必殺、読書人!!


H:聖典・教典

ここでは各世界宗教の聖典・経典の類についてのコメントをしています
 

 (凡例:〈岩波〉〈PHP〉etc.はそれぞれ「岩波文庫」「PHP文庫」etc.、〈中公・世界の名著〉etc.は「中央公論社/世界の名著」etc.)


[ユダヤ教・キリスト教・イスラム教]


「旧約聖書」

 日本では宗教というとその内面的な信仰に目が向きがちですが、宗教は本来、社会的なものであり、日々の暮らしを律する法的な側面を多く含んでいます。特に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの啓示宗教はこの傾向がはっきりしています。日本人が聖書、殊に旧約聖書を読む場合、このことが感覚的につかめていないのでたいてい違和感を覚えるようです。

 旧約聖書は単に分量が多いだけでなく、その内にこのような法律的側面、神話の側面、更には文学的側面や社会批判の側面までが宗教書の形で織り込まれているので、かなりその様相は複雑です。さすがに私も一度は通読したものの、その時読んだ内容はさっぱり思い出せません。けれども、その後、外国語の勉強も兼ねて読み直した所、他の聖書の紹介本を通じて知った部分もあるので、その大枠について幾つかの側面に区切りながら、少し書いてみましょう。

 私が大学時代に旧約聖書を通読したとき、一番骨が折れたのが「レビ記」の部分です。何せ、よく分からない規則や決まりが、精神的・道徳的なものから儀式的なものに至るまでごっちゃに記されているからです。しかも、これはモーセの話にリンクして展開されるので、歴史的物語の中に異常に多くの法律事項が組み込まれている感じがします。実に、旧約聖書は「創世記」から始まって「出エジプト」「レビ記」へと続いていきますが、<神話=歴史>の物語の中で現実の生活を律する法律の細かい事項が展開されるわけです。

 恐らく、このことは法律は人が作った社会規則だと割り切っている現代人、特に日本人には奇異に映るでしょう。しかし、法律がそもそも神の摂理によるものであり、精神的で道徳的な社会を実現するための手段と考えれば、聖書のこの流れはむしろ自然ななのかもしれません。少なくとも、神話と歴史に法律が直接リンクすることによって、その正当性が保証されるところがあります。私は公務員時代にやたらややこしい法律の条文に泣かされましたが、その一方でこれらにリァリティを感じることが出来ませんでした。人が守るべき規則とは、いかに形式的なものであっても、どこかに神様のような人間を超えた権威を必要とします。旧約聖書は私たち一人ひとりに法の社会的リァリティを感じさせ、宗教の現実的一面を知らしめてくれます。

 次に苦労したのが、ヨシュア記以降の歴史的記述の部分です。長い歴史を本の中で展開されると、人間というのはいかに懲りずに過ちを犯しているのかを思いしらされます。最も、歴史の中では何かの間違いが特に目立つものであり、それによって展開されるのですから、人の愚かさが強調される傾向がありますが、聖書の記述が淡々としてるだけにかえってそれが目に付きます。これはタキトゥスの「年代記」などを読んでも感じるところです。いかし、これだけ飽き飽きするような歴史を直視できる民族はなかなかしぶといもので、ここにユダヤ民族の底力を見るような気もします。かつてドイツのヴァイツゼッカー大統領は敗戦40周年記念演説の中でユダヤ人の金言から次の言葉を引用しましたが、このことは歴史そのものを通して明かされていると言えるでしょう。

   忘れることを欲するならば追放は長びく
   救いの秘密は心に刻むことにこそ

   Das Vergessenwollen verlangert das Exil,
      und das Geheimnis der Erlosung heisst Erinnerung

 さて、この言葉の精神は旧約聖書の預言者の書の部分へとつながっていきます。この預言者の存在こそ今の日本に一番欠けているものだと私は思います。日本では「長いものには巻かれろ」とか「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか言われますが、神の御前では全くこれは通用しません。「赤信号みんなで渡って皆即死」というのが啓示宗教の原理です。つまり、世の真実は人間の都合に左右されないと言うことでしょうか。だからこそ自分たちの社会を守るため多数の人々を敵に回す警告者、預言者が現れるのです。詳しくは「文化と文明とについて(10)」で述べましたが、今日本に必要なのはかつての預言者の精神だと思います。

 旧約聖書には他にも「詩編」や「伝道者の言葉」など文学的でもあり、より直接に宗教感を感じさせてくれるところがたくさんありますが、ここまでとしておきましょう。最後になりますが、もし聖書を通読したいと真面目にお考えの方がいらっしゃるなら、なるべく文字の大きな聖書をお買いになることをお勧めします。私はお金をケチって小さな聖書を読んだために目を痛めてしまいました。小さな聖書は日々の生活の中でその言葉を確かめるのに使われるといいと思います。
 
 

「新約聖書」

 新約聖書は旧約聖書と比べてかなり短いのですが、これもさまざまな文献を集めて出来ているので、一言ではくくりにくいところがあります。私がよく読んでいるのは「マタイの福音書」、「ヨハネの福音書」そして「ヨハネ第一の手紙」ぐらいでしょうか。これらは外国語の勉強も兼ねて読んだのですが、例のごとく外国語の方はいまいちです。他には「ローマ人への手紙」も結構読みましたが、ここではマタイ・ヨハネの2つの福音書を中心に書いてみましょう。

 「マタイの福音書」は私の道徳観を決定づけたものと言えます。それは一言で言えば「寛大であれ」ということですが、いま少し説明すれば、人間は不完全であるが故に互いに赦し合わなくてはならないということになります。日本では建て前と本音とが分かれていると言われますが、それは日本人が常に他者に対して、殊にその肩書きに対して完全であることを要求しているからだと思います。完全な人間などいないのだからどこかで他人を赦し自分を赦して妥協しなければいけないのですが、日本人はその赦し方を知らないようです。だからこそ、いまだに日本の過去の戦争責任を直視できないのです。これは大変不幸なことです。というのも、このような精神的な態度は自己の悪い部分に蓋をして先送りすることを意味していますが、その間にその部分に利息が付いてとんでもないことになってしまうからです。この福音書の中では人の不完全な部分、つまり罪の重さと、人々が互いに赦し合うこととがリンクして語られています。ですから、人は神の厳しさを知っても、同時にいかにすれば神に赦されるかを知ることが出来るのです。

 このことはヨハネの福音書にも説かれていますが、こちらの方ではイエスを軸とした神と人との関わりがより強く述べられています。面白いのは、イエスが個人的実在を超えた、普遍的な実在として語られていることです。このことはユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言ったのに対し、イエスが「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」と答えていることからも見て取れます[8.57-58]。ユダヤ人たちがここの具体的実在のレベルでイエスを見ているのに対し、イエス自身は神の意図に基づいた普遍的なあり方として自己を語っているわけです。ユダヤ人たちは目に見える個々の実在を超えた存在を認めなかったために話が混乱してしまったのですが、このことが分からなければ父である神と子であるキリスト、そして聖霊とが一つであるとするキリスト教の三位一体の思想は訳の分からないものになるでしょう。

 よく日本人の間ではキリスト教は訳の分からないことを信じる教えだと思われています。それは聖書の中に書かれている奇跡のことが問題になっているのですが、果たしてこの奇跡と呼ばれるものはそんなに異常なことのでしょうか? イエスとパリサイ人とのすれ違いを見ていると、日本人の多くがパリサイ人同様に、単に目に見える個々の事物の次元でしか宗教を捉えていないように思われます。福音書に記述されている奇跡の多くはその事実よりも、その物語が暗示する真理の価値の方に意義があります。つまり、奇跡が実際に起こったか否かではなく、それが世に生きるもの達に真理を伝えているかどうかが問題であるということです。

 このことを理解するには、法華経のところでも触れた、比喩のことを考えると分かりやすいかも知れません。すべての福音書を通じて喩えは重要な意味を占めています。イエスの教説そのものが比喩によっており、弟子達が勘違いする場面が幾度となく出てきます。私の読む限り、福音書においては喩えとして示された世界と現実の世界との境界が曖昧であり、福音書の物語全体が一つの比喩でもあり得るわけです。このようにして読んでいくと、福音書に描かれている真理は割と単純なものなのかも知れません。それはごく当たり前の人の道とも言えるものです。

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」  [マタイ:22.37-39]

このようなわけですが、全体が喩えで覆われている福音書の物語にも一つの決定的な現実との接点があります。それはイエス自身の十字架での死です。この事実によって福音書の物語はその真理を明かしています。

 ここでは「マタイの福音書」と「ヨハネの福音書」を中心に話を進めましたが、福音書には他にも、「マルコの福音書」と「ルカの福音書」とがあります。これらは同じイエスの出来事を記述した文章なのでかなり内容が重複していますが、それぞれが独自の視点を持っていますので、重ね合わして読むとおのおの味わいがあります。いずれにしても、福音書はイエスの十字架への物語とそれからの復活の物語です。復活については、その後の「使徒行伝」の方にその本来の姿があるのかも知れませんが、これらの物語は後のローマ時代を経て人々のコミュニケーションの絆をなす神話となっていきます。それは人と人との絆でもあり、人と神との絆でもあるのです。
 
 

「コーラン」 〈岩波〉〈中公・世界の名著〉

 これは本としては問題の多い本です。というのも、これは典型的な聖典に属するものであり、単なる読書の対象ではないからです。上では、日本語の訳の題名に従って「コーラン」と書きましたが、ここではクルアーンと原語に近い形で記述します。

 法華経や聖書のところでも書いたのですが、聖典というのは必ずしも何か深遠な哲理とか神秘的な知識とかを並べてくれるものではありません。私たちが信仰を持ち、その教えに従って生きる意志を持つための導きとして聖典はあるのであり、知恵もその中の物語もそのための役割を持っているのです。クルアーンにあってはその聖典の特徴が露出しているために、他の聖典と同じような意味では翻訳が出来ないことを考慮する必要があります。一部の過激なムスリムのように翻訳を完全に否定するのは行き過ぎであるにしても、それだけでクルアーンを理解できるとするものまた間違いなのです。それはクルアーンのオリジナルの影とはなり得ても、クルアーンそのものの役割を背負うわけには行かないのです。

 このことはクルアーンの朗唱を聞けば、私たちのような異教徒にもある程度感じることが出来ます。クルアーンは文字で書かれたものとしてある以前に声なのであり、音楽と言葉との融合したものなのです。これはクルアーンの持つ神との直接的関係の現れです。聖書の場合、それはいかに神の意志を伝えるものとされても、第三者の伝聞を通して構成されたものなのですが、クルアーンにあっては預言者ムハンマド(マホメット)に下された啓示がそのままアラビア語の音の形で残されたと言えるでしょう。

 さて、聖典としてのクルアーンはこのようなものとしても、実際どのようなことがその中で語られているのでしょうか?それは端的に神であるアッラーに帰依せよと言うことです。このことを明かすためにクルアーンはアッラーからムハンマドに直接語りかけている形で展開します。その中で、すでに聖書に出てくる事柄が再び述べられたり、新たな法的規則(豚肉を食べてはいけないとか)が提示されたり、更には最後の審判の日に信仰するもの、そうでないものがそれぞれどうなるのかがリアルに語られたりします。すでに翻訳されたクルアーンを読んだ人は感じたと思うのですが、ここでの語りかけはあまりに直接的でリアルであるために、逆に聖典としては異常に世俗的な言葉で満たされており、本当にこれが聖典なのかと疑いたくなります。特に、ムハンマドが商人であったこともあって、商売の喩えがあちらこちらに出てきます。恐らくここにクルアーンの翻訳が抱える大きな問題があると思います。

 しかし、私はこの世俗的な言葉の中に神と人との本当の交わりを見ることが出来るのではないかと思います。人は自ら神の立場に近づくことは出来ません。この交わりにあっては、神が人に近づく必要があるのです。キリスト教におけるイエスの十字架もそのようなものとして解釈されていますが、イスラム教ではこのクルアーンそのものがこのイエスと同じ意味を持つのです。そこには雛鳥の口に直接餌を差し出す親鳥にも似た神の働きにあります。あまりに雛鳥の立場に近づきすぎたために神の言葉であるクルアーンはそれが語られたアラビア語の制約を負ってしまったのかも知れません。このことは「文化と文明とについて(4)」でも触れましたので、関心のある方はそちらもご覧ください。

 このようなクルアーンですが、法華経と同じように哲学的にも面白い点がいくつかあります。それはタウヒードの思想です。イスラームではアッラーの他に神はないのが大原則ですが、そこから人間を超えた自然そのものの根元的同一性が説き明かされます。ここに自然や宇宙そのものにまで広がった宗教意識を見ることが出来るのではないかと思います。また、社会的な立場から見るとカリフ論というのがあります。イスラームにおいては神の預言者はムハンマドでおしまいなのですが、このことは神と人との新しい交わりの始まりであり、一人ひとりの人間がカリフとして神の意図を社会に実現するように努力しなくてはならないというものです。世界史の時間ではカリフはイスラーム共同体の指導者として出てきますが、本来はこのようなものであったようです。これらのことは「ひろさちやが聞く コーラン」の中で黒田壽郎さんが詳しく述べておられます。

 最後に、クルアーンの訳を載せているHPがあるので紹介しておきます。  ISLAMのホームページ
 
 



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