に答えを与える素材を提供することはできると私は考えます。西山さんの「複雑系としての経済」という本はそのための重要なきっかけを与えているようにも思います。

 最後に、西山賢一さんのの研究室にはホームページがあるのでご紹介しておきます。西山さんたちの多様な研究の状況が分かります。

[Nishiyama's Lab]

 
 

「経済学の終わり」 飯田経夫  PHP新書
 

 この本は今の経済学者に何ができるかの限界を示している本です。この限界とは著者である飯田さんの限界ということになりますが、経済学の限界である以上、このことは飯田さんのレベルが経済学者の中ではトップであることを意味しています。飯田さんの経済学の原理に基づいた堅実な論理の積み上げと、単なる経済学のレベルを越えたマルクスケインズへの言及には敬服します。前者についていえば、アメリカの誤った対日要求のため日本国内に過剰な需要が生まれバブルが生じたことの指摘、更にはその考えに基づいて「脱米」を説いている点に見られます。また、経済成長の時代が過ぎたことを明確に論じるところにもその見識の高さが伺われます。一方、後者についていえば、マルクスが資本主義の中に社会が増殖する「狂気」を見たこと、更にケインズの福祉国家の理念が財政赤字を生み出す宿命にあったことに言及している点に見ることができます。

 さて、経済学者の限界でもある飯田さんの限界ですが、これは歴史的視点の欠如ということになります。そのことは飯田さんの「豊かさ」の評価に見られるのですが、経済学者は今の豊かさから将来の日本に対して楽観的になっていることです。飯田さんは今の日本に「死相」が見られるというのをいたずらに人を悲観的にさせる主張だとしています。しかしながら、これは2つの意味で間違っています。一つは「死相」が見られるからといって必ずしもその人や社会が死ぬとは限らないこと。二つ目は、「豊かさ」がこの「死相」を拭う足かせになるということです。

 一つ目については、清水次郎長の例を出すと分かりやすいでしょう。彼はあるとき旅の僧から顔にあと一年で死ぬ相が出ているといわれます。それを真に受けた次郎長は任侠の世界に入り、なぜか親分になって一年以上も生き続けます。後に次郎長はその時の僧にあって、おまえの言ったとおりにはならなかったぞと問いただしますが、その僧は平然とあの時「死相」が出ていたのは本当だが、その後でおまえが生き方を変えたから死ななかったのだと答えます。この例でも分かるように「死相」は「今のままでいれば」という但し書きの上で、死を予言します。ですから、「死相」が出ているからっと言って日本はもう駄目だというわけではないのです。それでは」具体的に今の日本にとって「死相」とは何かと聞かれれば、私は日本人のコミュニケーション能力の低下だと答えます。このことについては「<対話>のない社会」のコメント([368:社会病理]を参照)で触れたので繰り返しませんが、これは放置しているならば間違いなく日本を死に至らせる病であると思います。

 ところで、二番目に移ることになりますが、ここで問題なのは「豊かさ」のため人々がにこの「死に至る病」の治療を先延ばしているということです。飯田さんは、今の日本を賢明にもタイタニックの乗客にたとえていますが、この船の沈没が大惨事になったのも、タイタニックは沈まないと誰もがタカをくくっていたからです。もし、これがもうお払い箱寸前のぼろ船だったらここまで犠牲者を出さずに済んだでしょう。

 歴史通の人や哲学者が今の日本に警戒感を持つのはまさにこのことによります。飯田さん自身が指摘するように、一般に経済学者は環境問題などが絡む社会全体を観る視点に欠けているように思えます。
 
 

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