立喰いのプロから地域通貨へ



 はじめに
 

 この「立喰いのプロから地域通貨へ」は私が Jarvis Christian College で日本語教師のインターンをしていた頃、お世話になっている KOKIRIKO ROOM の掲示板に2000年の2月から3月にかけて連載させてもらったものです。アニメと経済学との組み合わせは一件奇妙に思われるかも知れませんが、個人的に 面白いものには境界はないと思っています。この拙文を読んでアニメファンの人が経済学などの学問に関心を持ち、また経済学を学ぶ人たちがアニメに関心を持 つとすれば、私が会えてこのようなものを書いた目的も達せられるでしょう。
 
 

第一段: 立喰いのプロと地域通貨
 

 「立喰いのプロ」といえば、早い話、無銭飲食を繰り返しながら各地を渡り歩く人た ちのことです。飯屋の店主に何やかんやと話を持ちかけ、時には出されたものに因縁をつけ(狐狸の龍)、時には相手を人情話で泣き落とし(回転焼きの甘太 郎、四方田犬丸)、過激な場合には仲間と乱闘を繰り広げそのドサクサにまぎれて逃亡する(ハンバーガーのテツ & 大盛のマサ)などの手練手管を使って、ただ飯の生活を続ける人のことです。

 実際にこんな家業が成り立つかどうか知りませんが、この立喰いのプロたちは、今は昔となった地域 のコミュニティーにある意味で寄生しながら生活をしていた人と言えるでしょう。だいたい現在のレストランでは客と店主、もしくは客どうしが話を交わすなど はあまりないことで、彼らがうまく話をする相手を見つけたところで、無銭飲食を繰り返せば警察のお世話になるのは時間の問題です。「立喰いのプロが」す でに押井ワールドでも過去の家業として見出されるのもそのためです。しかし、彼らの存在を通じて今日いかにコミュニティーの人間関係が希薄になっているか に思いが及びます。立喰いのプロは地域のコミュニティーにしか寄生できないのであって、たとえ物語の世界であっても「立喰いのプロ」の消滅はこのよう なコミュニティーそのものの衰退を意味しているのです。

 現実に話を戻しますと、立喰いのプロと呼ばれる人たちは実在しなかったにせよ、各地を放浪しなが ら、ただ飯の生活を続けていた人たちはいたようです。最も有名なのは山頭火ですが、一般的にもその地域地域に一時的な仕事を見つけては一宿一飯の恩義の下 に暮らしていた人々がいたようです。このような生活が成り立つのも、金銭を媒介としないその場その場での「ただ飯」を軸にしたやり取りが成り立ったからだ と思われます。時には怪しげな占い師、時には口八丁のがまの油売り、また時には荒野の用心棒をしながら生きていく言わばアウトロー的な人たちが「立喰い のプロ」の原点ではないかと私は考えています。一部には、渡世の世界に身を寄せ、やくざの世界に入っていった人もいたかもしれませんが、そこでも木枯らし 紋次郎(若い人は知らんか)のように、一匹狼でその場その場の親分さんを渡り歩く人もいたことでしょう。

 現代社会はすべての生活の糧を金銭を媒介にしなければ得られなくなったので、この手の生き方は出来 なくなったようです。しかし、それだけ生きることに柔軟性がなくなったのは確かでしょう。金銭に生活の糧を依存するということは、金銭を供給する会社や資 本を通してしか生きられないことを意味します。地域通貨とはある意味で地域内の物々交換を促進するチケットのようなものですが、このようなものがあれば、 相互扶助よろしく何とか食うことは出来るというわけですし、金銭関係によって希薄になったコミュニティーをもう一度立て直すことが出来るのではないかとい うことになるわけです。
 
 

第二段: 黄金のタダ飯生活
 

 「立喰いのプロ」と呼ばれた人たちは地域のコミュニティに寄生していた側面もありますが、より正 確には地域と共生していたといったほうがいいと思います。「金でほほをひっぱたく奴」もお金に寄生している奴と言えなくはないですが、本来、寄生するもの は宿主にあまり迷惑のかからない、少なくともそれに致命的なダメージを与えないように配慮しているので、このような輩は単に金の威を借る輩といってよいで しょう。

 ところで、私の場合もこの「共生」によって何とか生きています。つまり、いま日本語を教えているカ レッジと共生関係にあるわけです。私は日本語教師のインターンをしておりますが、給料はもらっていません。むしろ、生活費としていくらかカレッジに払い込 んでおり、その額は飛行機の旅費と合わせて100万近くという所でしょうか。一見、高いようにも思われますが、カレッジ内のカフェテリアを無料で顔パス、 住居費、光熱費タダ、しかも現地で英語の勉強が出来、時々他のクラスにも顔を出せることを考えれば、かなりおいしい話だと思います。確かに日本にいた時、 ある程度ため込んでいたからこそ出来ることですが、留学と比べると結構有利かなという感じです。

 実は、私は車に乗らないのでここでの余分な生活費は限られています。定期的にかかるのはAOLの料 金(月約5000円)、電話代(ここは24時間テレホーダイで月2000円くらい)でしょうか。日本語の授業は月曜日から金曜日まで平均して1日一時間く らいです。当然、時間に余裕が出来ますから、勉強をしまくれるというところでしょうか。

 普通の人には耐えられない環境かもしれませんが、私にとってはとてもありがたい環境です。とにか く、時間があればやりたいことは山ほどあるし、英語の勉強、日本語教育の勉強も出来るからです。こちらに来て、多少現金も使いましたが、合計半年で5万 いっていないと思います。まー、最近、酒屋に行くつてが出来て多少出費も増えましたが、何せここは(酒も含めて)物価が安いのは嬉しいところです。

 私の場合、外国に出ていますので、生活費としての振込みが必要になるかもしれませんが、日本国内で ただ飯を通しての共生関係を考えればこれらの費用(飛行機代も含めて)は要らなくなります。日本では電話代やサーバー代がある程度かかるといっても、ただ 飯を保障されれば少なくとも独身者にとってはかなり有利な状況を作り出すことが出来るのではないでしょうか。当然、田舎では住居は安いですから、どっかの 市町村が夢を持つ人々を対象に一定の農業・林業労働と引き換えに時間とただ飯を供給すれば、結構いける話ではないかと思います。すでに、貧乏なゲージュツ 家の人たちの中には田舎でこのような共生関係に入っている人もいるようです。いずれにせよ、ビンボーでも好きなことをしたい人たちにはこの共生関係はかな り現実的でしょう。例えば、芸術家・作家志望、翻訳や独自のコンピューターソフトを作っている人たちにとっては、特に田舎にいても問題はないわけで、この ような人たちは田舎でただ飯の生活を享受しつつ将来の夢に備えることも出来るわけです。

 また、このような制度は都会で路上生活に落ち込むことを防ぐ手立てともなります。路上生活の恐ろし いところは、それをしばらくやっていると社会復帰する気力がなくなることです。一方、田舎では農業や林業の人手不足が続いていますし、特に林業については 環境保全の面から危機的な状況が続いています。田舎では減反などの関係で自家米などを作っているところが多いのですが、商業ルートに載らない作物でただ飯 を供給できれば結構、田舎の人も割があうのではないでしょうか。

 ところで、この「共生」の概念ですが、埼玉大学の西山賢一さんのHP (文 化生態学の模索)で地域通貨の絡みで触れられていました。ここでは「不純物の原理」など注目すべき概念が示されていますが、これについてはうる星や つらの友引町を例にもう少し話を進めてみたいと思います。もし地域通貨による多極間決済がもし可能になれば、商店街とこのような人たちとの共生関係も可能 になるでしょう。
 
 

第三段: 友引町のルール
 

 西山先生のHPをご覧になった方はおわか りのことと思いますが、物々交換には二重の一致という関門が控えております。交換するものが一致しないといけないというわけですが、確かに綾波のフィ ギャーで石狩鍋を食べるのは至難の業でしょう。その間にお金が入ることによって交換が成り立つのであって、その意味ではお金は重要な交換手段なのです。も ちろん、お金そのものに効用があるわけではありません。お金は普通、紙か金属で出来た引換券に過ぎません。けれども、経済がお金に依存している以上、また 綾波のフィギャーで石狩鍋を食べるのが困難である以上、お金欲しいーの状況が常に存在しているわけです。

 けれども、タダ飯の世界では必ずしもこの二重の一致が障害になるわけではありません。それは飯が誰 にとっても必要なものだからです。経済学には「弾力性」という観念があります。ブランドものや綾波のフィギャーなどの贅沢、もしくは趣味に走ったものは懐 具合によって買ったり買わなかったりします。しかし、お米や基本的な食糧は多少収入が減ったからといって、買わないわけにはいきません。前者のようなもの を、懐具合に左右されやすいという意味で弾力性が高い、後者のようなものを弾力性が低いといいます。地域通貨を使ったタダ飯が効果を発揮するのはこのよう な事情によります。

 お金が当たり前の世界ではこのような当たり前のことが見えてきません。お金そのものに効用があるか のように錯覚してしまうのです。しかし、これでは単にお金持ちはお金持ちで話は終ってしまいます。その意味で、「うる星やつら」の友引町ではお金よりも効 用(うまみ)が優先されてきました。ここではお金持ちの面倒終太郎が小市民の息子である諸星あたるに勝つことが出来ません。それは、この友引町にあっては 効用(うまみ)そのものが露出していたからです。

 ずばり、友引町で取引の基準になっているものの代表は「牛丼」です。うる星のキャラ クターにとっては食欲と性欲に直接結びつかない対象は決定的な価値を持ち得ません。「牛丼」たまに「味噌汁、おしんこつき」が 何ヶ月分という形で取引がなされます。また、食い物であれば、「モダン焼き(大盛)」などが、その場その場の状況で取引の材料になります (第69話 買い食いするものよっといで!)。諸星あたるは、その意味で、駆け引きの天才で時としてこの手のやり取りを極度にエキサイトさせ てしまうこともあります・i>i第114話 ドキュメント・ミス友引は誰だ!?)。これに対して、面倒の率いる黒目がね部隊は何か抜けています。お 金で実現できることは誰かによって実現できることですが、不特定の誰かによって実現されることは、ここ友引町では特定の誰かによって実現できることに優越 することは出来ないのです。恐らく、ここが「うる星やつら」を面白くしてきたルールなのであり、また地域通貨を魅力的にしている原因なのだと思います。次は、この面白さの深層に迫って見たいと思いま す。
 
 

第四段: 黒メガネ部隊
 

 よくギャグアニメではその他大勢を手を抜いて書くために同一のデザインで書くことがありますが、面 倒終太郎の黒めがね部隊、面倒了子の黒子なんていうのはその典型ですが、他にも「パタリロ」のタマネギとか、ちょっとマイナーですが、「県立地球防衛軍」 の下っぱなんていうのもそれに当たります。いずれにしても共通して言えるのは彼らがお金で雇われているサラリーマンであるということで、どうしても個性の 強いギャグアニメの世界では脇役になってしまうところがあります。でも、結構、ポロッと本音が出たりして、それなりに言い味を出しているのが何とも言えな いです。

 「うる星」のようなギャグアニメの世界ではそれなりに救われている感じがする彼ら脇役陣ですが、実 際の世界だとなかなかそうはいかないようです。というのも、金銭で雇われているサラリーマンには金銭による均質化の作用が働いているからです。お金が交換 手段であることはすでに述べましたが、交換手段である以上、多用な効用を一定の物差しで計れるように均質化するのもお金の作用です。お金を通じて綾波の フィギャーで石狩鍋を食べることが出来るのも、双方にお金による価格がついているからで、どっかのアニメマニアが綾波のフィギャーをいくらかの金で買って くれるから、どこかの料理店でお金を払って石狩鍋を食べることが出来るというわけです。

 このお金の均質化作用はこのように確かに便利なものではあるのですが、現実の効用を必ずしも反映し ているわけではありません。お金の表示においては「貧者の一灯」も「金持ちの一灯」も同じ価値を持つものとなってしまいますから。しかも、お金はのべつ幕 なしにどこでも流通しますから、田舎で農業をしようとしても安い輸入物には勝たないということになります。単純な市場至上主義者に言わせれば、物がそれだ け安く手に入るのだから良いではないかということになりますが、事はそれほど単純ではありません。何故なら、私たちはお金を使う一方でお金を稼がなくては ならないからです。

 お金を稼ごうと思ったら、お金になる仕事をしなくてなりません。お金になる仕事をしようと思えば、 お金の尺度に仕事を合わせなくてはなりません。というわけで、お金の尺度に合わせて仕事をすると、それに合わない地域の農業は出来なくなります。しかし、 そうなると地域で仕事が出来なくなり、地域そのものがなくなるという事態が生じます。地域そのものがなくなると地域の自然を管理することが出来なくなった り、地元で人間の生存に不可欠な食糧を供給できないという危機管理の問題が生じたりします。これらのマイナスの効用はお金だけによる市場には反映されませ んから、市場至上主義は常にマイナスの効用を貯め込む傾向があります。

 また、それ以上に、人間がお金に合わせて均質化されることも見逃されてはなりません。お金だけで成 り立つ仕事の多くは「やりたい仕事」よりも「やらなければいけない仕事」が多くなります。私は公務員の仕事を10年以上しま したが、公務員の仕事の多くは事務と呼ばれるもので、この事務は何らかの目的を達成するための機械的な必要作業と言うことが出来ると思います。それ自体に は価値がないのですが、お金による社会の均質性を維持するためにどうしても辻褄を合わせるのに苦労します。この手の仕事は整合的(間違いがないこと)であ ることが求められるので、どうしても仕事に個性を持ち込むことが出来なくなるわけです。黒めがね部隊は若!(終太郎のこと)に対して適当の 限りを尽して、時には証拠隠滅と称しつつタコの足は7本だと強弁したりすることもありましたが・i>i第134話 死闘!面堂家花見デスマッチ)、 現実にはなかなかそうはいきません。そう言えば「うる星」の世界でも友引町役場の職員はなぜか瞳が消されてましたね・i>i第137話 テンちゃん の不思議な恋の物語)。終太郎に仕える黒めがねの人たちもメガネをはずせば普通の顔があったし、「パタリロ」のタマネギもその仮面の下は美形だったりした のですが・・。

 それでも、私のいるアメリカのように一攫千金を狙いつつ、転職がかなり自由に出来ればまだ救いがあ るのですが、日本のように終身雇用が前提とされ、会社企業以外に頼るべきコミュニティーがないなると事態はかなり深刻です。逃げ場がないですから。しか も、均質化された社会は将来への活力を少しづつ失って行きます。というのも、不確定な将来を生き延びるためにはどうしても不純物といえる要素が必要なので すが、均質化と不純物とは矛盾する関係にあるからです。西山賢一先生はホジソンの不純物の原理に注目されていますが、この不純物があるから社会も不確定な 将来に適応できるのであり、何よりも世の中が面白くなるのです。

 アニメの世界では常にこの不純物が主役です。「うる星」の世界では均質化勢力の代表が面倒終太郎ですが、不純物の権化である諸星あたるに勝つことが出来ないのはすでに述べたとおりです。不純物は均質的な常識人からすれば「変」でしょうが、現実の歴史が

♪変に変を合わせてー、もっと変にしましょ?

♪変な変な世界は大変ダダダ

という具合に進んできたのはかくたる事実です。続いて、この不純物に焦点を当ててみましょう。
 
 

第五段: アホのパワー
 

 「アホのパワー」とはメガネをして「立喰いそばの威力もここまでか(第 52話 クチナシより愛をこめて)」と言わしめ、チェリーが「アホだけが時折発動する凄まじいパワー (第116話  終太郎・不幸の朝)と喝破したアホの象徴、諸星あたるが持つ並外れたパワーのことです。うる星の世界は常に「後先考えず に行動する主義(うる星やつら2 ビューティフルドリーマー)」を貫く諸星あたるの異常なパワーと行動力を軸に展開していきます。まさにいい加減の極致を行くストーリーですが、現 代社会が「後先に縛られて」成り立っていることを考えるとかなり意味深長です。というのも、前回の「黒めがね」でもお話したように現代社会は常に均質化を要求するのですが、その 背景には社会が特定の計画を完遂するために画一的な役割を個人に求めてきたことがあるからです。

 これは機械の歯車を考えると良く分かるのですが、現代社会はこの機械の部品と同じように、人間に対 して期限内に間違いなく期待通りの働きをすることを求めています。これは現代社会の仕事が未来に対する期待に基づく計画によって運営されているからです が、それが可能なのもお金によって不特定多数の人間の労働力を集約的に利用することが出来るからです。結果として社会は各個人をそのキャラクターではなく して、その役割概念でのみ判断するということになります。私はこれを社会における「匿名の原理」と呼んでいますが、それというのも、そこには個人の顔 (キャラクター)が社会を構成するのでなく、社会が個人をその役割によって振り分けているからであり、そこでは特定の誰々であるということはその後で問わ れている
からです。

 少し専門的になります が、社会学でいう、法律などの規則で運営されるGesellschaft と 人々が自然に寄り集まって生きている共同体である Gemeinschaft の区別はこの「匿名の原理」によって区別できるのではないかというの が私の考えです。法律を見れば分かるのですが、そこでは不特定の社会を構成する人々に対する決まりが書かれています。つまり、ここではその人その人の個人 的事情は捨象されているわけで、不特定の相手に対して「匿名のそっけなさ(ご先祖様万々歳  第1話)」で文章が綴られているわけです。これが Gesellschaft の 原理となるのですが、共同体としての Gemeinschaft はそうではありません。一般貨幣は Gesellschaft において威力を発揮しますが、地域通貨は Gemeinschaft において用いられべきものです。現代に おける一般貨幣のみの流通は Gesellschaft にとっては有効ですが、Gemeinschaft に対しては時として破壊的に作用することがあり ます。これは一般貨幣と地域通貨との棲み分けを考える上で重要なことかと思います。     

 話はそれましたが、お金による均質社会は一つの矛盾を含んでいます。それは社会を計画的にスムーズ に運用するためには個人を匿名の均質状態にした方が良いのですが、それでは社会はジリ貧状態に陥ってしまいます。というのも、社会は常に変化する歴史の中 で自己を維持していますが、均質的な要素は世の中の不確定な変化に適応することができないからです。まさに、「Ghost in the Cell」の「特殊化の果てにあるのはおだやかな死」(私のHP 《Anime Key WORDS Hunter》 の参照)というところでしょうか。ここで問題になるのが例の不純物の原理です。不純物は計画を理想的に遂行するには邪魔者ですが、それ自身の不確定性が世 の中の不確定の変化に対する創造的適応力を秘めている点で不可欠の存在です。つまりは、社会は確定的な均質性と不確定な不純物とのバランスによって成り 立っているのです。エヴァの赤城リツ子博士の言葉を借りれば「ホメオスタシスとトランジスタシス、男と女」、うる星で言えば、あたるとラムとのバランスと いうところでしょうか。

 実は、不純物がうる星の世界で「アホ」と呼ばれるのは、普通の社会がかなり均質性を要求しているか らです。いずれにしても、うる星の世界ではこのアホのパワーが絶大な威力を発揮します。この世界はラムのために存在するような世界なのですが、ラムが面倒 ではなくあたるを好きなのは、彼女が均質的で外面的なパワーよりも内なるアホのパワーを求めていたからかもしれません。何しろ、彼女の元婚約者のレイは普 通の外見は美青年ですが、地が出るとバカ牛でしたから・・。

 実は、私がアメリカの貪欲さにさほど嫌悪感を持たないのも、そこにアホのパワーを感じるからです が、この貪欲さには現実の社会の中では大きな落とし穴があります。それについても「うる星やつら」の中に面白い話があるのでご紹介しましょう。
 
 

第六段: タコ焼き vs 金塊
 

 うる星ワールドには「効用が 露出する」という友引町の法則が及んでいますが、どこでも均等にそれが及んでいるわけではありません。特に、面倒の影響力の強い面倒邸内で はそうです。たいていは了子の横槍であたるに有利に事は展開するのですが、「第123話 大金庫!決死のサバイバル!!」だけは面倒の純粋なテリトリーで あたると面倒とが対決することになりました。この回では、2人が共にビルが丸ごと入るほどの面倒の巨大金庫に閉じ込められ、あたるの持つ唯一の食糧である タコ焼きをめぐって死闘が展開されます。面倒にとってタコはステイタスシンボルですが、「まわりのメリケン粉よこせ」ということで、面倒の持っている金塊 等の財産とタコ焼きとが賭けの対象となるわけです。

 例のごとく、この場面ではあたるが絶対的に優勢で、タコ焼きをダシにほとんど面倒の財産をせしめて しまいます。問題はそのあとで、2人は脱出のために苦心惨憺するのですが、そのためにトラップにかかって最後は金庫全体が水浸しになってしまいます。

 面倒は、当然の事ながら、賭けを無効にするためにさまざまな手を使ってきます。「自力で持っていけ ないなら、賭けは無効だ」と言ってみたり、溺れるあたるを金塊2個で助けてみたりするわけですが、最終的には金庫内の空気が賭けの勝利を無効にします。つ まり、「この金庫は僕のものだ、この金庫の中のものは僕のものだ」というわけです。

 ここで問題になるのは所有権です。公序良俗に反した戦いではありますが、タコ焼きと金塊との所有を めぐって賭けが成立し、最終的には金庫内の空気の所有権がこの賭けをチャラにします。一般貨幣の世界はまさに所有を前提によって成り立っていますが、この 所有権は一体どこまで主張できるのでしょうか。確かにタコ焼きも金塊もそれぞれあたると面倒の所有物ですから、理論的に賭けは成り立ちます。しかし、面倒 が金庫内の空気の所有権を主張することは果たして妥当なのでしょうか。というのも、普段、空気は人間の意志でどうこうされるものではなく、たまたまそこに あるものだからです。

 空気の場合は特に目立ちますが、多くの自然物は人が努力して作り上げる前からそこに存在します。逆 に言えば、それらは人がつくり得ないものです。ですから、本来は神様からの賜りものというわけで、人が勝手に処分できる対象ではありません。また、たとえ 人がつくり出したものであっても、それは何らかの自然物をもとに出来あがっているのですから、その処分には何らかの制約がつけられてしかるべきでしょう。 最近、新たな法案の提出に伴う臓器移植の話題がクローズアップされていますが、このことは人間の身体が、人間そのもの存立の前提となる人のつくり得ない自 然物であるが故に、単なる所有物として処理できない対象であることを物語っています。

 一方、このことは知的所有権の分野でも違った形で問題を引き起こします。確かにその知的対象を作っ た誰かにはそれなりの報酬があってしかるべきですが、その影響の及ぶ範囲が限定されない以上、無制約な知的所有権の主張は面倒が金庫内の空気の所有権を主 張した以上に異常なことのように思われます。仮にピタコラスがピタコラスの定理の知的所有権を主張したらどうなるでしょう。確かに知的所有権には期限があ りますが、その及ぼす範囲が不確定な以上、実体的なモノと同じレベルで所有権を主張することはおかしなことに思えます。というのも、モノは使用されて行く うちに自然と劣化していきますが、知的所有権の対象となる情報にはそれがないからです。

 実は、一般貨幣としてのお金にも同じことが言えます。これも情報と同じように劣化しないので、お金 をそのまま保存しておくことが出来ます。問題はこの保存によって効用の露出が妨げられること、そして利息を通じて持てるものがますます持てるものになるこ とです。面倒は金塊を賭けの対象にしましたが、大金庫の中にでも閉じ込められなければタコ焼きの効用と釣り合うことはなかったでしょう。効用が露出するう る星ワールドに面倒が何とか自分の金庫内の空気の所有権を以って対抗できたのは、まさにそこが面倒最強のテリトリーだったからです。現実社会が面倒の世界 に近いことを考えると、このことの意味するところはかなり深いものがあります。効用が凍結され露出しない社会では、それに代わって人の観念の産物である所 有権が力を持ちます。それは経済力の所有であったり、権力の所有であったりするのですが、人は本当の効用とは無縁なこれらの人間社会の創造物(想像物)の 産物に翻弄されるわけです。ゲゼルという経済学者はマイナスの利子の必要を説いたそうですが、それは効用が効用として素直に露出できる条件を提示したもの かもしれません。
 
 

 おわりに

 それはともかく、うる星ネタでの地域通貨の話は今回で終りです。よくもまー、アニメネタでここまで 出来と思います。それだけ私のうる星に対する思い入れが大きいということでしょうか。ここにこのHPの管理人である通称、響子さんに感謝の意を表すると共 に、彼女が描いた「ロビンソンの話」の漫画版を紹介いたします。この「ロビンソンの話」は地域通貨の考えの基礎となる経済学の考え方の基本を分かりやすく 示したものですが、響子さんの努力でマンガ版が完成し、ドイツのローバーとさんの協力で英語バージョン、ドイツ語バージョンも出来ています。日本のマンガ やアニメの新たな可能性を切り開いたものとして、将来歴史の教科書に載るかもしれません。

   マンガ日本語版「ロビンソンの物語」     http://www1.gateway.ne.jp/~kokiriko/shumi/manga/robin/rob_000.htm

   マンガ英語語版「ロビンソンの物語」     http://www.alles.or.jp/~morino/robin-e.htm

   マンガドイツ語版「ロビンソンの物語」    http://userpage.fu-berlin.de/~roehrigw/gesell/robinsonade/ROBDE_01.htm

   「ロビンソンの物語」オリジナル日本語訳  http://www.oec-net.or.jp/~iwata/Robinson.html
 
 

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