スペイン追想


 3.セヴィ−ジャにて(10.15)

 セヴィ−ジャはスペインにおいて最もスペイン的な町である。アンダルシアの 中心をなすこの都市は一方においてイスラム的な匂いを残しつつ、カトリックの 精神が町を支配している。グアダルキビ−ル川沿いに発展したこの町は、古くは イスラムの時代から海への玄関口として栄えた町であった。しかし、スペインの 時代には新大陸への玄関ともなり、そのために多くの富がそこに集められ、大教 会であるカテドラルにはその多くが集められた。ここにはヒラルダの塔が立てら れ、私もその塔の上からセヴィ−ジャの町を見ることができた。一言でいえば、 ここは中世の町である。グラナダもそうであったが、ここではバルセロ−ナのよ うな大きな建物による幾何学の露出は見られない。また、グラナダが赤い屋根と 白い壁による小さな住宅が丘に沿って立ち並んでいる田舎の景観を呈しているの に対して、セヴィ−ジャの町並みはゴチャゴチャしながらも、それは都市の姿を 呈している。石でできた古い町並みは甲羅の筋のような細い路地によって分かた れ、彼方へと広がっている。とにかく、中世のものとしてはその幾つかの建物の 大きさが目を引く。カテドラルにせよ、その前にあるムデハル様式(イスラム教 徒の建築様式)によるアルカサルにせよ、はたまた川岸に立つ黄金の塔(昔、対 岸にある銀の塔との間に鎖がかけられ、その屋根が昔金色の陶器で葺かれていた という)にせよ、その規模は当時としては最大級のものである。しかし、それと 同時に私の目を引いたのはカテドラルのなかのムリ−リョの絵であった。生涯を この町で過ごしたこの画家は非常に女性的な柔らかい絵を描く。一般には、男性 的なイメ−ジの強いスペインだが、ここにこの国のもう一面が見てとれる。

 ところで、当然のことながら、カトリックの教会ではこのムリ−リョに代表さ れるような多くの聖画があり、イエスやマリアの像をはじめ他の多くの聖人達の 像がある。これらは偶像崇拝を厳しく禁じたイスラム教世界では見られない光景 である。それはあたかもアルハンブラで見た抽象世界が受肉化し人の姿を借りて 立ち現れた感がある。装飾の多さについてはアルハンブラでも同様であったが、 それが人の姿を取ることによって具体的な物語(この場合は聖書の物語)として 人々の心に迫ってくる。この人間的な具体性がイスラム教とキリスト教との最も 大きな違いであろう。この2つの宗教は共にユダヤ教から出たものであるが、神 学的には幾つかの大きな違いがある。それはキリスト教においては三位一体の理 論によってキリストが主であるとされるのに対して、イスラム教ではイエスはイ ザヤやエレミヤのような預言者に過ぎず、三位一体説を受け入れない。神はあく まで神なのである。それ故、キリストの復活についてもイスラムの立場では認め られない。復活は最後の審判の時のみであり、そこですべての人間が同時に復活 し、神の裁きを受けることになる。イスラム教の強みはその論理的明確さであ り、同時に神が常に身近に隣在し我々人間一人一人に向き合っているという直接 性にあるが、キリスト教にあってはむしろ人の子である主たるイエス・キリスト が媒介として神と我々人間との間に立つという具体性にある。このくい違いは私 にとっては決定的ではないが、その話は後にまわすとして、歴史的に見るならば そこに具体的な歴史のうねりが現実化していくのが象徴的に見てとれる。中世に おいてはいまだ理想的なものであり、人の内面もしくはアルハンブラ宮殿の中で しか具現していなかった何かが現実のものとして現れてくるのである。それはマ ックス・ウェ−バ−流に言えば修道院の中にそれまで閉ざされた規律が近代社会 において一般の社会に現れ出たというところなのだろうが、今まで抽象的な記号 に過ぎなかった理想的な何かが具体的な意味を持ち始めたといってもいいだろ う。近代を一つのインパクトとして捉えるならば、そこにはその後のヨ−ロッパ 近代の歴史を暗示するものがある。
 

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