Anime Key WORDS Hunter



 

『己の物語を演じつつ、しかし人はその物語りの作者たることは決して許されない。近代の苦悩が分かったか小僧! 』(「御先祖様万々歳(3)−虎視眈々−」より室戸文明のセリフ)

 このセリフきっとどっかに出典があるんでしょうね。近代社会のモットーは「自由」でしたけど、人が頑張って造った近代社会の中で人は自由であることは極めて難しい。普通は造る方が造られる方を制約するものですが、近代社会と人間との関係ではこの関係が逆になってしまったようです。しかし、これは自然と人間との関係についても言えるわけで、自然は人間を創造しましたが、今人間によってかなり破壊されています。私は本来の自然を「第一の自然」、人間を「第二の自然」そして社会を「第三の自然」と呼びますが、後の方が前の方をないがしろにして暴走することを「疎外」の一形態とみています。環境破壊で一番被害を被っているのは人間自身かも知れません。


『魔女の血か、いいね。私そうゆうの好きよ。・・・おかげで苦労もするけどさ。 』(「魔女の宅急便」より ウルスラのセリフ)

 私は宮崎アニメはあまり見ないのですが、「魔女宅」だけは何度も見ました。宮崎さんは最近、環境問題など大きな問題をよく取り上げてますが、私は等身大のキャラが主人公のこの作品が一番好きです。上のセリフは宮崎さんの本音が珍しく出ている気がします。今まで日本には努力と根性で頑張る人たちはたくさんいましたが、なぜ努力と根性が続くのかと考えるとやはり「血」に行き着いてしまいます。自分自身も自然の一つなのですから、その血に逆らって努力は出来ません。「まず隗より始めよ」で、環境問題の解決はまず自分を見直し大切にすることから始めねばと思います。
 なお、「血」についてはカッコウの托卵について述べられた、次のようなせりふもあります。
『げに恐ろしきは血の教え!』(「御先祖様万々歳(1)−虎視眈々−」より)


『NO FILE』(「パトレイバー 劇場版」より)
『NEGATIVE CONTACT』(「パトレイバー 2」より) 

 これはセリフではありません。『NO FILE』は映画のおわりでコンピューター画面に現れていた表示の文句で、『NEGATIVE CONTACT』はスクランブル機からの「対象を発見できず」の意味の報告です。私はパトレイバーの2つの映画のそれぞれをこの2つの文句で呼称しています。いずれも、意識の主観的世界とその外の客観世界との行き違いを象徴していると言えるでしょう。夢と現実の関係の不確かさを表現するのは押井さんの十八番ですけど、それが物語を綴ることが出来るのも2つの世界が共に実在性を持っているからです。客観的世界は意識に対して所与として厳然と「在り」ますが、主観的世界も人が生き行動する限り、客観的世界に対して厳然と存在します。もしこの二つの世界が何の行き違いもなく存在したら人間のみならず、生物と無生物との境界も無意味になってしまうでしょう。ま、これを自覚できるところに人間の人間たるところがあり、またその苦しみおかしさもあるのですが・・。ところで、この二つの世界の行き違いをより身近なレベルで、つまり人々の誤解のレベルで話を長ーく引っ張っていたのが「メゾン一刻」です。これも私は結構好きでした。


『特殊化の果てにあるのはおだやかな死。 』(「Ghost in the Cell」より 草薙素子のセリフ)

 このセルフを思い出すたび、今の日本の閉息感が胸に迫ってきます。けれども、この閉息感は別に日本に限らず、近代一般に見られることでしょう。公文俊平先生は「情報文明論」という本の中で近代社会は今まで特殊化の方向に発展してきたと指摘していますが、すでにこの本でも述べられているように、この方向での発展には限界があります。しかし、競争の激しい近代社会ではより「特殊化」したものが「適者生存」の原則にかなうものでした。なぜ「特殊化」の方向に限界があるのかについては「文化と文明とについて(9)」でのべましたし、草薙のこのセルフの後に続くセリフでも明らかにされていますから、ここでは詳しく述べません。いずれにせよ、この日本において徐々にではあるけれどもこの弊害が最も顕著に認められるのは確かでしょう。不幸なことに、団塊の世代の人々の多くはこの「特殊化」の危険に気づいていませんし、時には「特殊化」の弊害を「特殊化」によって解決しようとする向きすら見られます。[ここは、どこ?わたしは、だあれ? ]でも触れましたが、ここにも物事を根っこから考えない人々の恐さが見て取れます。この人々の恐さは、今日の豊かさのために明日の種もみを食いつぶしてしまう人々の恐さです。


『リアルワールド』『ワイヤード』(「lain」より)

  「lain」というアニメに出てくるキーワードです。リアルワールドとは肉体を持った人間が生きる現実世界のこと、ワイヤードとはそれに対してコンピューターネットの中に具現した情報世界のことです。この物語では主人公である岩倉玲音(れいん)を中心にこの2つの世界の境界が無くなってしまい、最後には彼女の意識の中でとリアルワールドとワイヤードがシンクロしてしまいます。正直言って、物語としては「lain」は崩壊しています。何しろ、彼女が今まだリアルワールドで起こった出来事を最後にリセットして無かったことにしているのですから(少なくとも物理学の第二法則 [エントロピーの法則] に反しています)。けれども、この物語は「リアルワールド」と「ワイヤード」の境を極限まで否定することによって一つの真理を指し示しているようにも思います。それはいかに情報化が進んでワイヤードが肥大化したとしても、人はその中だけでは生きていくことが出来ず、リアルワールドの中で自分の意識を越えた他者を必要とし、その他者とのコミュニケーションなしには生きていけないと言うことです。
 最後のオチはここでは明かしませんが、これは押井さんが「ビューティフル・ドリーマー」以来、描き続けた世界を新たに探究し直した作品と言えるでしょう。演出には押井さんの「迷宮物件」の影響が見られますし、「Ghost in the Cell」以来の「記憶」の問題も取り上げられています。物語は崩壊していますが、私はエヴァのように新たに話を書き換える気にはなりませんでした。いずれにしても最後のオチのためのネタは同じになるからです。
 最近は物語をわざと崩壊させて演出だけで偉く見せる作品が増えています。近頃はやりのサイコドラマにはこの手ものが多いのですが、「lain」についてはそのような不快感をあまり持ちませんでした。それは物語の方向が間違っていなかったこともありますが、主人公の岩倉玲音のキャラがいい意味でリアルだったからかも知れません。私はこのキャラがとても気に入っているのですが、彼女が「紅い眼鏡」の謎の少女と重ね合わさって見えるのは私だけではないでしょう。

P.S.Lain については、他にも私のHPで触れていますので紹介します。
   [「ことば」のこと] の中の<Jarvis 通信 9月中旬>
   [必殺読書人:121 日本の哲学] の舩山信一さんの「日本哲学者の弁証法」の紹介の部分
   [必殺読書人:360:社会一般 ] の公文俊平さんの「情報文明論」の紹介の部分
   また英文ですが [WHY: Japanese Animation ]
 
 

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