スペイン追想


 7.マドリ−にて(10.17)

 ついにスペイン旅行の最終目的地であるマドリ−について語るところまで来 た。そこは現代スペインの首都であり、王宮をはじめ多くの観光地がある。しか し、町そのものは新たに人工的に作られたところもあって、アンダルシアの町や トレドとは異なっている。ここはバルセロ−ナと違った意味でスペインの現代が ある。だが、今回は団体旅行ということもあって多くを見ることはできなかっ た。ただ、唯一時間をかけて見ることのできたプラド美術館の絵画については語 らなくてはならない。ここでグラナダからバルセロ−ナへの歴史をつなぐ最終ポ イントがあるからである。

 我々がこの大きな美術館で見ることができたのは先に述べたエルグレコとベラ スケス、そしてゴヤの絵画だけである。しかし、それだけでも十分に語るだけの 価値がある。普通、絵は空間を映し出したものだと思われている。ピカソのよう な記号化した抽象画でさえいちおうはそうである。しかし、名画と呼ばれるもの は単にそれだけにとどまらず、物語としての時間性をその背後に持っている。エ ルグレコの場合、それは聖書の物語であった。しかし、アルハンブラの記号世界 がカトリック世界において受肉化する歴史はそれに止まるものではない。ベラス ケスにおいてそれは宮廷内の現実となり、ゴヤに至ってはそれが一般庶民の生活 にまで及ぶ。この過程がスペインの没落の時期と時を合わせているだけに彼らの 絵画の一枚一枚が歴史的現実味を帯びてくる。スペインの黄金期はレコンキスタ を完成したイザベラ女王以来、カルロス1世、フェリッペ2世の時代まで続く。 しかし、その後、先にも述べた過剰なレコンキスタや宮廷内の混乱によってスペ インは急速にその力を失っていく。ベラスケスの時代、すでにその衰退は現実の ものとなり始めていた。彼はその天才的な才能と遠近法の技法を駆使してありの ままの宮廷の人間を描き出した。たとえそれが王室に対する敬意に覆われていて も、その現実は彼の絵を通してはっきりと見ることができる。それは衰弱し徐々 に未来への意欲を失っていく人々の姿である。具体的にこれらの絵を理解するた めには、王室内の人間関係、更には後のゴヤの時代になるが、宮廷内のク−デタ −計画、それに乗じたナポレオンのスペイン侵攻などが語られねばならないだろ う。しかし、それを抜きにしても一見華やかな宮廷の人々の絵の中に見られる憂 鬱さは今の日本人と共通するものを感じさせる。もし今の日本とスペインの近代 の歴史において重なり合う部分があるとすれば、それはベラスケスの時代のスペ インだろう。衰退は決定的ではないにせよ、将来への見通しを失い、その一方で 問題を先送りし続けているところがよく似ている。もしそれ以前のカルロス1世 やフェリッペ2世の時代に過度な浪費をしなければ、またその時代においてもも う少し将来をまともに考える指導者が出ていたならばその後のスペインは少しは 変わっていたかもしれない。しかし、現実にはそうはならなかった。

 この不幸はゴヤの時代に現実のものになる。ゴヤはすでに宮廷画家の時代から 多くの民衆を描いてきたが、その晩年にいたってはもはやその民衆さえも絵の対 象になり得なかった感がある。そこには醜い人々の姿や妖怪と化した人間の姿が 描かれている。そんな中で一番象徴的だったのが「犬」という名の絵である。そ こでは画面の左端の下で首だけが壁から出ている犬の絵が描かれている。どうも 小さな壁の穴にはさまって身動きが取れなくなった犬を描いているようだが、こ の犬がゴヤ自身であると想像するのは難くない。だが、ここで問題になるのは右 上に神の姿が描かれた形跡があることだ。形跡があるということは一度描かれた ものが、消されたということである。ニ−チェの「神の死」がここに具体化して いる。このことは受肉化した記号世界がついにその意味を見いだす余地を失い、 再び空想の世界へ、しかし今度は暗い地下の世界へ沈んでいって行くことを示し ている。ゴヤの晩年の作品は彼の家の壁に描きなぐられたものである故に保存上 の理由でプラド美術館の外に出されることは決してない。アルハンブラの閉ざさ れた天上世界は、記号の受肉化を経て、再び閉ざされたプラドの一室に行き着く ことになる。

 私は常々歴史にはひとつの対流のようなパタ−ンがあるのではないかと考えて いる。私のインパクト仮説はその対流パタ−ンを説明するためのひとつの仮説な のだが、それはかつて聖書の伝道者が「河はみな海に流れ入る 海は盈ること無 し 河はその出きたれる處に復還りゆくなり」と言ったところのものでもある。 スペインにおいてそれは純粋な天上の記号が地上で受肉化し、その時代背景のも とで一定の意味を持ちつつ、その意味を拡散させ、混乱と曖昧の中に消えていく 過程として語られた。それは再び蒸発して何かの記号を生み出すだろうが、その 時にはそれまでの過程は歴史の物語の中でしか見いだされることはないだろう。

 ゴヤの時代以降、スペインはその衰退を明らかにしていく。1898年の米西 戦争の敗北、そして先にも触れた市民戦争とその後のフランコの統治を経て今日 に至る。この辛い時代の中でピカソやガウディは曲線と極端な記号化を通じて新 たな天上への道を模索していたのかもしれない。ここで私の旅はひとつの対流を なす歴史的円環を成して終わることになる。現在のスペインは失業問題やバスク 問題などに悩まされつつも、民主主義の中で新たな道を模索している。スペイン にとって幸いだったのは、その国家の衰退にもかかわらず、個人としての人間が 健全であったことだ。その個人は近代社会ではあまりに個性的でル−ズである が、いまだにその生命力を失っていない。確かに歴史は繰り返すと私も思う。し かし、その繰り返す内容は多様なのであり、その意味もまたそれぞれなのだ。も し人が何かを歴史から得ようと思うならば、その円環の中で我々が何をなすこと がよりよいことなのかを考えるべきである。近代に適応し過ぎ歴史を見失った今 の日本人にとってスペインはその円環の何たるかを示している。
 

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